先生に甘くオトナな恋を教わりました

三津留ゆう

Prologue (3)

「……あの、このお話、どうしてとちゅうで終わってるの?」

「ああ──これ?」

 彼は、手にしたノートに目を落とした。

 その眉間が、痛みを思い出したようにきゅっと狭まる。なのに、口もとは皮肉げに笑っていて、はじめて見る表情に不安を覚えた。

 もしかすると、機嫌を損ねてしまっただろうか。

 そんな心配とはうらはらに、彼はおだやかに言葉を継いだ。

「このお話……続きはあるんだけどね。どう訳していいか、わからなかったんだ」

「やく……?」

 まだ小さなわたしには、理解できない言葉だった。

 まばたきをすると、逆に彼がふいをつかれたような表情を浮かべる。けれど、その一瞬あとに、ふっと笑うみたいな吐息をこぼした。

「訳す──翻訳のことだよ」

「ほんやく……」

「そう。このお話はね、もともと外国の言葉で書かれてるんだ。それを、詩織ちゃんがふだん読んでるような日本語にするのが、翻訳」

「へぇ……」

 わたしは、ぱらぱらとノートをめくる彼の手もとを尊敬のまなざしで見た。

 外国の言葉を日本の言葉にできるなんて、このお兄ちゃんはすごい。

「じゃあ……この先に書いてあるのは、お兄ちゃんでもほんやくできない、むずかしいことなの?」

「……そうだね。とても、難しいことだと思うよ」

「どんなこと?」

「うーん……実は、僕にもまだよくわからないんだ」

 なにかを思い巡らすように、彼は暮れはじめた空に顔を向ける。

「簡単に言うと、大好きで、手に入れたいってことかな。日本人の中には、『月が綺麗ですね』とか、『死んでもいいわ』なんて訳した人もいるようだけど」

「大好きだと、死んじゃうの!?

 穏便でない言葉に、わたしはぎょっとして叫んだ。

 すると彼は、今度こそ声を立てて笑った。

 上品な面差しが、笑うと少年みたいに無邪気に崩れる。その変化に、わたしの動悸は大きくなった。自分の身体の、コントロールが利かなくなる。

「あるいはね。苦労して、その挙句死んだとしても、後悔はしないだろうね」

 まだくすくすと笑いながら、彼はどことなく投げやりな口調で言った。

「俺も同じ気持ちだから、わからなくはないよ」

「同じ……?」

 彼の言っていることは、難しくていまいちよくわからない。けれど、わたしには、さっきから彼が見せる表情が、なんだか寂しそうに見えた。

 ──どうして?

 翻訳した物語の続きには、「大好きだ」というようなことが書いてあるという。それと同じ気持ちだと言うからには、彼にも好きなものがあるのだろう。そのわりに、彼の顔には好きなものを語るときの晴れやかさがない。

「お兄ちゃんも、好きなものがあるの?」

 そう問いかけたのは、どこか自嘲気味な彼のことを励ましたいと思ったからだ。

「……そうだね。好きなものがあるよ、僕にも」

 彼の答えは、誰に向けたものでもないように聞こえた。

 けれど、それを聞いたわたしは少しだけ安堵した。

 わたしなら、好きなもの──叔父の持っている本や、叔母の作ってくれる甘いお菓子を思い浮かべると、のあたりがふわんとゆるんでしまう。

 彼にも好きなものがあるのなら、それを想って笑えるはずだ。今みたいに寂しそうな笑顔ではなくて、あたたかい笑顔になれるはず。

「だったら、好きって言ったらいいと思うよ」

 えへんと軽く胸を張り、生意気にもわたしは言った。

「わたしね、おじちゃんが見せてくれるご本や、おばちゃんがくれるお菓子が大好きだから、『好き』って言うの。ふたりとも、すごくよろこんでくれるよ?」

 まだ小さなわたしには、「好きなもの」があるという彼が、どうしてそんなふうに痛々しい顔をしているのかわからなかった。

 それを好きなことで、なにかつらいことでもあるのだろうか。

 ──そういえば。

 わたしは、ちょっと首をかたむけて考える。

 ──お母さんは、わたしがお菓子を食べ過ぎると怒るなあ……。

 怒るお母さんを思い浮かべると、わたしの眉間にも皺が寄る。

 ──もしかするとお兄ちゃんも、その「好きなもの」が好きすぎて困ってるのかもしれないな?

 ピンときたわたしは、目の前の彼を見上げた。すると彼は、綺麗な顔に似つかわしくなく、こちらを見つめてぽかんと口を開けている。

 なにか、変なことを言っただろうか。

 わたしが目をぱちくりさせると、学生さんは、ふっとふき出し、こらえきれないといったように笑いはじめた。

 わけがわからず、わたしはしばらくそれを見ていた。でもそのうち、一緒に笑い出してしまう。なんにせよ、彼が寂しそうな顔をしているよりも、楽しく笑ってくれているほうがずっといい。

 ひとしきり笑うと、彼はなにか納得がいったような、すっきりした表情で言った。

「そうだね。好きなものは好き、詩織ちゃんが言うとおりだ。迷いが晴れたよ。……ありがとう」

 かたちのいいくちびるに、ふんわりと笑みが乗る。

 なんだかよくわからないけれど、お礼を言われたことはうれしかった。

 それに、なにより──彼が笑ってくれたことが、彼を笑顔にすることができた自分が、誇らしかった。

 そんな気分に背中を押されてか、わたしは彼の持つノートを指した。

「そのつづき、なんて書いてあるの?」

「この続き?」

 彼はちらりと手の中のノートに目をやると、ふたたびわたしのほうを見た。

 ほころんだ口もとが、それまでと違う空気をまとっている。

 ──なに……?

 まだ八歳にしかならないわたしは、その雰囲気の変化についていけなかった。

 棒立ちになったわたしの頭に、ぽんと大きな手のひらが乗る。

「……きみが、大人になったら」

 わたしが見上げる彼の瞳は、ちょうど彼の肩越しに見える三日月のように、うつくしいカーブを描いていた。

「わたしが……大人になったら?」

 今であれば、理解できる。彼のあの表情は、艶めいたものだった。

「そう。きみが、大人になったら」

 彼はゆっくりとうなずくと、さらりとわたしの髪を撫でた。

「──教えてあげるよ、この続き」

 やさしくわたしを撫でる彼の手が、頼もしく大きく、あたたかかったこと、月夜に浮かび上がる彼の姿が、壮絶に綺麗だったことを──。

 大人になった今になっても、はっきりと覚えている。

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