話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

恋愛遺伝子欠乏症 特効薬は御曹司!?

ひらび久美

第二章 局さんの仮面 (1)

第二章 局さんの仮面



「どうしよう、もう五時半なのにデータ入力が終わらなーい。局さぁん」

 終業時間間際に美樹の甘えた声が飛んできて、亜莉沙は笑顔を作って振り向いた。

「どこまで終わりました?」

「サ行までです」

 派遣会社との取り決めで、美樹には基本的に残業をさせないことになっている。

「わかりました。できたファイルを共有フォルダに保存してください。後はやっておきます」

「わあ、さすが局さん! ありがとうございますぅ」

 二歳しか年下でないはずなのに、美樹はパーマをかけた明るい茶髪のせいか、その話し方のせいか、亜莉沙よりもずいぶん若く見える。

(おまけに堂々と私を〝局さん〟って呼ぶんだから)

 亜莉沙は共有フォルダから目当ての美樹のファイルを探し出し、クリックして開いた。それから、美樹から受け取った、再生可能エネルギー関連の企業名と事業概要が一覧になった紙の束を、データホルダーに挟む。

「ほんと、アリちゃんは〝総務部のノーと言わない何でも屋さん〟だね」

 佳奈子が呆れた口調で亜莉沙に声をかけた。

「わたくしでお役に立てますなら、何なりとお申し付けくださいませ」

 亜莉沙がわざとらしいほど丁寧な口調で言うと、佳奈子が小さく笑い声を立てた。

「手伝ってあげたいけど、こっちはこっちで伝票入力の仕事があるのよねぇ」

 ため息をついて佳奈子がカタカタとパソコンのキーボードを叩き始めたので、亜莉沙も仕事に戻った。

 やがて一人、また一人と社員が帰り始め、ついには佳奈子と亜莉沙の二人だけになった。昨今の節電志向で、オフィスの半分の明かりが落とされた中、先に仕事を終えたのは佳奈子の方だった。

「手伝おうか?」

 亜莉沙の方に身を乗り出して佳奈子が言った。

「いいよ、もうヤ行が終わったから。さすがにラ行以降の企業は少ないし」

「そう?」

「うん、そんなにかからないと思う」

「じゃ、遠慮なく先に帰らせてもらうね」

 そう言って佳奈子はデスクの上を片付け始めたが、ふと壁の時計を見上げてつぶやいた。

「この時間だったらりょうろうくんも終わりそうかな。久々に一緒にご飯でも食べに行こうっと」

たにざきくんとは相変わらず仲良しなのね」

 谷崎亮太郎は同期入社だが、配属先は総合建設部資材課だ。入社直後の飲み会で、体育会系の彼が、お姉さんキャラで明るい佳奈子に一目惚れしたらしく、佳奈子は何度かデートに誘われ、押しの強さに負けた形でオッケーして付き合い始めた。

「違う部署だからかな。会えそうで会えない、この適度な距離感がいいのかも」

 そう言って佳奈子が小さく笑うので、亜莉沙も笑みを浮かべる。

「最初は押しの強い彼に迷惑そうにしてたのにね」

「えへへ。でも、追いかけられるのってなんだか気分がいいわよ。愛されてるって感じがして」

「そう?」

 きっと〝追いかけられる〟のと〝追われる〟のとでは違うんだろうな、と亜莉沙が心の中で思っていると、佳奈子が真顔になって言う。

「アリちゃんの大阪の彼氏は追いかけてくれるタイプじゃないの?」

「え、あ、そうかもね……」

 亜莉沙の曖昧な口調を気にとめることなく、佳奈子が続ける。

「そんなにのんびりしていて、よく二年も遠恋が続くね。結婚の話とか出ないの?」

 合コンに誘われるのを防ぐため、亜莉沙は入社以来、〝遠距離恋愛中の彼氏が大阪にいる〟と噓をついてきた。あまり突っ込んでいてほしくないんだけどな、と思いながら、亜莉沙は答える。

「ないなぁ」

「次はいつ会うの?」

「どうかな、約束はしてない」

「噓、ゴールデンウィークも会ってないんでしょ?」

 佳奈子が信じられない、と言うように大きく目を見開いた。

「うん……」

 噓でもいいから会ったことにしておけばよかったかな。そう思ったとき、佳奈子が言った。

「私なら、そんなに会えないなんて耐えられないな。アリちゃん、ながすぎる春にならないように気をつけなよ。また飲みに行ったとき、詳しく聞かせて」

「あ、う、うん」

「それじゃ、お先。また月曜日にねー」

 そう言うと、佳奈子はバッグを肩にかけ、スマホを取り出して耳に当てながら、軽やかな足取りでオフィスを出て行く。亜莉沙がパソコンに向き直ったとき、佳奈子が誰かに会ったのだろう、彼女の「お疲れ様です」という声が小さく聞こえてきた。

