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絹更月怪異録~摩楼館怪奇事件簿~

澤村有希

第1話 暴力 (3)

(わたしが悪いんだ。だから殴られるんだ)

 彼の暴力を正当化してしまっている時すらあった。

 更にそれが愛情の裏返しであると、思い込むようにすらなっていた。

 だから、別れよう、逃げようという選択肢が浮かぶことがあったとしても、それを実行に移すまでは行かなかった。


 同棲から半年以上過ぎた頃だった。

 顔を酷く殴られた。

 このとき、何故殴られたのか、彼女はよく覚えていない。

 寝転び、テレビを見ていた彼に何かを話しかけた。その後、突然殴られた。

 馬乗りになられ、右手の甲で右の顔面を数度、強く殴打される。痛みはすぐに麻痺し、代わりに右の視界が白くなっていった。

 気が済んだのか、彼は元通りに寝転がるとテレビに目を戻し、笑いだした。

 すぐに顔の右半分が腫れ上がった。

 鬱血しているのか、瞼が開かなくなり、遠近感が失われる。氷で冷やすと、今度は青紫の痣になってしまった。外を歩くことが恥ずかしいと感じるほど目立つものだった。

 問題はそれだけではない。それ以来、右目の視力が極端に落ちてしまった。

 遠くも近くも右側だけがぼやけて見える。集中しなければフォーカスが合わない。とても不便を強いられた。

 眼科にかかったが傷も何もないという診断だった。念のため脳外科へ行って検査をして貰ったが、脳にもどこも異常はなかった。

 視力の低下は原因不明のままだった。

 眼鏡かコンタクトにすべきか決められず、時間だけが過ぎていく。

 左目は問題がないせいで、なんとなく先送りにしてしまった。


 同棲を始めて一年経った頃。

 その日、小久保はどこかへ出かけており、久しぶりにひとりの時間だった。

 硝子テーブルの上に雑誌を広げ、ベッドに凭れながらぼんやりと眺める。

 可愛い服やバッグ、靴の写真を眺めながら、欲しいなと思った。

 しかし、買えないなとも同時に考えた。

 同棲相手の浪費癖のせいで、すでに生活は困窮していた。部屋の中は彼の私物で溢れ、すでに自分のスペースすらなくなり始めていた矢先だ。

「……何?」

 右側で何かが動いた。

 視界の端から雑誌の上に何かが入り込んでくる。

 色はくすんだアイボリー、丸くテニスボールよりちょっと大きな物のようだが、それがなんであるかはっきりしない。

 そちらに視線を送ると姿を消した。

 首を捻り、再び誌面に目を戻すと、また同じような物が視界に入ってきた。もう一度そちらを見るが、やはり何もない。

 目の不調のせいだろうか。

 そう彼女は考えた。眼球か視神経に医者でも分からない問題があるのではないか。そして、その内失明、或いは脳の病気か何かで死んでしまうのではないか。改めて血の気が引く思いに駆られた。

(目薬……)

 目薬に手を伸ばす。このところ、これを常用していた。気休めだが何もしないよりマシだと自分を誤魔化す道具にしていたのだ。

 数滴眼球に落とし、何度か瞬きをする。余分な液体を拭い取り、何気なく壁を見た。

 そこに──大きなものが立っていた。

 人ひとりほどあるくらいか。

 くすんだアイボリーで細かいディテールは分からない。

 長い楕円形で凹凸がない様は、まるで抱き枕のようだ。

 手も足もないそれは、ひっそりとそこに立っているという印象だ。

「──え……」

 我に返った途端、右目に激痛が走った。瞼の中に角張った石の粒を入れ、その上から思い切り捏ね回したような痛みだ。

 思わず声を漏らし、前に突っ伏した。

 痛みはほんの数秒程度で去ったが、瞼の中に違和感が残る。すぐに目を開けられない。

 その時、何かが動く気配を感じた。

 すぐ目の前、テーブルを挟んだカーペットの上を、大きな物が引きずられているようなイメージか……。

 瞬間、頭の中にある映像が浮かんだ。

〈麻の布で作られた人形〉が〈人ひとり入りそうな大きさの赤黒く汚れた頭陀袋〉をカーペットの上で引きずっている。

 人形は服も何も着ていない。頭はセミロングくらいの髪の毛があった。ヘアカタログに載っているような髪型で、明るいブラウンのカラーだ。

 子供の頃に住んでいた田舎にあった、やけに凝って作られたのような印象があった。

 引きずられている袋の中には何かが入っているようだ。それも何か重い物だろう。

 イメージそのものは解像度の低い映像をそのまま脳内に映写されたような感覚でしかない。

 しかし、何故か現実感というのか、言い様のないリアルを肌に感じた。

 傍で動く何物かの気配と繋がったせいかもしれない。

 顔を上げられなくなってしまった。

(もし、何かが……本当にそんなものが居たら、どうしよう)

 指先から全身にそんな風に恐れが先走った。

 逡巡するうち、音が止み、気配が消えた。

 恐る恐る顔を上げた。

 何もいなかった。

 知らず知らずのうちに肩が激しく上下している。息が苦しい。汗で肌がベタ付いている。身体が小刻みに震えていた。

 視線を落とすと、何かを引きずったような線が硝子の天板越しに見えた。

 桃色のカーペットの毛足が逆立って、太い線を描いている。人の胴体くらいの太さがあった。それはカーペットの端から端を一直線に横切っていた。

 こつんと指先に何かが触れる。

 置いたはずの目薬がテーブルの真下に落ちていた。

 その樹脂製の容器は完全に潰れていた。まるで誰かに踏みつぶされたようでもあった。

 中身が漏れたのだろう。カーペットは冷たく濡れていた。


 それでも自分が見た物は、目の異常が見せたものだと判断した。

 視力の悪化は止まらなかったのだ。

 右目が常に霞み、ぼやけている。眼科にかかっても改善はされず、気が付くといつも目を擦っていた。

 そして、浩二のDVは凄惨さを増していた。

 殴る蹴るだけではなく、道具を使うようになっていた。

「手がイテェからな……」

 そう言ってはその辺りにある物を投げ付けてくる。また、ベルトなどで叩かれた。革製で鋲や金具が付いたものを全力で振るう。全身が蚯蚓腫れだらけになった。

 同時に言葉の暴力すら日常化していた。それは人格否定そのものだった。加えて、浩二はこんなことも口走るようになっていた。

「テメェが逃げたら、テメェのトモダチをヤリに行くからな……」

 携帯のアドレスから何から全てが彼の手の内だった。

 抵抗する、逃げるということはほぼ頭になかった。

 二重拘束──ダブルバインドというものだったのかもしれない。

 この頃、目を閉じると右目に何かが浮かぶようになっていた。

 特に明確な形があるわけではない。ぼんやりとした光というのか、影というのか。瞼のすぐ裏に何かが投影されている、そんな雰囲気の物だった。

 何故かそれが酷く優しい物に思えて仕方がなかった。

 暴力を振るわれたり、心ない言葉で傷つけられたりしたとき、瞼を閉じた。

 現れるその何かに、無意識に心を癒して貰おうとしていたのかもしれない。


 浩二は何も言わずに部屋を出て行き、数日帰ってこないことが増えた。

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