オパール文庫極甘アンソロジー(3)シンデレラママ!

佐木ささめ

『妻の愛が100%赤子に向かってしまって、夫が暴走しそうです。』佐木ささめ イラスト/田中 琳 (1)




『妻の愛が100%赤子に向かってしまって、夫が暴走しそうです。』佐木ささめ イラスト/田中 琳

 ふぎゃあ、と甘えた赤子の泣き声を耳にして、宗方菫は手にしていた美しい蒔絵万年筆をそっとテーブルに置いた。

 声の主は生後三ヶ月になる息子、龍一だ。九十三平米もある広すぎるほど広いリビングダイニングの壁際で、ベビーベッドから母親を求めている。

 お腹が空いたのかな、と思いつつ腰を浮かせたが、その前に家政婦兼べビーシッターの高橋が、笑顔で赤子のもとへ駆けつけた。

「もう起きちゃいましたかー? オムツを替えたらママのおっぱいをもらいましょうね」

 通いでここを訪れるシッターは二人いて、そのうちメインで担当するのは彼女だ。

 高橋は名入りのブランケットをがし、さっそくオムツをチェックする。部屋が広すぎるため、紙オムツのテープを引っぱって剝がす音は菫のもとまで届かなかった。

 自分の子の世話を他人に任せることにいまだ慣れず、高橋が赤子を連れてくるまで菫はソワソワと落ち着かない。そんな女主人の葛藤を見抜いたのか、オムツ替えを済ませた高橋は、泣き続ける赤子を笑顔で手渡してきた。

「今日はよく寝た方ですね」

「そうね。もうちょっとまとめて寝てくれるといいんだけど……」

「赤ちゃんには個性がありますからね。この子は寝ているより誰かと関わっているのが好きな子なんでしょう」

 大丈夫、寝なくってもちゃんと成長しますよ。と、四人の子を育て上げた高橋に言われれば、「そういうものかな」と少し安心する。

 では、子育て経験者は古い育児情報や自身の経験に基づく持論を振りかざし、若い母親を追い詰めることが多いと聞く。だが高橋はそういった押し付けをしないので助かっていた。

 彼女を雇ってくれた夫には感謝しかない。

 彼は仕事が忙しいうえに育児休暇を取りにくい立場のため、シッターがいなければ一人きりの初めての育児に悩みまくっていただろう。実家に頼るには自分の故郷は遠すぎたし、夫の実家には恐れ多くて近寄れない。

 菫は受け取った赤子を片腕で抱きながら、授乳服の胸元をくつろげて乳首を含ませた。勢いよく母乳を飲み始める子どもを見下ろしていると、あふれそうなほどの愛しさが込み上げてくる。

 昼食の支度のため高橋が離れていったので、菫は静かに我が子を見守っていた。

 エアコンのかすかな風切り音と、包丁が野菜を刻むリズミカルな音だけが響く静かな空間は、とても落ち着ける。

 外へ視線を向けると、真夏らしい高い青空と明るい太陽が眩しかった。一歩外に出れば、背中や胸部に筋を描く汗が浮かぶだろう。だがここは灼熱の大気とは無縁の過ごしやすさがある。

 空いた手で赤子のつるつるスベスベの肌をそっと撫でた。パッチリとした二重の綺麗な目が印象的で、親バカであることを除いても可愛い。まだ生まれたばかりの子なのに美形の父親──宗方怜一にそっくりで、その怜一に似ている義母など『私の血筋ね!』とメロメロだ。

