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恋愛遺伝子欠乏症 特効薬は御曹司!?

ひらび久美

第一章 お守りメガネ

第一章 お守りメガネ



「噓ぉっ、どうしよう!」

 明るいオフィスの中でパソコンに向かっていたつぼは、後ろの席から聞こえてきた悲鳴のような声に反応して、さっと振り向いた。

なかさん、どうしたんですか?」

 総務部の派遣社員、仲野が焦った表情で、エアクッションで包んだ四角いケースを差し出した。

「さっきのバイク便の封筒に、CD—Rを入れ忘れちゃったんですぅ!」

 亜莉沙は弾かれたように立ち上がった。

「貸してくださいっ。追いかければきっと間に合います!」

 言うやいなや、美樹の手からCD—Rケースを素早く抜き取り、オフィスのドアから飛び出した。エレベーターホールまで走って、下ボタンを押しながら階数表示を見上げたが、エレベーターはまだ十一階にいる。

「階段を使った方が早そう」

 亜莉沙はホール横の屋内非常階段のドアを勢いよく開け、パンプスの音を響かせながら、三階から一気に駆け下りる。

(絶対にあのバイク便に乗せないと、印刷に間に合わないんだってばっ)

 亜莉沙は必死の思いでビルのエントランスから飛び出した。道路脇に、鮮やかなオレンジ色の荷箱を積んだバイクを見つけて、今まさに発車しようとしていたドライバーの腕に飛びつく。

「うわあっ」

 ヘルメット越しに、ドライバーの驚いた顔が見える。

「す、すみませんっ。これっ、入れ忘れちゃったんですっ」

 亜莉沙は息を切らしながらCD—Rを差し出した。ドライバーは瞬時に不機嫌そうな表情になり、バイクから降りて荷箱を開け、ついさっき集荷したばかりの分厚い封筒を取り出した。

「急いでるんですけどねぇ」

 ドライバーにチクリと言われたが、亜莉沙は聞き流して、封筒のガムテープを慎重に剝がす。

「申し訳ありません。すぐに済ませますから」

 その言葉通り、CD—Rを手早く封筒に入れてガムテープを元に戻した。

「よろしくお願いします」

 ドライバーは封筒を受け取って荷箱に戻すと、無愛想な声で言う。

「今度からはしっかり中身を確認してから出してくださいよ」

「お手数をおかけしました」

 亜莉沙が頭を下げて再び上げたときには、もうバイクは走り出していた。

「ふぅ。間に合ってよかった」

 額の汗を拭ってくるりと方向転換した。直後、ガンと鈍い音がして顔面に激しい衝撃が走る。

「いったぁっ!」

 目の前がチカチカして、まるで星が飛び回っているみたいだ。瞬きを繰り返してどうにか正常な視界を取り戻すと、自分が街灯の銀色の支柱に激突したことに気づいた。夢中で飛び出してきたから、どこに立っていたのか忘れていたのだ。

「なんでこんなところに街灯が……」

 ブツブツ言いながらメガネを外し、おでこから鼻梁にかけて痛む部分を撫でた。顔面を見事に強打したせいか、地味なメガネのフレームが鼻当てのところで無残にもひしゃげ、ファーストフード店のロゴのようなMの形になっている。

「ああ……」

 亜莉沙の口から悲鳴のようなため息が漏れた。

(私の大切な仮面がぁ……)

 あのことがあってから六年、文字通り肌身離さず使ってきたメガネ。いわゆる経年劣化もあるのかもしれない。

 とはいえ、この六年間ずっと亜莉沙を守ってきてくれたメガネがないのは、やはり不安だ。

「昼休みに新しいのを買いに行こう……」

 亜莉沙は落胆した声でつぶやきながら、ひしゃげたメガネをかけ直した。


つぼねさぁん、間に合いましたぁ?」

 亜莉沙が総務部のフロアに入って自分のデスクに戻ると、美樹が椅子に座ったまま振り返って声をかけてきた。亜莉沙は、影のニックネーム〝局さん〟の由来のひとつになったメガネを人差し指で押し上げながら答える。

