君だけしか見えない

麻生ミカリ

第一章 はじまりの季節 ~富良野~ (2)

 そして、結衣は誠一と連絡先を交換して富良野へ帰った。約束どおり、誠一は毎年クリスマスにプレゼントを送ってくれる。それだけではなく、誕生日祝いに進級祝いと、何かにつけて節目節目に手紙とプレゼントが届いた。

 もちろん、東京と富良野の距離では披露宴以来、顔を合わせることはなかったけれど、結衣は遠くに自分の味方がひとりいる気持ちがして、誠一の存在に支えられていた。

 高校に入学し、おとなしいながらも気の合う友人たちと楽しい日々を過ごしていた結衣に、悲しい出来事が起こったのは、十七歳の冬のこと。

 高齢をおして働き、結衣の学費を捻出してくれていた祖母が、脳溢血で倒れた。運悪く、結衣が委員会の仕事で帰りの遅い日だった。帰宅して、台所で倒れている祖母を見つけたときには、自発呼吸もない状態になっていた。

 救急車に乗って、一緒に病院へ行ったときのことはあまり覚えていない。

 ただ、しわしわの祖母の手を握りしめて、必死に「おばあちゃん」と呼びかけていたような気がする。救急隊員から、離れるように何度も言われた。

 突然の嵐のような一夜が過ぎ、祖母の長い長い緊急手術が終わったあと、結衣は担当医から「大人の親戚はいないの?」と聞かれて、首を横に振った。

 昨晩、ひどく不機嫌そうな声の母は、「そんなの、あたしに言われたって困るわよ。そっちでどうにかして」と言って電話を切った。もう頼る大人などいない。

「祖母には、わたししかいないんです。わたし、もう十七歳です。ちゃんと話を聞けます。教えてください」

 深く頭を下げた結衣に、医師は「仕方ないね」と小さくため息をついた。

 倒れてすぐに治療を開始できなかったことで、祖母の容態はあまりよくはない、と医師が言う。

「できるかぎりのことはしたけれど、ご高齢だから元通りの回復というのは望めない状況だね」

「リハビリとか、は……」

「もちろん、リハビリも必要になるよ。今後は介助もしくは介護を必要とする可能性が高い。ふたり暮らしだと言っていたけど、協力をしてくれる大人の方は近くに──」

 医師の声が、ひどく遠く聞こえた。

 手術から二十時間近くが過ぎて、ようやく目を覚ました祖母は、以前の祖母ではなくなっていた。

 明るく優しい人だったのに、話しかけてもほとんど表情がない。聴覚に問題があるわけではなく、脳を血液で長時間にわたって圧迫されたことによる障害が残った。

 数週間の入院を経て、術後の問題がないと確認された祖母は、自宅療養が必要になった。けれど、介護ベッドから起き上がることもままならず、日がな一日ぼんやりと天井を見上げているばかりの祖母を、自宅にひとりで放っておくわけにいかないのは、考えるまでもないことで。

 退院直前、結衣は悪いと思いながらも、祖母の和室にある小さな物入れを開けた。そこには、祖母が通帳や貴重品をしまっている。通帳の残高は、結衣に大学進学させるため、祖母が貯めてくれていたお金だ。

 ──最初から、わたしは進学なんてしようと思っていなかったんだよ、おばあちゃん。

 地元で就職し、祖母に恩返しをしよう。そう思っていた結衣に、祖母は「結衣ちゃんは勉強もできるんだから、ちゃんと大学に行かなきゃ駄目だよ」といつも言ってくれていた。

 だが、こうなってわかるのは、千原家の家計は決して楽ではなかったということだ。

 結衣は、高校を中退し、自分で祖母の介護をしようと決めた。行政のサービスを活用しても、毎日ヘルパーさんに来てもらうわけにはいかない。まして、結衣が学校にいる間、ずっといてもらうことも難しい。

 高校をやめることに、それほど迷いはなかった。それよりも、この先どれくらいの時間が自分と祖母に残されているのか。そのことを考えると、心臓が痛くなる。胸をぎゅっと押しつぶされるような気がして、結衣は不安で自分の体を抱きしめた。

