君だけしか見えない

麻生ミカリ

第一章 はじまりの季節 ~富良野~ (1)




第一章 はじまりの季節 ~富良野~




 その日は、九月の最初の月曜日だった。

 北海道富良野市にある小さなレストラン『ラベンダー』は、毎日十六時に閉店する。稼ぎ時のディナータイムに営業をしないだなんて、と驚く人も少なくない。実際、十年前までは、『ラベンダー』もディナーをメインとした営業時間だった。

 しかし、店主の古希をきっかけに、老夫婦は夜の営業をやめた。無理をせず、自分たちのできる範囲で、長く店を守っていくのが今の目標だという。

結衣ちゃん、今日は遅くなってごめんね。あとは私たちでやるから、上がっていいよ」

 四人がけのテーブルを片付けていた千原結衣は、昔からの顔なじみである店主の葉崎敏夫にそう言われ、「じゃあ、このテーブルだけ片付けて出ますね」と静かな声で返事をする。食器をトレイにまとめ、使い込んだ台拭きでテーブルを隅々まで丁寧に拭く。椅子の座面を乾いたタオルで拭って、四脚の位置を調整し、トレイを持って厨房へ戻る。

 この一連の作業の流れが、結衣は好きだ。次に来るお客さんが、整った席に座る姿を想像し、片付けの終わった席を見て満足する。

「それじゃ、お先に失礼します」

 店名の入ったエプロンをはずすと、結衣は個人経営の小さなレストランをあとにした。

 店の裏手に停めた古い自転車にまたがり、ヘアクリップで髪を留める。胸に届かない長さの直毛は、走行中に顔にかかると視界を奪うことがあるからだ。

「……この時間なら、学校に行く前に寄っていけるかな」

 いつもより少し遅い上がり時間、結衣は左手首の腕時計を確認して、自転車をこぎ出した。



『ラベンダー』は、職場でもあるが、それ以上に思い出の詰まった店でもあった。

 五歳まで東京で育った結衣が、両親の離婚と同時に母方の祖母に引き取られたのは、今から十六年前のこと。破綻した結婚生活ののち、両親はどちらも別の相手との再婚を望んだ。親権は母にあったが、母親の恋人が結衣との同居を渋ったため、彼女は祖母の家で暮らすことになったのである。

 喧嘩の絶えなかった世田谷の小さなアパートに比べれば、祖母の家は静かで落ち着いていて、毎日三回食事ももらえる。それだけでありがたいことだ──と理解するには、五歳はあまりに幼い。

「おかあさんにあいたい、おとうさんのくるまでおうちにかえる」

 日が落ちて、住宅街が暗くなってくると、よく結衣は泣いて祖母を困らせた。帰ると言ったところで、彼女がそれまで暮らしていたアパートはとうに解約されている。両親は離婚し、それぞれ別の相手と暮らしていて、帰るべき場所などもうどこにもなかった。

「結衣ちゃん、よおくお聞き。これからは、結衣ちゃんは富良野で、ばあばと暮らすんだよ。だから、帰るおうちはばあばのおうちなんだよ」

 祖母は、決して声をらげたりせず、根気よく結衣にそう教えてくれた。

 理解するより諦めるほうが早かったというのは、少し寂しいことではあるのだが、結衣は半月ほどで「かえりたい」と言わなくなった。母の話題を口にすることもなくなり、いつも部屋の中で人形遊びをする小さな結衣を、祖母はある日、外食に連れ出した。

 その店こそが、『ラベンダー』だったのだ。

 当時、大人の客の多かった『ラベンダー』で、店主の敏夫は結衣のためにメニューにないお子さまランチを作ってくれた。敏夫の妻である善子は、わざわざ近くのスーパーまで行って、子ども用のオレンジジュースを買ってきてくれた。

「おいしい!」

 目を輝かせた結衣を、祖母も敏夫も善子も、そして店にいた常連のお客さんたちも「そりゃよかった」と笑顔で見守ってくれる。結衣は、その瞬間に自分がひとりではないのだと心のどこかで感じた。五歳児なりに、自分が両親から不要な存在だとまれていたことを、察していたのである。

