先生に甘くオトナな恋を教わりました

三津留ゆう

Prologue (2)

 ふだんなら、叔父にあいさつをするやいなや書庫に飛び込むのに、叔父が「彼と少し話をするから、詩織は書庫にいなさい」と促されるまで動けなかった。

 ようやく意識がはっきりしてきたのは、書庫に移動し、大好きな本を読み、叔母に呼ばれておやつのケーキを食べさせてもらっていたときのことだ。

 ケーキを食べていたダイニングの横、玄関に続く廊下から、叔父と彼の声が聞こえた。

「先生、今日はお時間をいただいてしまい、すみませんでした」

「いや、気にすることはないよ。迷う気持ちは僕にもわかる。なにかあれば、いつでも相談においで」

「ありがとうございます」

 また学校で、という叔父の声に続き、玄関のドアが開く音がする。

 ──帰っちゃうんだ。

 なんとなく落胆してケーキを口に運んでいると、ダイニングに置かれていた固定電話が鳴りはじめた。

 夕飯の支度にかかっていた叔母が、ダイニングの奥にあるキッチンで、「詩織ちゃん、ごめん、今ちょっと手が離せないのー」と声を上げている。

「わかった、わたしが出る!」

 叔母に応えて受話器を上げると、叔父あての電話だった。

 急いで叔父を呼びに玄関に行くと、叔父は学生を見送って一度外に出たのだろう、ちょうど玄関の扉を開けて入ってくるところだ。

「おじちゃん、電話だよ」

「ああ、呼びに来てくれたのか。ありがとう」

 叔父は扉も閉まらないうちに、あわてて靴を脱ぎダイニングへと向かった。

 ぱたん、とマホガニーの扉が閉まる。

 ──あのお兄ちゃんと、ちょっとくらいお話してみたかったな。

 当時だって今と変わらず、あまり積極的に人に声をかけられるほうではなかった。

 そんな自分の性格を押してなお、話をしてみたいと思わせる魅力が彼にはあった。

 作りものめいて見えるほどにうつくしい容貌、落ち着いた声。育ちのよさを感じさせる初対面のあいさつ。

 そして、なによりも……。

 ──僕と同じだ。

 そう言ったときのやさしい笑みが、まだわたしの胸をあたためていた。

 叔父は彼に、「なにかあればいつでも相談においで」と言っていた。

 一方のわたしは、しょっちゅう叔父の家に来ている。

 運がよければまた会えるだろうか。会えたらいいな──そんなふうに思いながら、わたしもダイニングに戻ろうとを返したところだった。

 ──あれ……?

 ふと目をやった靴箱の上に、ノートがある。

 数時間前、わたしがここに着いたときはなかったはずだ。もしかすると、さっきの彼が忘れていったのかもしれない。

 ──もしそうなら、届けなきゃ。

 彼がここを出てから、まだいくらも経っていなかった。駅に向かったのだとすれば、わたしも道は知っているし、走れば追いつけるだろう。

 本当に彼のものか、確認しないと……そう考えたのは、都合のいい言い訳だ。

 靴箱の上のノートを、おっかなびっくり手に取ってみる。

 ノートの表紙には、「No.2」とだけ書かれていた。

 大学の授業で使っているものだろうか。

 表紙をめくると、端正な文字で、英語と日本語が一行おきに書かれている。英語はなにが書いてあるのかわからないけれど、日本語のほうは、かぎかっこや感嘆符が含まれているところを見ると、どうやら物語が書いてあるようだ。

 物語とみると、どうしても読みたくなってしまう。

 勝手に見てごめんなさい、と思いながらも、ノートをめくる手を止められなかった。

 難しい漢字を飛ばしながら読んでいくと、書いてあるのは、恋のお話のようだ。

 書き込みがあるのは、ノートの最初の数ページだけだった。

 No.2とナンバリングしてあるからには、お話には前後があるのだろう。幕開けも幕切れも、唐突なものだった。

「……?」

 わたしが首をかしげたのは、とくにその終わりの部分だ。

 ノートの最初は、それでも章立てのはじめ、区切りのいいところからはじまっていた。

 ところが最後の部分は、文章の途中で途切れている。

 彼の端整なたたずまい、そして几帳面な文字からすると、文章のなかばで書くのをやめてしまうのは不自然に思えた。

 ──書いてたときに、なにかあったのかな。

 続きはどうなるんだろう、できればお話のはじめのほうも読みたいな……。

 そんなことを考えていたところに、こんこん、と玄関のドアが叩かれた。

「先生、すみません」

 聞こえてきたのは、先ほどの彼の声だ。

 他人のノートを盗み見ていたわたしは、びくりと身体をすくませた。いつのまにかわたしは、玄関に座り込み、夢中でノートを読んでいたのだ。

 控えめにドアが開き、くだんの学生が顔を出す。

 ──怒られる。

 わたしはノートを閉じることもできないまま、きゅっと目を瞑った。勝手に人のものを手にしていたので、叱られることを覚悟する。

 ところが彼は、わたしがノートを見ていたことをめはしなかった。

「よかった。やっぱり忘れてたんだ、そのノート」

 ほっとした様子で、彼は大きく息をつく。

「さっきインターフォンを鳴らしたんだけど、先生は電話中で、奥様は料理の手が離せないってことだったから、上がらせてもらったんだ。驚かせたね、ごめん」

「いえ。……ノート、そこの靴箱の上にありました」

 そろそろとノートを差し出すと、彼はぱっと破顔した。

「気づいてくれて、ありがとう」

 にっこりと笑う顔に、胸が痛いようにきゅんとなる。

 わたしにとっては、はじめての感覚だった。

 ノートを渡してしまうと、彼はもう一度わたしにお礼を言って、玄関を出た。

 わたしも叔父と同じように通りまで出て、駅への道をたしかめる彼に案内をする。

「じゃあ、今日はお邪魔しました。先生によろしく」

 やわらかく口角を上げた彼が、わたしに向き直ってそう言った。

「はい。……あの」

 わたしは、しどろもどろに切り出した。自分にそんな勇気があるなんて、わたし自身もびっくりしていた。

「うん? どうしたの?」

 彼は、言いよどむ声を聞き逃すまいとするように、わたしの前にかがみ込んだ。こうして視線を合わせてもらうのは二回目だ。

 わたしはノートを指差した。

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