「間に合いましたよ。今度からはしっかり中身を確認してから出してって、バイク便のお兄さんに怒られちゃいましたけど」

「すみませーん。プチプチに包んでたら、入れるのを忘れちゃってぇ」

 そう言った美樹が、今にもずり落ちそうな亜莉沙のメガネに気づいた。

「局さん、そのメガネ、どうしちゃったんですかぁ?」

「ぶつけたんです。仲野さんはもう仕事に戻っていいですよ」

「はぁい」

 美樹が間延びした声で言ってデスクに向き直った。亜莉沙がため息をついて椅子に座ると、隣の席のさくらが、キャスター付きの椅子を座ったまま転がして、亜莉沙に並んだ。

「お疲れ。それにしても相変わらずやってくれるね、仲野さん。CD—Rがないと、セミナー用テキストに高解像度のキレイな画像を入れてもらえないじゃないのねぇ」

 佳奈子と亜莉沙は、ここ、株式会社サステイナブル・パワー・ジャパンに新卒で採用され、ともに入社三年目に入った同期だ。風力、太陽光、水力などの再生可能エネルギー関連の機器やソフトウェアの開発や製造、販売を行うこの企業で、文系出身の二人はいわゆる一般職として働いている。

「ところで、アリちゃん、そのメガネいったいどうしたの?」

 佳奈子を始め、同期は皆、亜莉沙のことを〝アリちゃん〟と呼ぶ。裏のニックネームで呼ぶのは美樹くらいのものだ。

「やっぱりわかる? 変かな?」

 左右のレンズの間のブリッジがへこんだせいで、全体がMの字を形成しているメガネは、幅が広がってしまっていて、どうしたってずり落ちてしまう。

 一生懸命メガネを正しいポジションに据えようとする亜莉沙に、佳奈子が呆れたように言う。

「そこまで壊れてるのに、無理してかけなくても……。コンタクト、持ってないの?」

「うん」

「メガネがないと見えないの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「ないと落ち着かない?」

「そんなとこ」

 亜莉沙は曖昧に言葉を濁した。佳奈子とは同期入社で席も隣のため、ランチを一緒に食べには行くが、プライベートなことを正直に彼女に──ほかの誰にも──話したことはなかった。

「早く昼休みにならないかなぁ……」

「あと四十分よ。がんばろ」

 佳奈子の声に、亜莉沙は軽く肩を回してパソコンに向き直った。


 十二時。待ち望んだランチタイムになるやいなや、亜莉沙はデスクの下からバッグを引っ張り出し、肩にかけて立ち上がった。

「私、メガネ屋さんに行ってくるね」

 まだパソコン画面を睨んでいた佳奈子が、驚いた表情で亜莉沙を見上げる。

「えっ、ランチは?」

「ごめん、先に食べててくれる?」

 亜莉沙はそう言って、エレベーターホールに急いだ。外に食べに出るほかの社員に混じって一階に下り、駅前にあるメガネ店を目指す。五月末の爽やかな空気の中、昼時で人通りの多い道を足早に歩いてメガネ店に着くと、自動ドアから中に入った。

「いらっしゃいませ」

 応対した笑顔の女性店員に、亜莉沙はおずおずと言う。

「あのぅ、すみません。私に一番似合わないメガネが欲しいんですが……」

「はい?」

「十年前のデザインでもいいんです。一番売れてなくて、ダサいの、ありませんか?」

 三十歳くらいのその店員は、一瞬呆気にとられたような表情をしたが、すぐに営業スマイルを顔に貼り付けた。

「えっと、当店ではベーシックなメガネのほか、これから夏に向けて〝透け感〟のある涼しげなものなど、人気のデザインを中心にご用意しています。トレンドを意識した売れ筋商品や……」

 店員の言葉に亜莉沙は小さく肩を落とした。そりゃそうだ。普通、わざわざ売れないダサいメガネなど扱わないだろう。

「じゃあ、私に似合いそうなメガネはどんなのでしょう?」

 亜莉沙の言葉にホッとしたのか、店員が慣れた調子で話し始めた。

「そうですね、お客様のお顔の場合、縦幅が狭い細フレームで、明るい肌色に合わせて、柔らかなカラーをお選びになるとお似合いになるかと思いますよ」

「それじゃ、この太いフレームのをください」

 亜莉沙は展示されている黒いフレームのメガネを指さした。

「え」

 亜莉沙が勧められたものと真逆のデザインのメガネを示したので、さすがの店員の営業スマイルも崩れた。

「これをください」

 亜莉沙が今度は少し強い口調で言うと、店員は気持ちを切り替えようとしたのか、一度瞬きをしてから言った。

「では、視力検査を……」

 亜莉沙は店員の言葉を遮る。

「両眼一・〇でしっかり見えますので、度は入れていただかなくて結構です。今すぐ使いたいので、このままください」

 そうして半ば強引に、亜莉沙は自分に似合わないメガネを買ったのだった。

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