奥手なエリート御曹司が目覚めたら、溺愛がとまりません!

久保ちはろ

一章 憧れの上司に(ある意味)告白されました。 (2)

 アンティークの腕時計を見ると、九時を少し過ぎたところだった。

(もう帰ろうかな、それとも、もう一杯飲んでいこうかな)

 いろんな男たちに、いろんなところへ連れて行ってもらったが、高級ホテルのバーで飲むのは久々だった。

 そうだ、せっかくだから今日の「後味の悪いデート」を、もう一杯の美味しいお酒で「一人飲みの贅沢な夜」に昇華させて家に帰ろう。

 そう決めて希美がオーダーをしようと顔を上げた時、ふと聞き覚えのある声を耳にした気がした。

 そちらに顔を向けると、ちょうどスーツ姿の三人の男性がバーの出入り口の方へ歩いていくところだった。接待のようで、恰幅の良い年配の男性を二人の若いビジネスマンが引き止めている。

 その身なりの良い年配の男性を、希美はどこかで見たことがあるような気がした。しかし、声の主とは違う。

 こちらに背中を向けているスーツの二人は場所が場所なだけに、低い声で相手と話していた。馴染みのある声はそのうちの一人だ。

 希美は、まさかという期待に胸を高鳴らせて、その背中を見ていた。結局、二人の努力は虚しく紳士が帰ってしまうと、彼らはバーに戻ってくるそぶりを見せた。振り向いた一人の顔を見て、鼓動が跳ねる。

 飯島課長。

 毎日顔を合わせている、憧れの上司の顔は見間違いようがない。しかし、もう一人には見覚えがなかった。

 グラスを持つ手がかすかに震える。

 飯島

 営業部営業一課の課長で、希美の上司である。五歳年上の三十一歳、独身。彼は希美が株式会社IGMに派遣された、その三ヶ月後に、ハノイ支店から東京支社に着任した。

 株式会社IGMは事務機器全般、コピー機やレーザープリンターからデジタルカメラなどの販売、製造を手がけるメーカーで、業界シェアナンバーワンの大企業だ。静岡に本社を構え、全国はもちろん、アジア方面からヨーロッパ、アメリカまで海外にも広く事業を展開させている。

 飯島の着任当日、朝礼で挨拶をする彼に注がれる女子社員の熱い視線は、フロアの空気を三度は上昇させ、たちまちピンク色に染めた。

 月並みに言うと、長身でイケメン。

 ヘアスタイルこそ耳をきちんと出した優等生然でありながら、茶髪。爽やかジゴロ系と言っても過言ではない彫りの深い精悍な顔つきに、シャープな顎のライン。毎朝出社前にジムで泳いでくるという──給湯室発の情報から──スーツの上着を脱いだシャツ姿が、惚れ惚れするような逆三角形であるのに、希美は大きく頷けた。

 だがしかし。

 最初こそ飛ぶ鳥を落とす勢いだった飯島の人気は、二週間、三週間と日が経つにつれ、緩やかに、だが確実に右肩下がりのグラフを更新していった。

『そりゃあ、背も高くてイケメンで、仕事ができるし? 独身だし? でもさ、飯島課長って厳し過ぎ。男女平等精神は立派だけど……』

『ダメ出ししかしません! 私、レイアウトだけで三回やり直しさせられました!』

『二言目には経費削減。もしかして、実生活もめっちゃケチ? 家のトイレに節水グッズ付けてるよ、絶対』

 給湯室で、ランチのカフェで、女子社員たちが飯島豊を話のネタにしない日はなかった。だが評価は甘口から中辛、そして辛口へ。それぞれが勝手に甘い妄想を描いていただけに、飛び出す文句はなかなか辛辣だった。今では完全に、その飯島のハードな仕事ぶりに、女子社員だけでなく男子社員さえ彼を遠巻きにしていた。

 でも、課長で、社員を管理する立場なら、それが普通じゃないかな。

 派遣で色々な企業を渡り歩いた希美は、飯島の態度がそこまで敬遠されるものではないと思っていた。むしろ、全く社員を管理できていない名ばかりの管理職の方が多く、そのせいで仕事がスムーズにいかないのを他社では歯嚙みする思いで見てきた。

 だから、希美は飯島の外見だけではなく、その厳しくもスマートな仕事ぶりにも一目置き、密かに憧れていたのだった。


(どうしよう。声をかけようか。でも、なんて? それに仕事中みたいだし)

 急な上司の出現で、希美は緊張から喉の渇きを覚えた。飯島を目の端で捉えながら、バーテンダーに声をかける。せつな、飯島の注意がこちらに向くのを、空気の流れで感じた。彼が、近づいてくる。

 オーダーを受けたバーテンダーがボトルに向きを変えるのと同時に、「北村さん?」と声がかかった。希美は一瞬息を吞み、驚きの表情を作ってから、ゆっくりと振り向いた。

「飯島課長……どうして……。びっくりした……」

「それはこっちのセリフだよ。聞き覚えのある声がしたと思ったら……。あ、隣いいかな」

「もちろんです」

 お連れ様は? と言いかけて慌てて口をつぐんだ。

 さっと見回す限り、飯島と一緒だった男性はバーにはいなかった。今、もう一人のことを出したら、自分が飯島をずっと観察していたのがバレてしまう。

「何飲んでるの?」

「……山崎、18年です」

「お、本格的だね」

 希美は胸中で舌打ちをした。もっと、可愛いカクテルを頼んでおけばよかった。デートでも、初めの一杯で「山崎」を頼むと大抵の男性は引き、「場慣れした女」とすぐに目の色を変える。

 しかし、飯島はそんなそぶりを見せず、「やっぱり、ウィスキーは山崎だよね」と、同じものを頼んだ。

「こうやって落ち着いて話すの、初めてだね」

「そうですね……」

「よく、来るの? ここ」

「まさか……振られたからです。デートで、逃げられちゃいました」

 正直に言ったら、慰めてくれるだろうか。そんな微かな期待を胸に相手を見つめた。が、飯島は破顔した。

「まさか。北村さんが振られるなんて」

 相手はすっかり冗談だと思っている。そして、それ以上この話題に踏み込んで来る様子はなかった。

「北村さん、うちにはどれくらいいるんだっけ。確か一年契約だったよね」

 肩透かしを食い、がっかりした希美だったが、すぐに姿勢を正した。

「はい。今月で十一ヶ月です。IGMさんにお世話になるのは来月までですよ」

「え、来月」

 早いなあ、と飯島はウィスキーを一口飲んだ。

「ええ、課長がハノイから東京支社にいらしたのは、私が派遣された三ヶ月後。一緒にお仕事したのは実際八ヶ月なので、短く感じられるのかもしれません」

 そう言いつつ、飯島のレスポンスから、自分に興味を全く持っていないのを再確認し、胸中でため息をついた。

「そうだな、最初は僕も慣れるのにバタバタしてたし。僕にとって東京は中途採用みたいな扱いだから」

「あれ、そうだったんですか」

 希美は思わず身を乗り出しそうになる自分を抑え、代わりに首を少しかしげた。

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