狂愛と情愛 二人のアラブ王子に溺れる夜

緒莉

第一章 (3)

 ポーッと彼に見とれている愛梨の肩を抱き、男性が歩きだした。後ろから、彼の連れだと思われる中年男が何人かついてくる。

 愛梨が連れて行かれたのは、マーケットの隅にある応接室のようなところだった。入り口は目立たないのに中は意外なくらい広く、ついさっき店で踏むのがもったいないと思ったペルシャ絨毯が敷き詰められていた。

「座って」

「あ、はい……」

 部屋にいた数人の男性にじろじろ見られているのを感じながら、やけに座面が低くて長いソファに腰掛けた。

 グラスに入ったジュースを差し出され、ありがたく飲ませてもらう。一気に緊張がほぐれ、愛梨は天井を仰いで大きく息を吐いた。

「落ち着いた?」

 彼が愛梨の隣に座った。

「少し。あの、ありがとうございました」

 愛梨は頭を下げた。どうして騒ぎになってしまったのかはまったくわからないが、彼に助けられたのは間違いない。

「さっきのことを説明したいんだけど……英語で大丈夫かな?」

 愛梨は答えに詰まった。座って、とか、こっち来て、とかそのくらいのことならさすがに聞き取れるが、あまり込み入った話は正直理解できる自信がなかった。

「──お前、日本人か?」

 いつのまにか目の前に立っていた別の男性に日本語で尋ねられ、愛梨はびっくりして固まった。彼も助けてくれた男性同様カンドゥーラを着ていて、地元民にしか見えなかったからだ。

「違うのか? 中国人? それとも韓国人?」

「あっ……い、いえ、日本人ですっ」

「だったらさっさとそう言え」

 ジロリと睨まれ、愛梨は身をすくませた。

「ターリク、そんな怖い顔をするな。サビが怯えているじゃないか」

 たしなめるように隣の彼が言った。サビとはどういう意味だろうと愛梨はちらりと思う。

「弟がすまないね」

「弟!?

 愛梨は思わず二人の顔を見比べた。だって全然似ていないのだ。顔立ちも雰囲気もまるで違う。兄に引けを取らないくらい整った容姿ではあるが、ターリクという弟の方は目がきつく、気難しそうに見えた。にこやかで優しげな兄とは全然違う。

「似てないだろ。俺は半分日本人だからな」

 ターリクは兄の隣にドサリと腰を落とした。

「日本人って……お父さんが、ですか?」

「いや、母親だ」

 助けてくれた彼とは異母兄弟ということか。そう言われてみると、確かにターリクの顔は純粋なアラブ人とは少し違って見えた。なんにせよ、日本語が通じるのは愛梨にとってとてもありがたい。

 まずアラビア語で二人が話し、事態を把握したターリクが日本語で愛梨に何がいけなかったのかを説明してくれた。

 愛梨は「邪悪の目」でさっきの女の子を呪ったと思われてしまったのだという。

「はあっ!? 呪ってなんかいません!」

「じーっと見つめて、褒めちぎったんだろ?」

「それはしたけど……」

「それじゃ、そう思われてもしかたねえんだよ」

 愛梨はまったく納得できなかったが、ターリクが言うにはこうだ。

 嫉妬や羨望を含んだ目を「邪悪の目」といい、綺麗なものや上手なことなどを台無しにしてしまうと、この国だけでなくアラブ・北アフリカでは広く信じられている。じーっと目をこらして見つめ、羨望を感じることでその力は発揮されるため、目をこらすような行為は禁物。何かを直截的に褒めることもタブーなのだ。

「じゃあ、マシャラーっていうのはなんだったの?」

「直訳すると、神がそのように創られたってことだ」

「ふうん……?」

「わかんねえか? さっきのお前の話で言うと、そのアバーヤすげえ綺麗だけど、神が創ったってんならしょうがない、妬まないでおいてやるよ、っていう感じだ」

 なるほどわかりやすい。でもなんてひどい言い方だろう。愛梨は少し笑ってしまった。少々口は悪いし目付きも悪いけれど、ターリクも悪い人ではなさそうだ。

「それからサビ、もうあんなふうに女性に気安く話しかけてはいけないよ」

 ターリクとは違うゆったりした口調で兄の方が言った。ゆっくり話してくれたから、英語でも聞き取れたが、なぜ女性に話しかけてはいけないのかはよくわからなかった。この国の女性は、特別シャイなのかもしれない。