 その声が消えると、部屋の中には亜莉沙がキーボードを打つ音と、パソコンのファンの音しかしなくなった。この本社ビルの上層階を占める研究開発部、電力インフラ事業部、販売サポート部、企画営業部などには、まだ人が多く残っているはずだが、給与計算業務や採用業務などのない時期の総務部では、午後七時半を過ぎればほとんどの社員が帰ってしまう。

 最後の企業のデータを打ち込み、亜莉沙は大きく伸びをした。

「んーっ、終わったぁ。見直しは月曜の朝、早めに来てやろうかな……」

 そうつぶやいたとき、誰もいないはずの背後から「手伝おうか?」と声が聞こえてきて、亜莉沙は飛び上がらんばかりに驚いた。振り向くと、オフィスの入り口の戸柱にもたれて一人の男性が立っている。意志の強そうな切れ長の目が印象的な、整った顔立ちの三十歳くらいの男性で、すらりとした長身に細身の黒のスーツがよく似合っていた。

 総務部総務課の亜莉沙は、同じ総務部でも人事課の社員ほど、社内の人間を把握していない。見たことがない顔なので、ものすごく上の役職の人間か、途中採用の新入社員かもしれない。年齢からすれば後者かな、と思いながら、亜莉沙は丁寧な口調で訊いた。

「失礼ですが、どちら様でしょう?」

 男性は大股でオフィスを歩いてきて、亜莉沙の隣のデスクに腰を下ろした。長い脚を気だるそうに、まるでもてあましているかのように組んで、亜莉沙を見る。

「週明けの月曜付けで大阪支社から転勤してくるさいとうわたるだ。局さんってキミのことだよね?」

 斉藤航と名乗ったその男性の口調に、温和な笑顔をモットーにしている亜莉沙も、さすがに少々引っかかるものを感じた。

「局ではなく坪井です」

「局さんだろ? 総務部長に〝東京本社で文句を言わずに頼み事を聞いてくれるのは誰か〟と訊いたら、局さんだと教えられた」

 確かにみんなの役に立ちたいとは思っているけれど、と亜莉沙はため息を呑み込んで言う。

「皆さんがスムーズにお仕事を進められるよう最大限に力を尽くすのが、私の仕事だとは思っています」

「それなら、局さんにぜひお願いしたいことがある」

「それでも」と亜莉沙は首を振って続ける。「初対面で私を〝局さん〟と呼ぶ方はいません」

「そう? 真っ黒な髪をいつもきっちりと団子にまとめ、メガネをかけて、地味なパンツスーツにローヒールのパンプスを合わせている。見た目は絵に描いたようなお局様そのものだけど、無理難題にもノーとは言わない頼れる社員だから、敬愛の意をこめて裏では〝局さん〟と呼ばれている、と聞いたけど」

「坪井です」

「局が嫌なら、リリーと呼ぼうか」

 航の突然の言葉に、亜莉沙の心臓がドクリと打った。

(ど、どうして初対面のこの人が、私のミドルネームを知ってるの?)

 亜莉沙は母方の祖父がオーストラリア人で、生まれたときにリリーとミドルネームを付けられ、亜莉沙自身も家族や友人からリリーと呼ばれることを好んでいた。だが、それも六年前までの話だ。高校から付属大学に進学した直後、あのことがあってからはリリーという呼び名を封印し、彼女が〝リリー〟であることを知っている人がいない場所を求めて、オーストラリアの大学に編入した。帰国後は両親の住む千葉ではなく東京で就職し、〝アリちゃん〟と呼ばれるようになったので、家族以外で彼女を〝リリー〟と呼ぶ人はいない。

(さすがに履歴書には戸籍通りの名前を書いたから、それを見たのかもしれないけど……。でも、履歴書は簡単に覗き見たりできないはず。この人、どういう人? 私の何を知っているの……?)

 亜莉沙は湧き上がってきた不安と恐怖を抑えつけようと、努めて冷静な声を出す。

「斉藤さんは週明けの月曜付けでこちらに転勤になるとおっしゃいましたね。つまり三日後です。今日こんな時間にいらしたご用件は何です? それにどうして私のミドルネームをご存じなんですか?」

 亜莉沙の問いかけに、航が口元を緩めて問いで返す。

「キミはもちろんうちの社の社長の名前を知ってるね?」

「はい、あかたいすけ社長です」

「恋愛遺伝子欠乏症 特効薬は御曹司!?」を読んでいる人はこの作品も読んでいます