 それが、もう四年前のことになる。

 祖母は自宅で一年半を過ごし、結衣が十九歳の初夏にこの世を去った。早咲きのラベンダーが揺れる中、結衣は自宅で祖母を見送った。

 通夜に来てくれた『ラベンダー』の葉崎夫妻が、ひとりぼっちになった結衣に「うちの店で仕事をしないか」と声をかけてくれたのは、とてもありがたかった。

 もう、祖母の残してくれたお金は底をつきかけていたのだ。

 介護のかたわら、アルバイトをしようと思ったことも何度かある。けれど、その間祖母がひとりになることを考えると、どうしてもふんぎりがつかない一年半だった。

 ──おばあちゃんは、もうこれ以上、今のふたりだけの生活を続けられないってわかっていたから、きっと逝ってしまったんだね……

 あと二、三カ月もすれば、このつましい生活すら失われる。それは、目に見えていた。

 この先、どうやって生きていこう。

 大好きだった祖母をい、結衣は自分がっぽだと感じた。明日のことさえ考えられず、前にも後ろにも動けない。

 その矢先、『ラベンダー』で働かせてもらえることになったのだ。今にして思えば、葉崎夫妻はきっと結衣の気持ちを見越していたのだろう。朝の仕込みから夕方の閉店まで、一日八時間の仕事は、悲しみに暮れる時間を結衣に与えなかった。朝食と昼食を、店で葉崎夫妻と一緒に食べられるのもありがたい。ひとりでは、きっと食べることさえ忘れてしまったか、あるいは祖母のいない食卓に涙をこぼしていたのではないだろうか。

 高校編入をすすめてくれたのも、葉崎夫妻だった。以前に通っていた高校の配慮で、結衣は高校二年次までの修了を認められている。三年次からの編入が可能な状況だ。

 あと一年で高校卒業なのだから、と葉崎夫妻は学費を援助してくれた。二十一歳の春から、結衣は『ラベンダー』の仕事が終わると、十八時からの定時制高校に通う日々を送っている。

 今はもう、九月。

 来年の三月には、無事に卒業できる見込みだ。

 この町は、結衣にたくさんのものを与えてくれた。優しい人々に囲まれて、どんなに寂しいときでも誰かが助けてくれた。どんなに苦しいときでも誰かが支えてくれた。

 しかし、結衣の住む町の高齢化は市内でもかなり進んでいるほうである。そもそも、富良野は全国平均よりかなり高めの高齢化率なのだが、古い住宅地のあるこの町には、結衣の知るかぎり同世代の子はほとんどいない。高校を卒業すると、皆地元を離れていく。道内に留まる者もいるが、東京へ行く者も少なくなかった。

 ずっと、ここにいたい。そう思う反面、大好きな住民のおじいちゃんおばあちゃんが、遠くない未来、自分を置いていってしまうこともわかっている。

 結衣の住む世界は、とても狭く、だからこそ優しさでできていた。いつか自分は、ここから出ていくことになるのかもしれない。そう思うと、祖母を喪った日と同じように胸が苦しくなる。

 だから。

 結衣は、何も考えないように自転車をこいだ。

 風を切って走る自転車は、後ろに下がることができない。前へ、前へ、ただ前へしか進めない自転車が、結衣は好きだった。



 その洋館は、結衣が子どものころから住人がおらず、お化け屋敷と噂のあった家だった。

 二週間前。

 偶然、結衣はその家の玄関から出てくるひとりの男性を目撃し、驚いたものである。

 最初は、何かの見間違いかもしれないと思った。この町に、新しい住人が引っ越してくることはとても珍しいからだ。

 だが、その数日後、二度目に彼を目撃したとき、思わず「こんにちは」と声をかけた。結衣の声に、庭に立っていた男性はびくっと体を揺らし、声の主を探すように左右を見回す。その仕草に、引っ掛かりを覚えた。

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