恋愛遺伝子欠乏症 特効薬は御曹司!?

ひらび久美

第二章 局さんの仮面 (2)

「で、副社長は赤城社長のいとこの斉藤ゆうだ」

 そこまで聞いて亜莉沙はハッとした。その様子を見て航が満足げにうなずく。

「その副社長の息子が俺。あ、ちなみに次男だから」

「そのようですね。お名前をうかがった時点で気づくべきでした」

 人事課から書類が回っていたのを思い出した。東京本社の現在の企画営業部長が埼玉営業センターのセンター長に就任し、代わりに大阪支社から新しく企画営業部長がやってくることになっていた。

「ま、珍しい名字じゃないからな」

 航がため息をついて続ける。

「俺としては大阪支社で働き続けたかったんだけど、親父に本社に呼ばれてさ」

「つまり栄転ってことですよね?」

 亜莉沙の言葉に、航は苦い表情になった。

「そう見えるかもしれないけど、俺にしてみれば人生のせんだよ」

「はい?」

 意味がわからず亜莉沙が眉を寄せると、航が軽く首を振った。

「あと四ヵ月で三十一歳になるのに、親父は俺が独身なのが気に食わないらしい」

 今は三十歳代でも独身の男性は増えているが、そこは家庭の方針だとか事情だとかがあるのだろう。そう思って亜莉沙は黙って耳を傾ける。

「親父も兄も三十歳で結婚しているから、俺にも四ヵ月以内に身を固めろってことで、本社に呼んで見合いだの何だのさせるつもりらしい」

 不満げな彼の言葉に、亜莉沙は事務的に答える。

「では、今日こうして来られたのは、花嫁候補を探すために、うちの社の女性についてお知りになりたいからですか?」

「本社の女性について知りたいというのは当たっている。とはいえ、俺には結婚する気はさらさらない。だから、形だけ俺の恋人になり、俺の遊びを見逃してくれる──さらには俺が遊んでいるときに親父たちにバレないようにアリバイを作ってくれる──女性を教えてほしい」

 航の言葉に、亜莉沙は心底呆れて首を振った。

「残念ですが、私には心当たりはありません」

「なぜ? お局様ってのは社内で誰と誰が付き合っているかとか、誰が遊び人で誰が独り身かとか、把握しているもんだろう?」

 亜莉沙は顔の前に人差し指を立てた。

「そもそも、まず第一に、私はお局様ではありません」

 そう言って指を二本に増やす。

「第二に、私は社員の恋愛事情を把握してなどいません。よって、斉藤部長のご要望にはお応えいたしかねます」

 きっぱり言えば諦めてくれるかと思ったのに、航は濃い茶色の目にいたずらっぽい光を浮かべて亜莉沙をじっと見た。

「ところで、大阪の恋人は元気?」

「は?」

 突然何を言い出すのだろう。亜莉沙が怪訝そうにすると、航が意味ありげに笑いながらぞんざいな口調で続ける。

「局さんの仕事が終わるまで待ってたときに、あんたたちの会話が偶然聞こえてきたんだけど、局さんには大阪に恋人がいるんだってね。その人、大阪のどこに住んでるの? 俺、もしかしたらどこかで会ってたりしてね。仕事は何をしてる人?」

 航にニヤニヤ笑いながら見下ろされて、亜莉沙はたじたじとなる。

「そ、そんなこと、斉藤部長には関係ないと思います」

「へぇ」

 航が笑みを大きくして、さらに亜莉沙に顔を近づけた。

「客観的に聞いていると、あれ、いかにも噓っぽいよなぁ。遠恋の会えない彼氏なんて、モテない言い訳、彼氏がいない言い訳だろ?」

「べっ、別にそんなつもりじゃ」

「じゃ、どういうつもり?」

「ご、合コンとかに誘われるのが嫌だから……」

 そこまで言って亜莉沙はハッと口をつぐんだ。自ら噓だとバラしてしまったようなものだ。下唇を嚙む亜莉沙に航が言う。

「ほら、やっぱり噓だ。あんた、そんなくだらない噓で同僚を騙して良心が痛まないわけ?」

 〝彼氏がいない言い訳〟にしているわけではないが、周囲の人に噓をついているのは確かだ。初対面の航に見抜かれたことに亜莉沙は内心うろたえたが、メガネを持ち上げ、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。

「斉藤部長がお気になさることではないと思います」

「ちょうど良くない?」

 航が口角を上げてニヤリとするので、亜莉沙は嫌な予感を覚えた。

「な、何がですか」

「あんたの恋人、大阪で働いてることになってるんだろ? しかも今聞いた感じじゃ、どこで働いているとか詳しい設定はしてなさそうだ。俺、大阪から転勤して来るし、あんたの恋人になってやるよ」