「そういえば君、名前はなんていうの?」兄の方に聞かれた。

「アイリです。佐藤愛梨」

「サトウ?」とターリクが眉をわずかに上げ、兄の方が「アイリ?」と驚いた顔をした。

「私はアリー。似ているね」

「わあ、本当ですね!」

 なんだか運命の出会いみたいで、嬉しくなる。

「アリーとアイリ。ほんとにそっくり──えっ?」

 口元に笑みを浮かべたアリーが、顔を寄せてきた。

 近い。近い近いっ。キスされる!

 愛梨はぎゅううっと瞼を閉じた。しかしアリーは愛梨の鼻に鼻を擦り付け、すぐに顔を離した。爽やかな森のような匂いが愛梨の鼻に残る。

 キスではなかったとはいえ、愛梨は驚きすぎて息が止まりそうだったが、ターリクや部屋にいる関係者らしき人たちはまったくびっくりしていない。ということは、きっとこれは、アラブ流の挨拶みたいなものなのだろう。気安く話しかけてはいけないのかと思えば鼻と鼻をくっつけたり、こちらの人の距離感というものが、愛梨にはさっぱりわからなかった。まだ心臓がバクバクしている。

「──おっと、もうこんな時間か」アリーが壁の時計を見て呟いた。

 愛梨もつられて時計を見た。父から離れて、もう一時間以上が経っていた。

「もう行かなきゃ。きっとお父さんが心配してる」

 愛梨は慌てて立ち上がった。

「今日は助けてくれて本当にありがとう」改めてお礼を言うと、アリーは柔和な笑みを浮かべた。

「せっかく縁あってこの国に来てくれたのに、わけのわからない怖い国だと思われてしまっては悲しいからね。君が我が国を好きになってくれると嬉しい」

 愛梨はこの国が好きになりかけていた。アリーのおかげだ。ここを出たらもう二度と彼に会えなくなると思うと、足が重くなる。

「……また会える?」

「もちろん」

 即答してもらえたから、ホッとした。アリーから渡された名刺には、名前と電話番号とメールアドレスだけが書かれていた。

「……ターリク、ターリク」

「うん?」

 部屋を出る前、愛梨はターリクにそっと耳打ちした。

「アリーって、まるで王子様みたいだね」

「ぶふっ」とターリクが吹き出した。子供みたいなことを言ってしまったと愛梨は急に恥ずかしくなってきた。

「ちょっと、そんなに笑わなくてもいいじゃない」

「だって、おまっ……く、くくくっ」

 肩をプルプルさせて笑っているターリクを見て、おや、と思った。さっきまでよりずっと若く見えたからだ。二人ともずっと年上だとばかり思っていたけれど、もしかしたらターリクとはそんなに年が変わらないのかもしれないとこのとき愛梨は思った。




 愛梨がブルジュ・ラーイアのフロントクラークとして働きだしてから、半月が過ぎた。七つ星のサービスを期待してやってくるお客様と接する毎日は緊張の連続だ。

 ブルジュ・ラーイアでは、チェックインするお客様をカウンターの前で立って待たせたりはしない。ロビーのソファに案内し、まずはアラビックコーヒーとデーツ、バラの香りのおしぼりでいでいただく。部屋が決まったら一緒にエレベーターに乗り、宿泊階まで案内して、バトラーに引き継ぐところまでが愛梨の仕事だ。

 愛梨が新人かどうかなんて、お客様には関係のないことだから、接客時はまったく気が抜けない。それでも、一流のホテルで一流のお客様と接する仕事は楽しく、大学で英語とアラビア語を猛勉強した甲斐があったなと愛梨はバティワでの生活に充実感を覚えていた。

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