物理さんで無双してたらモテモテになりました

kt60

プロローグ

 

 冷たい風が吹いている、とあるビルの屋上。

 オレは街を見下ろしていた。

 (のう)()(ひび)くのはこの世でもっとも(しゆう)(あく)な、オレの母親という生き物の声。

「あー、スッキリしたぁ」

 父に懐いていた猫を保健所に連れて行き、帰ってきてからの第一声である。

 母(いわ)く、保健所に連れて行った理由は「掃除が大変だから」。

 だがしかし、その猫がいたのは父の部屋だ。

 捨てるほどに大変だったというのなら、部屋の掃除は父にやらせればよかった。

 しかしうちの母親は、そうするようには言わなかった。

 それを言わずに捨ててきた。

「わたしがこんなに大変なのに、アンタは人の気持ちがわからない」

 などと言い、そのまま猫を捨ててきた。

 仮にそれほど大変であったとしても、第一声に「スッキリ」はないだろう。

 大切にしていた猫を捨てられた、傷心の人間の前で、それはないだろう。

 さらにこの母親は、捨てられたのとは別の猫を四匹も兄に預けたことがある。

 当時の兄は演劇部に所属していて、それの都合があるので(いつ)(たん)は断った。

 すると母は言ったのだ。

「オマエは冷たい。家族みんなが大変なんだ。協力しろ」

 そう言って、四匹もの猫の面倒を見させたのだ。

 相手が大変な時は猫を生かすのに協力しろ。しないのは冷たい。

 しかし自分が大変になると、殺すのは仕方ない。協力しろ。しないのは冷たい。

 しかもこの母親は、「オマエは人の気持ちがわからない」が(くち)(ぐせ)だ。

 便利な言葉だ。

 自分が被害者のように語っているが、要するに「わたしの欲望を満たしてくれないオマエはクズだ」と言っているに等しい。

 相手がそれをしたくない理由、してくれない理由を考えることもせず、「してくれないから冷たい」と、実に勝手な理屈で相手を叩くのだ。

 ここまで聞いて、人によっては言うかもしれない。

 オマエはその時なにしてた?

 オレはなにもしなかった。というよりもできなかった。

 小さいころは抵抗していた。

 おかしいことはおかしいと言い、()(じゆん)していることは()(じゆん)していると言った。

 そのたびに()()られた。そのたびに殴られた。

 ()()り平手打ちを食らい、オマエは冷たい人間であると(ののし)られた。

 殴ったあと、上から目線で『今のは叩かれても仕方ないよね?』などと言われて、違うと言えばまた殴られた。ハイと言うまで殴られた。

 逆に無言でうつむいていれば、殴られることはなくなった。

 意見や抵抗さえしなければ、殴られることはなくなった。

 そんなことが続いたせいで、オレの心は()(もう)した。

 反抗することや家を出ることを考えるだけで、過去の記憶が(よみがえ)った。

 あの()()(じん)な母親と戦うシナリオを軽く想像しただけで、呼吸が苦しくなった。瞳に涙が(にじ)むようになった。

 未来とか将来といった単語に、強い吐き気を覚えるようにさえなった。

 できることがあるとするなら、死による自己の解放ぐらいしかない。

 それ以外の手段では、オレは抵抗することができない。

 だからオレはここにいる。

 死のう、死のうと思いつつ、ビルから世界を見下ろしている。

 だけれども、こうしているとわかる。

 生きたい。

 本当は生きたい。全力で生きてみたい。

 過去の記憶やしがらみからも解放された別世界のような場所で、心のままに生きてみたい。

 しかし、そのために動く気力も()(もう)しきった今のオレにはなくて――。

 だから死にたい。解放されたい。

 そんなふうに思ってしまう。

 それでもビルを見下ろすオレは、オレに向かって叫んでる。

 生きたい。本当は生きたい。

 どこか遠い別の世界で、全力で生きたい。

 でもそれができなくて、だから――――。

 ()(じゆん)と呼ぶには一貫した感情。

 これらを戦わせることは、なにも初めてではない。

 オレは何度も死にたいと思い、そのたびに死ねなくて生きてる。

 死への一歩を踏みだせないから仕方なく生きてる。

 そんなオレの視界の(すみ)に、ヘンなものが見えた。

 黒い穴である。

 野球のボールぐらいの大きさの穴が、宙にぽかりとあいている。

 なんだろうな、これ。

 思ったオレは、右の手をまっすぐに伸ばした。

 その(せつ)()、穴はグワッと大きく開き――。

 オレの意識は(やみ)の中。

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