オパール文庫極甘アンソロジー(3)シンデレラママ!

佐木ささめ

『妻の愛が100%赤子に向かってしまって、夫が暴走しそうです。』佐木ささめ イラスト/田中 琳 (3)

 くちゅくちゅと体液をかき混ぜる卑猥な音を響かせながら、夢中で互いの舌を絡ませ続ける。

 ままならない呼吸に息苦しさを感じ始めたとき、そっと菫の体がソファに横たえられた。

 見上げると秀麗な容姿に性のりをらせた怜一が、痛いと感じるほどの強い眼差しを向けてくる。

 綺麗な瞳に滲む獣欲は菫を狩る意欲に燃えており、美しい彼の姿と合わせてネコ科の肉食獣を思わせた。狼やコヨーテのようなイヌ科ではなく、しなやかな筋肉を持つ体の線が美麗なヒョウやチーターのような。

 ふと、女豹という言葉の男版として、男豹なんて造語が脳裏に浮かんだ。妖艶な彼ならばふさわしい言葉だと思う。

 ……ただ、自分はそれほど欲情していなかったりする。

 菫は出産してから性欲が消え失せていた。おかげで産後三ヶ月が経過しているのにセックスは再開していない。自分としては心地いいキスと夫からのねぎらいで、十分満足している。

 しかし男性の方はそうもいかないだろう。出産前の夫婦生活を控えた期間も合わせると、彼はすでに半年も禁欲をしているのだから。

 ──やっぱり男の人はつらいよね……私も怜一さんとのセックスは結構好きだったんだけど、今はなんとなく乗り気にならないというか……

 悶々としているうちに夫の唇が首筋に落ちてくる。肌をくすぐる熱い吐息で彼の発情を感じ取り、拒絶するほど嫌なわけではない菫は大人しく全身から力を抜く。

 そのとき。

「ぷぎゃああぁっ」

 カッ! と目を見開いた菫は遠慮なく夫を押しのけて素早く立ち上がり、夫婦の触れ合いの余韻など微塵も感じさせない様子で、足早に寝室へ向かった。……狙った獲物を取り逃がし、切り替えの早さに付いていけず、呆然としたままの夫を残して。

「はいはい、ママですよー。起きちゃいましたねー」

 いつもはシッターに任せきりなので、母親らしいことができる夜の時間が実は嫌いではない。派手にぐずる赤ん坊に笑顔を見せて、授乳とオムツ替えをこなしていく。

 時間がかかる寝かしつけも苦にならなかった。細切れの睡眠しか取れないが、シッターが来る日中に休めるため構わない。

 順調に大きくなっている赤ん坊を腕に抱いて、寝室の中をぐるぐると動き回っては、子守唄を歌って赤子の眠りを誘う。と、その際に夫を放り出してきたことをようやく思い出した。