「結構です」

 亜莉沙はぴしゃりと言った。こんな上から目線で横柄かつ強引な男、上司で御曹司だとしても、絶対にお断りだ。

 航はなぜ断られるのかわからない、といった様子で首を傾げた。

「どうしてだ? あんたは噓を本当のことにできるんだぞ?」

「私は別に噓を本当のことにしなくても構いません。それに、斉藤部長の提案は、噓に噓を重ねるだけのことだと思います。部長はご自分の性格にお似合いの、秘書課の華やかな方にお願いすればいいじゃないですか」

 亜莉沙が皮肉をこめて言うと、航が強い眼差しで彼女をじっと見た。

「それじゃダメだ。俺はあんたがいい」

 航の言葉に、亜莉沙の鼓動が不覚にも乱れた。

「は?」

「昼間、挨拶がてら秘書課も覗いてみたけど、俺の顔を見て肩書きを聞いたとたん、みんな媚びるような笑顔になるんだ。玉の輿を狙ってるってのがミエミエだよ。俺が欲しいのは、俺が遊んでも文句を言わない形だけの恋人。彼女たちならいずれ本物の恋人になろうとする。そういうのは困るんだ。あんたは真面目そうで、社内でも信頼されている。親父たちも恋人として認めるだろう。それに」

 航がわずかに目を細めた。その思わせぶりな表情に、亜莉沙はつい続きを促してしまう。

「それに、何なんです?」

「これが一番重要なんだ。あんたには恋愛遺伝子が欠けている」

 その言葉に亜莉沙は目を見開いた。

「れ、恋愛遺伝子?」

「だってそうだろ。その色気のないダボッとしたパンツスーツ。最低限の薄化粧。今どきありえないくらい固くまとめた真っ黒な団子ヘア。おまけに遠恋の彼氏をでっち上げているときた。診断結果は恋愛遺伝子欠乏症だ」

 普通の人なら「失礼だ」と言って怒り出すだろう。だが、亜莉沙は恋愛対象にならないようにあえてこのスタイルを貫いてきたのだ。怒る理由などない。

「なかなかの観察眼ですね。斉藤部長が企画営業部長にふさわしい方だということは、よくわかりました。ですが、お引き受けいたしかねます」

 もう男性とはかかわれないし──かかわらないと決めたのだ。亜莉沙はそっけなく言って、パソコンをシャットダウンしようとマウスに手を乗せた。そのすぐ横に航が片手をついて、覆い被さるように亜莉沙を見下ろす。

「なあ」

 その威圧的な態度に、亜莉沙は背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。鼓動が速くなり、額にじわりと冷や汗が浮かぶ。

「あんたは無理難題にもノーとは言わない頼れる局さんなんだろ? 頼むよ」

 とても頼んでいるように思えない口調と態度に、亜莉沙はふいっと顔を背けた。その耳に航が口を近づけて言う。

「お願いだ、リリー」

 その瞬間、亜莉沙の全身から血の気が引いた。

「やめて……ください」

 亜莉沙は航から逃れるように、座ったままキャスター付きの椅子を横に滑らせた。彼女の蒼白な顔を見て、航が心配そうに近づいてくる。

「貧血か? 大丈夫?」

「はい……」

 亜莉沙はそれ以上近づかないで、というように右手を上げて航の動きを制し、左手を胸に当てて深呼吸を繰り返した。速まっていた鼓動が徐々に落ち着き始め、亜莉沙はもう一度深呼吸して、額に浮いた嫌な汗を拭って顔を上げた。

「失礼しました。もう大丈夫です」

 航が気遣わしげに眉を寄せる。

「まだ顔色が悪い。心配だな、家まで車で送ろう」

「いいえ、結構です」

 亜莉沙はデスクの下からバッグを取り出して立ち上がったが、急に立ち上がったせいで、ふらりとよろけてしまった。

「危ないっ」

 抱き留めようとするように広い胸が迫ってきて、亜莉沙は恐怖心から悲鳴を上げそうになった。それを、バッグを顔に押し当て、かろうじてこらえる。

「す、すみません」

 ウエストを支えてくれる手から逃れようと身をよじらせたとき、顔の前のバッグを取り上げられた。亜莉沙を見つめているのは、心配そうに細められた優しい瞳。今までの〝俺様御曹司〟な態度からは、想像もつかない眼差しだった。

「人の親切は素直に受け取ること」

 それだけ言って航が歩き出したので、バッグを取り上げられてしまった亜莉沙は、彼に続くほかなかった。

「恋愛遺伝子欠乏症 特効薬は御曹司!?」を読んでいる人はこの作品も読んでいます