オパール文庫極甘アンソロジー(3)シンデレラママ!

佐木ささめ

『妻の愛が100%赤子に向かってしまって、夫が暴走しそうです。』佐木ささめ イラスト/田中 琳 (2)

 おかえりなさいのキスは触れ合うだけの啄む口づけだ。それでも疲れているだろう彼を癒したくて、菫は何度も柔らかな唇に吸いつく。彼の方も手のひらで妻の柔らかな体を撫でまくる。

 しばらくの間、愛妻の唇と肢体を堪能した怜一は笑顔で伴侶を見下ろした。

「お疲れ様、菫。体調はどうだ? だるいとか、つらいとかはないか?」

 彼は育児を妻任せにしていることに対して罪悪感を抱いているらしく、帰宅すると赤子のことより、まず妻の心身の不調の有無を尋ねてくる。数日前、眩暈で動けなくなったことも気にしているのだろう。

 大丈夫だと伝えているものの、気遣いはとても嬉しい。大切にされていると実感する。

「今日は龍一のお昼寝のとき、一緒に休んだから大丈夫よ」

 彼を安心させたくて、微笑みながら頭一つ分背が高い夫を見上げる。

 そこには今まで出会った人生の中で、もっとも美しいと思われる驚異的に整った顔立ちがあった。精悍な面差しなのに甘さと色気を感じさせるのは、特徴的なタレ目のなせる業だと思っている。

 ゆるめに後ろへ撫でつけたダークブラウンの柔らかい髪は、龍一と共通する色合いで上品な印象をし出していた。

 会社にいるときは常に厳しい雰囲気を放つ役員だが、妻にはとことん甘い旦那様だ。

 今年の秋には三十四歳となる、六つ年上の夫。

 寿退職した菫にとって、彼の魅力が増すスーツ姿を眺めることができるのは、このときぐらいだった。彼は毎朝、夜中の授乳で睡眠が細切れになっている妻を休ませようと、気配を殺しつつ静かに起きて出勤しており、常にすれ違っているから。

 元上司だった頃の姿を見て、菫の鼓動が高鳴り胸の奥がじんわりと熱くなる。

 ──相変わらず素敵だなぁ。

 夫相手に惚れ直すなんて奇妙なことだと思っていたけど、彼ならばおかしくもないと内心で開き直る。

 背が高いので、イタリアのファッションブランドのスーツが、実に格好よく決まっている。脱げば意外と筋肉質な体型だが、着やせするのかウェストが絞られたシャープなシルエットがとても似合う。

 美しい着こなしのお手本とは彼のことを指すと思っていたりする。

 逞しい体を抱き締め返すとようやく解放された。

 龍一を見てくる、と言い置いて夫は寝室へ向かう。この時間の赤子は夫婦のベッドで寝ているのだ。

 その間、菫はお酒の準備を始めた。怜一は遅くに帰宅したときに妻が起きていたら、一緒にお酒を飲みたがる。といっても菫は禁酒しているため、ノンアルコールドリンクになるが。

 最近の夫は数あるウィスキーの中でもアイラモルトを好んでいる。なのでお酒に合いそうなスモークサーモンやオイルサーディン、ナッツ類などを皿に盛ってリビングテーブルへ運ぶ。

 ちょうどラフな服に着替えた怜一が戻ってきた。

「龍一、スピスピ鼻を鳴らしながら寝てたよ」

 可愛いな、と目を細める夫は父親の顔をしている。我が子と触れ合う機会が少ない彼のために、菫は毎日、赤ん坊の様子を画像付きで報告しているが、たまには動画も送った方がいいかなと思った。

「菫、何を飲む?」

「そうね。ミントがだいぶ育ってきたから……」

「ああ、バージン・モヒート?」

 こくりと頷けば、怜一は笑顔でルーフガーデンにある鉢植えから、スペアミントとクールミントをいくつかちぎってくる。菫用のドリンクを作るのは彼の役目だ。

 ──不在がちの俺が君のためにしてあげられることなんて、そうないからな。

 休日でも仕事で家を空けることが珍しくない怜一は、こうしてほんの少しの時間があれば妻に尽くしてくれる。

 夫は誠実だ。

 かつて、酔った勢いで強引に菫を押し倒してしまい、責任感から交際したいと言いだしたほど。

 過去において、それは恋愛感情によるものではないと、それか都合のいいセフレを求めているのかと、菫は散々悩んだこともあった。けれど彼の律儀で純真な想いに心を打たれ、怜一を信じることができたしプロポーズにも頷いた。

