絹更月怪異録~摩楼館怪奇事件簿~

澤村有希

プロローグ / 第1話 暴力 (1)




プロローグ




 段下の駅から出ると、周囲は薄い黄色へと色づき始めていた。

 太陽が傾くのが早い。ビル風なのか、冷たい空気の流れが首筋を舐めていった。思わず肩をすくめてしまう。ジャンパーのジッパーを上げ、バッグを肩に掛け直すと、いつものように水道橋方面へ足を向けた。

 雑踏の隙間を逆流しながら大股に歩いていく。幹線道路沿い、出版社が並ぶ歩道から一本裏側に入り、数ブロック進むと見慣れた建物が姿を現した。

 レトロモダンな外観の喫茶店だ。

 その名を、ろうかんという。

 聞けば、かの探偵小説の主人公、フィリップ・マーロウから名付けられたらしい。また〈摩天楼に佇む珈琲の館〉という意味も掛けているようだ。

 半年ほど前に偶然見つけた店である。何度か仕事の打ち合わせなどで使っていく内、なんとなく気に入ってしまった。

 以来、よく利用している。

 あるところから移築してきたという大正時代の二階建てで、濃い茶色の柱と白い壁の外観はどことなく往時の空気、匂いを感じさせる雰囲気がある。当時の丁寧な仕事ぶりが随所で窺えるからかもしれない。

 中は二人がけのテーブルが四つ、あとはカウンター席が八つ。席と席の間を極力広く取ってあるせいか席数は少なめという、ある意味この辺りでは珍しい店だ。

 足早に歩く会社員たちをかわしながら、店の前にある石段を数段登り、分厚い木製ドアの前に立つ。少しだけ力を入れて、ドアの取っ手を引いた。

 暖かい空気と共に、音量を抑えたジャズロックと珈琲の香りが流れ出る。

「おう、如月きさらぎィ。やってるかァ?」

 ややあって返事が返ってくる。

「──あァ、いらっしゃいませ、一条さん」

 テーブル席の向こう、黒光りした紫檀のカウンターの後ろで立ち上がる影がある。

「っと」

 背の高い青年が、前髪をかき上げながら声を出した。その手には文庫本が握られている。彼は皮肉を含んだように口の端を上げた。




第一話 「暴力」




 カウンターの向こうから現れたのは、この店の店主代理だ。

 名前を〈如月きさらぎしょうろう〉という。

 旅に出たオーナーに店を任されているというが、親戚でも何でもない。全くの赤の他人である。本人曰く、オーナーとは偶然出会い、その時ウマがあったからこうなったのだというが、それが本当かは知らない。そもそもオーナーを知らないのだから、確かめる術もない。

 二十代後半。ついでに言うと俺と同じく独身だ。長身痩躯で、作り物のような端正な外見をしている。全身が引き締まり、しなやかな筋肉が服の上からでも見て取れる。そのおかげか上着無しのギャルソン服が憎たらしいほど似合っていた。

「ああ、今日もインタビュー仕事、ここでやるんですね」

 軽いため息混じりに肩を軽く上げた。

「そうだよ。こないだの人の続き」

 如月は返事をせずに文庫本をカウンターの裏に置いた。割合丁寧に手を洗った後、ほうろうのケトルを火にかける。ちらと見えた文庫の表紙に〈怪しい来客簿 色川武大〉とあった。面白い本で俺も大好きだ。というより色川武大ファンだ、と言った方がいい。

 色川武大にはもうひとつの名前〈阿佐田哲也〉もある。この筆名で相当に面白い勝負師小説を書いているが、こちらも実にいい。亡くなったことが悔やまれる作家である。

「へえ、お前、怪しい来客簿読んで……」

「いえ、どんな仕事で使おうと文句なんてないですよ。いつも売り上げ協力ありがとうございます。──一条さんが本日四人目のお客様ですからね」

 こちらの言葉を遮るように淡々と返してくる。おかげで話が続けられない。

「しっかし、相変わらず流行ってねぇ店だな。立地条件は良いと思うんだがなぁ。店主代理のせいかもなぁ。愛想がないし、失礼だし、客を客と思っていないし。まあ、おかげで取材はやり易いから助かるよ」

 代わりに分かり易い悪態をつくが、彼は丸っきり無視のまま棚に手を伸ばした。

「さっき、煎ったんですよ」

 豆の入った密閉瓶を取り出しながら、こちらを見ずに話しかけてくる。

「焙煎度合いが……って、一条さん、僕、いつも思うんですけどね」

「ああ? なんだよ?」

 スツールに腰掛けながらぞんざいに答える。

 如月は水につけられたドリップ用のネルを冷蔵庫から取り出し、こちらを振り向いた。

「たまには違う服着たらどうですか? 毎回毎回ミリタリー・マニアか、アウトドア趣味の人か、釣り人にしか見えませんよ。ミリタリー系ジャンパーにネルシャツ、ジーンズ。ワーキングブーツ。そうでなければトレッキングシューズ。おまけに防水耐圧の腕時計」

 その目は明らかに呆れている。いや、軽蔑している。

「悪いかよ。俺に似合いそうなもんってのはな、こんなもんなんだよ。でも、コットンハーフパンツだって持っているぜ。レザー貼り付けの」

 自分で自分のことは分かっている。百八十二センチ、八十五キロ。大学時代ラグビーをやっていたせいで、全体が太い。顔だってゴツゴツしているし、髪も量があって硬い。何もしなくとも逆立つ。世にあるようなファッション性の高い服など似合わないのだ。

「それにいつも洗濯した物に着替えてるってぇの……。だいたいな、男の服ってのはだ、機能性重視がポイントなんだよ。そういうお前だっていつもいつも同じ服じゃないか」

 如月はいつもギャルソン服である。ノーネクタイで白いワイシャツの袖を軽く折り曲げている。着崩したスタイルだ。これが妙に似合っているのが癪に障る。

 身長は自分より僅かに低いが、手足が長くスマート。顔に至ってはまさに〈月が如く〉整っている。モデルか俳優だと言われても、誰も疑わないだろう。

 まさに自分と逆のベクトルを行っていると言える。

「僕のは仕事服です。だから毎日同じ格好でも良いんですよ。もちろん毎日着替えていますよ? ──僕が言いたいのは、三十七歳、働き盛りの男の格好か、ってことです」

 俺は言わば自由業、フリーランスのライターだ。

 雑誌記事など、少々の文章を売って生きている。言わば売文家といったところか。収入は安定していないし、望まない仕事でもやらなければ生きていけない。

 代わりにどんな服を着たとしても、誰からも文句は出ない。

 大体、かっちりした服が苦手で、ワイシャツにスーツ、その上ネクタイなんて締めたら窒息しそうになるだろう。今やっているような格好がいちばん使い勝手が良い。年甲斐もなくと言われようが、なんと思われようがこればかりは譲れない。

「俺にはこれが似合いの格好なんだよ」

 頭を掻きながら吐き捨てるが、如月は聞いていないようだった。

「新しいブレンドを考えてみたんです。味を見て下さい。まだ時間あるんでしょ?」

 腕時計を確かめる。

「ん? ああ。約束まであと三十分ある。早めに来たからな」

 煎りたての珈琲豆を挽くとき特有の、胸が空くような香りが漂いだしている。

 初めてこの店で飲んだ珈琲は、それはそれは酷いものだった。例えるなら腐った茶色い水。飲み下して良いのかさえ分からないような代物だった。

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