 先に休んでもらおうとリビングへ顔を出せば、彼は頭を抱えて上半身をグニャグニャとくねらせている。蛇のように。

「怜一さん。何やってるの?」

 すると奇妙な動きを止めた夫は、すっくと立ち上がって爽やかなイケメンスマイルを見せた。

「いや、なんでも? それより龍一は眠ったか?」

「ううん。寝つくまで長いから、先に休んでいてね」

「……ああ」

 おやすみなさい、と告げた菫は彼の安眠の邪魔をしないよう、客間となっている空いた部屋の中をぐるぐると回り続ける。

 その扉の向こう側で、夫君がフローリングの床に正座して深くうなだれつつ、やるせない表情をして哀しんでいることにはまったく気づかなかった。


     §


 翌日の午前九時過ぎ、宗方取締役管理本部長の秘書である植田が、コーヒーとタブレットを持って執務室へ入ると、怜一がだらしなくデスクに突っ伏していた。

 眠っているのかと驚いたが、上司の視線はパソコン画面に向けられている。……ろな表情で。

 まれなる美男子だが、そうしてグンニャリしていると何かの軟体動物に見える。

 植田は上司の視野に入るであろう位置にコーヒーカップを置くと、本日のスケジュールの変更点を報告する前に、デスクを回り込んでパソコン画面をのぞいてみた。

 そこには、『産後のセックスライフについて』との見出しがでかでかと書かれたサイトが、ででーんと開かれている。

 彼がなんとも言えない表情でそのページを見つめていると、軟体動物がのっそりと口を開いた。

「……植田さぁ、子どもが生まれてから奥さんとセックスを再開したのって、産後何ヶ月のときだ?」

 職場で〝セックス〟などと生々しい単語を堂々と発しないで欲しい。と、彼は内心で呟いたものの、最近の上司の迷走っぷりを間近で見ていたため、同情心から表情を変えずに答えた。

「何ヶ月というか、一年ぐらい後ですね」

「いっ、いちねえぇんっ!?

 頓狂な声と共に怜一が勢いよく体を起こし、デスクが派手に揺れてコーヒーがソーサーに零れた。

 慌てる植田が思わず、「コレ、宗方本部長の奥様が選んでくださった豆なのに」と漏らした途端、上司が手を伸ばしてきたため素早く回収する。

 ソーサーに零れたコーヒーを丁寧にぬぐい取ってから少し量が減ったカップを差し出すと、上司はコーヒーの染みつきタオルを恨めしげに見つめてきた。

「宗方本部長、その目を止めてください。コーヒーならまた淹れ直してきますから」

「……植田よ、昔はソーサーにコーヒーをいで冷ましてから飲むという習慣があったのだ。ゆえに俺がソーサーに零れたコーヒーを舐めてもまったく問題はない」

「大ありです!」

 拳を握って否定する秘書の声に、お育ちのいい上司は「チッ」と舌打ちをしてみせた。

「というかさ、なんでセックス再開に一年もかかるんだ? 長すぎるだろ。まさか浮気してたとか?」

「失礼なことを言わないでください。妻は産後、体調が回復するのに時間がかかったんです」

「あー、そういえば、そんなことを言っていたな……」

 大きな溜め息を吐いて怜一は椅子にもたれかかった。

 始業したばかりだというのに、彼の周囲だけ雨雲が立ち込めて、ザアザアと驟雨を降らせているようだ。

 普段の怜一は周囲の者から舐められないよう、常に厳しい表情で謹厳な雰囲気を醸し出し、隙を見せない姿勢を貫いている。大手医療機器メーカーの三代目として会社の期待も高い反面、同族経営に不満を漏らす生え抜きの役員も少なくないのだ。

 しかし気を許す人間と二人きりになった途端、骨がなくなったかのようにだらけることもある。これを知っているのは植田と、かつての部下である現在の妻のみだが。

「宗方本部長、ご家庭で何かあったのですか?」

「別に……菫とはラブラブだよ……」

 部下へ堂々とラブラブって言わないで欲しい。植田は切実に思うが、これもまた顔には出さないでおいた。

 ふにゃけた上司はデスクに行儀悪く頰杖をついて、「俺もおっぱい吸いたい……」とか呟いている。

 そういうアブノーマルなところが奥さんにとって駄目なんじゃないかと、彼はドン引きしながら心の内で思う。が、上司のちょっと風変わりな性分は、彼女も承知していたことを思い出した。

 そこで植田はチラリと視線を置時計へ向ける。とにかく上司のテンションを上げねば仕事が始まらない。

「あの、夫婦間の悩み事でしたら、私が多少なりともアドバイスできるかもしれません。一応、先輩既婚者ですし」

 すると上司が胡散くさそうな表情と視線を向けてきたため、秘書の口元がひくりと揺れる。美の結晶ともいえる秀麗な顔には、『植田に相談? えぇ~』といった不信感が透けて見えた。

 これも給料のためだと、部下が頑張って笑みを顔面に貼り付けていたら、しばらくしてようやく上司がボソボソと話し始めた。

「菫の愛が……なんというか、赤ちゃんに百パーセント向いちゃっている感じなんだ。一に赤ちゃん、二に赤ちゃん、三、四がなくて五に赤ちゃん……」

「つまり構ってもらえずねているんですね」

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