 ハーブの清涼な香りに誘われて懐かしい気持ちがよみがえる。彼との関係に悩んでいた頃も、ミント好きの菫はモヒートやミントジュレップをよく飲んでいた。

 手際よくモヒートのノンアルコールバージョンを作った怜一は、自分のグラスと共にリビングへ向かい、長身の彼が横になれるほど大きなソファに妻と並んで腰を下ろす。

「お疲れ様、怜一さん」

「ああ、もう本当に疲れた。早く帰りたいのになかなか解放してくれないし。……菫は今日、何をしていた?」

「出産内祝いのお礼状を書いていたわ。とりあえず全部終わったかな」

「助かる。また届くかもしれないから、仕事関係だったら植田に伝えてくれ」

 夫の秘書である、かつての先輩の名前を聞いて素直に頷く。

 すると怜一は話しながら妻の手を取り、指先や甲に口づけた。湿った感触がくすぐったく、自分をってくれる夫の愛情が嬉しくて微笑む。

 家政婦兼シッターも帰宅し、赤子も寝入っている今、二人きりでの静かな語らいを喜ぶ菫は、夫の肩へ頭を寄せて甘える。

 人生の幸福とは、このような日常の一瞬の積み重ねなのだろう。

 でもSNSの自分と同じような新米ママの呟きで、夫の帰宅が遅くて夫婦仲が険悪になったとか、育児に協力しない夫への不満を嘆いたりする意見をしょっちゅう見かける。

 だから自分はとても恵まれているのだ。

 そのことを実感するたびに心から伴侶を大切にしたいと思う。……思うからこそ、彼の男性としての気持ちを慰めてあげたいと考えているのだが。

 不意に、ウィスキーを味わっている夫の唇が額に触れた。ゆっくりと下りてくる柔らかな皮膚と共に、アイラモルトの特徴的なピート香が近づく。独特の香りが官能の気配をって唇を目指す。

 そっと目線を上げると、睫毛が触れ合いそうな至近距離に彼の綺麗な目があった。

 夫は欧州の血が入っているらしく、日本人より色素が薄めで瞳は茶金がかっている。肌は白く、北国生まれの菫とほぼ同じレベルなので、実家へ結婚の挨拶へ行ったとき、同郷の出身なのかと訊かれたほどだ。

 日本人寄りの容貌ではあるが、鼻は高く彫りの深い顔立ちで、東洋と西洋のいいとこどりといった印象がある。

 その美しい瞳を見つめたまま唇が触れ合った。

 ペロリと下唇を舐められて、『中に入りたい』との意思表示をされる。目を開いたまま隙間を広げて迎え入れると、熱くて厚い舌がこちらの歯列をなぞってから奥を目指す。

 ピート香が口内で膨らみ、その酒精に心拍数が跳ね上がる。

「ん……」

 合わさった唇の合間から菫の艶声が漏れると、夫の綺麗な瞳が猫の目のように細められた。グラスを持っていたはずの彼の手はいつの間にかうなじに回され、もう片方の手がおとがいを優しくつかむ。

 頭部の前後を固定されて逃げようがなく、彼の嬉しそうな瞳を見つめながら隅々までられた。

「ぁふ、ん……、んっ、んぅ……っ」

 自分より大きな舌が、こちらの舌の付け根を突くと腰が揺れる。ぴりぴりする。

 ねっとりと執拗で容赦ない舌の愛撫は体の芯を溶かしてしまうようで、思わず夫の胸にりついて目を閉じた。

 菫の視界が塞がれた途端、彼の舌の動きが激しくなる。

 柔らかな蹂躙が口内を席巻して、夫に犯されていない粘膜など残っていなかった。もとより自分の体は隅々まで彼に支配されている。彼の指と唇と舌にすべてをかれている。それこそ腹の奥まで。

 ──気持ちいい……怜一さんのキスは、すごく、気持ちいい……

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