 菫を宗方家の嫁として認めようとしなかった義母も孫可愛さに、『まあ、跡継ぎを産んでくれたから合格よ』なんて言うほどだった。

 しかも菫を邪険にすると、怜一が母親を新居から締め出して赤子に会わせようとしないため、今では嫁のご機嫌取りに必死である。

 ──本当に、私は恵まれている。

 この幸福を与えてくれた夫に心から感謝して、我が子を見つめる。己の腕の中で乳を吸う小さな子どもは、満腹になったのかうつらうつらとして眠そうだ。

 これは寝てくれるかな、と期待したのも束の間、広い部屋を横切ってベビーベッドへ下ろそうとした途端、赤ん坊は大きな声で泣き出した。

「あー……」

 ガックリと肩を落とせば高橋がすぐに寄ってくる。

「背中スイッチが押されちゃいましたねぇ」

 彼女は笑顔で赤ん坊を引き受け、オムツをチェックしてから体を揺らしつつあやしてくれる。

 自分が抱っこから下ろすと必ず泣き出すのに、高橋が下ろすと泣かないのは不思議だ。これが経験の差なのだろうか。

「奥様、坊ちゃんは私が見ていますから、どうぞ書き物の続きをなさってください」

「……うん。ありがとう」

 やはり赤子の世話を人任せにすることへためらいを抱くが、高橋はそれが仕事なのだから、己の方こそいいかげん雇い主の自覚を持つべきだろう。

 ……奥様と呼ばれることにも慣れないけど。

 もともと菫はごくごく普通の一般家庭出身で、両親と弟の四人の、豊かというわけではないが貧しくもない生活環境だった。

 大学卒業後、運よく大手医療機器メーカーに入り、開発品の特許出願や権利化の業務、知的財産に関する契約チェック等の管理部門に勤めていた。まさかその後、代表取締役の一人息子に見初められるとは思いもしなかったが。

 そこで視線をテーブルに落とす。

 菫は出産内祝いに添えるお礼状を書いていた。親族や親しい間柄の人からのお祝いは産後すぐにいただいたが、会社関係だと遅れて受け取る場合もある。内祝いのお品は懇意にしている百貨店へ頼んであるものの、お礼状は手書きが好まれるらしい。

 会社関係だと夫の秘書がリストを管理しているので雑務は減るが、それでもバラバラに届くお祝いにその都度返礼するのは、正直なところ面倒くさい。

 とくに政治家からお祝いがあった場合など対応が慎重になる。宗方家に関係があるのか、怜一自身に関わりがあるのか、そういった力関係は義母に頼らねばサッパリ分からなかった。

 良家の奥様は主婦業以外にもやることが多い。と、結婚してから初めて知った。

 今はまだ菫の体力が産前と同じレベルまで回復していないからと、夫はパーティー等の夫人同伴の仕事を断ってくれている。だがもうそろそろ奥様業を本格的に再開するべきなのだろう。

 ──まあ、とにかくこれを片づけないとね。

 再び手にした万年筆は、鮮やかな色合いと一瞬のい美を表現した、美しい花火の絵柄が再現されている限定品だ。今の暑い時季にはちょうどいいと、夫が貸してくれた逸品。これ一本で数十万円するという。

 自分の身の回りは、結婚前では想像もできないほど価値のある品々であふれている。それを分不相応だと戸惑うこともまだ多い。

 だけど最愛の夫が自分なしでは生きていけないと言ってくれたから、彼に相応しい体裁だけでも早く身に付けたいと思う。

 自然と眼差しが近くにあるオープンラックへ向けられる。いくつかの写真立てには、結婚式のショット以外にも、夫と赤ん坊の三人で写る家族写真があった。

 まだまだ慣れないことが多くてけそうになるときもあるけれど、これらの写真を見ると活力を取り戻す。

 菫は美しい万年筆を持ち直し、再びらかな字を書きっていった。


 その夜、十一時を過ぎて夫が帰ってきた。彼は龍一が生まれてからというもの、なるべく会食は断る方向に持っていきたいらしいが、それでも外せない会合なども入る。常に帰宅は遅い。

 とはいっても菫の方も夜中の授乳で起きている場合が多く、彼が音を立てないようリビングの扉を開けたとき、彼女はお茶を飲んでまったりしている最中だった。

「あ、おかえりなさい」

 ここは二百平米もあるうえに防音対策もバッチリなので、玄関の鍵を開ける音さえ聞こえてこない。

「ただいま。遅くなってすまん」

 彼は素早く妻に近づくと、肢体をギュッと抱き締めてキスをする。

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