 そして。

 結衣は、自分がかつて違う名字だったことも次第に思い出さなくなり、地元の幼稚園へ通い、物静かな少女に育った。父とは、両親の離婚以来、一度も会ったことがない。連絡先を知らないのだから、こちらから連絡のしようがなかった。母は毎年、クリスマスプレゼントを送ってくれるけれど、直接会ったのは一、二度きりで、結衣は中学生になった。中学一年の六月、母が二度目の結婚をすることになり、祖母と結衣は披露宴の出席のために東京へ行った。

 久しぶりの母との再会に、十三歳の結衣は様々な思いを抱えていたけれど、いちばん大きかったのはやはり「お母さんに会えるのが嬉しい」という気持ちだった。

 そんな彼女の心を裏切るように、母は結衣のことを「親戚の娘なの」と夫となる男性の一族に紹介した。

 母の再婚相手は、離婚後に同棲していた男性ではなく、八王子で開業医をしている年上の男性だった。相手の城月氏には当時二十六歳の息子がおり、その青年も医師として大学病院に勤めていた。

 周囲に人がいないときを見計らって、祖母が母に「美恵子、どうして結衣のことを親戚の子だなんて言ったの」と問いかけるのが聞こえ、結衣はいたたまれなくなり、その場を離れた。母が、なんと答えるのか聞きたくないと思ったのだ。その答えがどんなものだったとしても、きっと結衣には悲しい言葉でしかない。

 会場を抜け出し、中庭のベンチに座っていると、「結衣ちゃん?」と声をかけられた。

「……は、はい。どなたですか?」

 声の主は、人のよさそうな青年だ。

「こんにちは。僕は城月誠一です。結衣ちゃんは……美恵子さんの娘さんだよね」

 そう聞かれて、返事に詰まる。

 母は、結衣を親戚の娘だと紹介した。実の娘だとは、誰にも言っていないのだろう。

 ──この人、城月さんっていったから、きっとお母さんの旦那さんになる人の親戚だ。

 結衣は、即座に首を横に振った。肩口で切りそろえた黒髪が揺れる。

「違います。わたしは、美恵子おばさんの親戚です」

 母親を「おばさん」と呼ぶことに、胸がずきっと痛みを訴えた。だが、これから幸せになろうとしている母の足を引っ張りたくはない。

「いいんだよ。僕は知ってる。というか、父さんもほんとうは、結衣ちゃんが美恵子さんの娘だと知っているんだ」

「父さん……? 城月さんは、えっと……」

「きみのお母さんは、僕の父と結婚する。だから、きみは僕の妹になるんだよ」

 誠一は、母の再婚相手の息子だった。

 城月の親族が、結衣を引き取らないことを条件に誠一の父と美恵子の結婚を認めたため、招待客の手前、結衣のことを親戚の娘として扱うと決めたのだという。

「結衣ちゃんは、そのことを知らなかったんだね」

 優しい目をして、誠一はそう言った。

 ここへ来てから、ずっと我慢していた何かが、結衣の中で弾けそうになる。鼻の奥がツンとして、気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうだった。

「いいえ、知ってました。お母さんは、わたしにちゃんと優しいんです。毎年クリスマスプレゼントを送ってくれて、メッセージカードだってつけてくれます」

 おかしなことを言ったら、母の再婚に水を差す。結衣はそう自分に言い聞かせて、必死に笑顔を取り繕った。

「そっか……」

 十三歳の精一杯の笑顔に、誠一はきっと事情を悟ったのだろう。彼は、結衣の隣に座ると、大きな手で頭をぽんぽんと撫でた。

「じゃあ、僕もクリスマスプレゼントを送ろうかな」

「えっ、そんな、もらえません」

「どうして? だいじょうぶだよ。ほかの人には言わない。僕はね、ひとりっ子だったから妹ができて嬉しいんだ」

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