君だけしか見えない

麻生ミカリ

第一章 はじまりの季節 ~富良野~ (3)

「……あ、あの、急にすみません。数日前にもお見かけして、ここに引っ越してこられたのかなと思ったものですから。わたし、近所に住んでいます、ちは──」

「悪いが、今日はほとんど見えない日なんだ。あなたがどこのどなたかは知らないが、俺にかまわないでくれ」

 低い、声だった。

 結衣を突き放しながらも、世界のすべてに絶望するような孤独を抱えた声に思えた。

 そして。

 結衣は、そういう声に覚えがあった。祖母を喪ったばかりの自分の声だ。

「……今日は、見えない日なんですか?」

 かまうなと言われたのは承知の上で、結衣は小さく問いかける。日によって、体の状態に変化があるのは病気ならばおかしなことではない。

 だが、庭に立つ男性は、顔色こそすぐれないものの、長身に引き締まった体つきの、三十代と思しき精悍な顔立ちをしている。

「俺は、かまわないでくれと言ったんだが」

 よく見れば、深い二重の下の双眸は、焦点が合っていなかった。こちらを見ているのに、何も見ていない瞳。

 だからだろうか。

 彼は、足元に大きな庭石があることにも、気づいていない様子である。

「すみません。あの、でも足元に──」

「かまうな。帰れ」

 そう言って、彼がを返す。

 普段なら、間違いなく結衣はこうなるより以前に、この場を立ち去っていただろう。けれど、なぜかこのときは、彼を放っておけなかった。それが自分の勝手なおせっかいだとわかっていても、声をかけずにいられない何かを感じていたのだ。

 男性は、白杖らしきものも持っていない。自宅の敷地内ならば、見えずとも歩けるのかもしれないが、結衣が声をかけたせいで彼は急いで家に戻ろうとする。

「あっ、待ってください!」

 危ない、と思ったときにはもう遅くて。

 彼のつま先が、茂った夏の雑草に引っ掛かり、長身の体が地面に倒れたとき、結衣は反射的に庭先に足を踏み入れていた。不法侵入、という単語が脳裏をよぎる。けれど、そんなことを言っている場合ではない。

「……っ、くそ……」

 彼は、ひどく憎々しげな声で悪態をつくと、庭の土で汚れた顔を手のひらでこする。

「だいじょうぶですか? ごめんなさい、わたしが声をかけたせいですよね。よかったら、消毒のお手伝いをさせてください」

 親切な老人に囲まれて育ったせいか、結衣は他人を疑うということをしない性格だった。この町には、子どもをかすような悪い男もいないのだ。

「うるさい。勝手に人の庭に入ってくるな!」

 怒鳴られても、当然のことをしている。その所作や態度から、彼はもともと目が見えないのではなく、最近視力を失ったのかもしれないと感じた。

「……はい。勝手にお庭に入ったのは謝ります。でも、今日は見えないと言っていましたよね。だったら、せめて傷の手当てだけでもさせてください。お願いします」

 土の上についた大きな手に、そっと両手を重ねる。その手が、震えていた。彼は、ままならない自分の体に、そして無神経に声をかけた結衣に、苛立ちを感じているのだろう。

 彼は、結衣の手を払いのけなかった。

 しばしの沈黙ののち、ため息をひとつ。それから落ち着いた声で「わかった。手当てを手伝ってくれ」と言った。強引に手を貸そうとする結衣に押し切られた感もなくはない。

 肩を貸して、洋館の中へ。

 外から見るより、内部は手入れがされていることに驚いた。だが、考えてみれば古い建物だというだけで、窓や庭の手入れをしている業者の姿をたまに見かけた。持ち主はこの屋敷を大切にしてきたのだろう。

「どちらに座りますか?」

 広いリビングには、応接用のソファセットとダイニングテーブルがある。どちらも古いが、テーブルは磨かれ、ソファはほこりひとつない。

「ソファで頼む」

「はい」

 彼をソファに座らせると、救急箱の場所を尋ねた。しかし、この家の主らしき男性は、「わからない。適当に探して、なかったらタオルでも濡らしてきてくれればいい」と投げやりに答える。

 ──もしかして、普段は全部奥さんにやってもらっているのかな。

 年齢からして、妻帯者でもおかしくない。それに、何より目が見えないのならばひとりで暮らしていくのは難しいだろう。

 カップボードの下の段は、観音開きの戸棚になっている。そこを開けると、運良くすぐに救急箱が見つかった。

「救急箱、ありましたよ」

 緑色の蓋にクリーム色のケース。結衣は、箱を手にソファまで戻る。彼の足元にしゃがみ込んで、顔を見上げた。黒目がわずかに揺らぐ。このくらい近いと、認識はできているのだろう。

「先に、手を洗ったほうがいいかもしれません。それとも、タオルを絞って拭きますか?」

 洗ったほうが早いとわかっていたが、彼は移動したくないかもしれない。そう考えると、タオルを借りるべきか。

 ──でも、タオルを使ったら洗濯物が増える。結婚しているのかと思ったけど、指輪はしていないみたいだし……

 彼の左手には、指輪も、指輪をはめていた痕跡もなかった。

「タオルは洗面所にある。見ればすぐわかるはずだ。それと、洗面所は廊下に出て左に進んだ先の引き戸の向こう」

「わかりました。ありがとうございます」

 立ち上がった結衣が礼を言うと、急に彼が手首をつかんできた。

「……どうかしましたか?」

「なぜ、俺に関わろうとする? きみは、ほんとうに偶然声をかけてきたのか?」

 その質問の意味が理解できず、数秒考える。

 ──もしかしたら、泥棒や詐欺だと思われたのかな。

「それとも、誰かに頼まれて俺に近づこうとしているのか? だとしたら、無駄なことだ」

「あの、わたしは近所に住んでいるんです。誰にも頼まれてませんし、ねずみ講とかマルチとか、新興宗教にも関わってないので、安心してください」

「……ねずみ講?」

 なんの話だ、とでも言いたげに、彼が首をげる。

 名前も名乗っていなかった。どこの誰かわからなければ、不安になって当然だろう。

「わたしは、この近くの小さなレストランで働いてるんです。お店の名前は──」

「いい。聞きたくない」

「え……?」

 彼が、ぱっと結衣の手を放す。

「俺は、きみの住所も職場も名前も知りたくないと言ったんだ。それから、俺に名を尋ねるのもやめてくれ」

「……そ、そうですか。ごめんなさい」

 結衣とて、平和な町で育ったからといって誰かに拒絶されたことがまったくないわけではない。だが、名前を名乗ることさえ拒まれるというのは、初めての経験だった。

「それじゃ、洗面所にタオルを取りに行ってきます」

 返事はなかったが、結衣は黙って廊下へ出ることにした。彼にとっては、結衣から声をかけられたことも、転倒したことも、それによって擦り傷を負ったことも、すべてが不快な出来事だったに違いない。

 ──不用意に声をかけたのがいけなかったんだ。あの人が、少しかっこよかったから興味を持った……つもりはなかったけれど、もしかしてそういう理由もあったのかな。

 彼は、厭世的でありながら生命力も感じさせる。輪郭は細いが、骨格はしっかりしていて、触れた手は力強い。整った顔立ちに、薄く剃り残したが色香を感じさせる。男性に対して色っぽいというのはおかしいのかもしれないけれど、まさしくそれしか形容する言葉が思いつかなかった。

 濡らしたタオルで、土のついた手と顔を丁寧に拭う。目を閉じ、黙って結衣のするがままに任せる彼は、どこか存在感が希薄だった。

「……手のひらに傷ができているので、消毒しますね」

「ああ」

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