狂愛と情愛 二人のアラブ王子に溺れる夜

緒莉

第一章 (2)

「なによ、教えなさいよ」

 ナズリに顎で頭の天辺をグリグリされたが、愛梨は笑ってごまかした。大事な思い出すぎて、とても口には出せなかった。

 愛梨はこの地で、ずっと前にも「赤ちゃんみたい」と言われたことがあった。

 このネックレスをくれた彼とその弟は、元気にしているだろうか。ここにいれば、さよならも言えずに別れたあの美しい兄弟に会える日がいつか来るかもしれないと、愛梨は淡い期待を抱いていた。




 愛梨がバティワに住むのは、初めてではない。今から八年前、中学生の頃、商社に勤めていた父の仕事の都合で一年ほどこの国に滞在したことがあるのだ。

 最初の半年は、ひたすらつらかった。入れられたインターナショナルスクールにまったく馴染めなかったからだ。世界各国から集まってきたクラスメートたちは、皆優秀で向学心に溢れていて、英語が苦手だった愛梨はあっという間に落ちこぼれた。もともとはお喋り好きで明るい性格だったはずなのに、学校では一日中誰とも口をきかず、ただいて座っていた。半分以上意味のわからない先生の話をひたすら聞き流し、授業が終わるのを待つだけの日々。仕事が忙しい父に心配をかけたくなくて、日本に帰りたいとは言えなかった。

 それでも父が休みの日は楽しかった。思う存分日本語で会話ができたし、大きなショッピングモールや華やかなベリーダンスのショー、スパイスや金を扱う小さな店が集まった昔ながらの市場など、父は休みのたびに愛梨をいろんなところに連れて行ってくれた。

 そんなある日、愛梨は父に連れられてバティワの隣国シャルークに行った。隣国といってもシャルークはバティワと十キロほどしか離れていないし、連邦国家を構成する仲間だからビザもいらない。家賃の安いシャルークに住んでバティワに通勤する人も多く、愛梨の感覚としては東京から千葉に遊びに行ったくらいの感じだった。

 近代的な高層ビルが建ち並ぶバティワとは対照的に、シャルークにはアラブらしい雰囲気が色濃く残っている。シャルークで一番大きいというマーケットも、一昔前の駅舎のような建物で、青いタイルの装飾がとても綺麗だ。バティワのショッピングモールほど広くはないが、シャルークの方が土産物などをお得に買えるらしく、大勢の観光客でずいぶん賑わっていた。特にペルシャ絨毯が種類も豊富で安いと人気のようで、愛梨の父も熱心に品定めしていた。

 売られている絨毯はどれも手の込んだ模様が織り込まれて、うっとりするほど美しかった。足で踏んでしまうなんて、なんだかもったいないと愛梨は思ったのだが、実際、壁掛けとして飾る人もいるらしい。

 スークでの買い物は、何軒も店を回って見比べ、粘り強く価格交渉をするのが普通なので、とても時間がかかる。愛梨は二軒目までは父におとなしくついていき豪華な絨毯を一緒に眺めていたのだが、三軒目ともなるともうすっかり飽きてしまい、父から離れ、一人でふらっとテラス席のあるカフェに入った。シャルークは治安がいいから、明るい時間なら若い女が一人でいたところでどうということもない。

 オレンジジュースを飲みながら、歩いている人たちを眺める。いったいここがどこの国なのかわからなくなってしまいそうなくらい様々な人種で溢れていたが、愛梨の目は自然とアラブの衣装を身に着けている地元民に吸い寄せられた。

 バティワに半年住んでいても、愛梨はアラブ人とまともに話をしたことが一度もなかった。バティワやシャルークなど、好景気に沸く湾岸の国では、住民の九割が外国人で、わずか一割に過ぎない地元民は自分たちの社会規範の中だけで生活するため交流が全然ないのだ。

 アラブの人たちは、男性はカンドゥーラと呼ばれる白くて長いワンピースのような服を着て、頭に白か赤い格子柄の布をかぶっている。一方女性は、全身白い男性とは対照的に、真っ黒な外出着であるアバーヤで全身を覆い、髪が見えないようスカーフを頭に巻いている。

 毎日同じものばかり着て、飽きないんだろうか。伝統的衣装の文化的背景などまるで知らない愛梨には不思議で仕方なかった。女性は例外なく目元の化粧に気合を入れているから、オシャレをしたくないわけではないのだろうに。

 そんなことを考えていると、親子だろうか、女性の二人連れが近づいてきて、愛梨が座っている隣のテーブルについた。化粧が濃くてよくわからないが、娘の方は愛梨とそう変わらない年齢に見えた。勝手に親近感を抱き、ちらちらと様子を窺っているうちに、愛梨は気がついた。アバーヤなんてただの真っ黒い布だと思っていたけれど、全然そんなことはない。至近距離からよくよく見ると、胸の辺りに繊細な刺繡が施され、裾にはぐるりとラインストーンがついているではないか。

「……?」

 あんまりじろじろ見てしまったものだから、女の子が不審そうな顔で愛梨の方を見てきた。さすがに失礼だったかと反省し、愛梨はニコッと笑った。

「そのアバーヤ、すっごく綺麗ね」片言の英語で、思い切って話しかけてみた。「オシャレでびっくりしちゃった。じろじろ見てごめんなさい、でもとっても素敵」

「ひいいっ!」

「……え?」

 拙いなりに、一生懸命褒めたつもりだった。しかし女の子は喜ぶどころかひどく怯えた顔になって、母親らしき女性にりついた。母親も恐怖に引きつったような顔をして娘を胸に搔き抱き、すごい剣幕で愛梨に何事かまくしたててくる。

「え……な、何……?」

 英語でも怪しいのに、アラビア語。しかもものすごい早口で怒鳴られているため、何を言われているのかまるでわからない。

 おろおろしているうちに、騒ぎを聞きつけ、周囲に人が集まりだした。ただ、着ているものを褒めただけなのに。いったい何が起こっているのかまったく理解できず、愛梨はパニックに陥った。

 集まった人たちは、遠巻きに見ているか、母親と同じように怒鳴ってくる人ばかりで、愛梨を助けてくれる人は誰もいなかった。頼みの綱である父の姿も見えない。

「怖いよ……お、お父さんっ……」

 涙が溢れてきたそのとき、目の前が急に真っ白になった。

 驚いて顔を上げると、カンドゥーラを着た男性が、愛梨を背に守るようにして立っていた。

「あの──」

 振り返った男性を見て、愛梨は息を吞んだ。美しい、と男の人に対して思ったのは初めてだった。少し下がり気味の優しそうな瞳が、愛梨を見ている。彫りの深いエキゾチックな顔立ちは、まるで高級ブランドのモデルのようで、こんなときだというのに愛梨は彼に見とれた。

 その美しい顔が近づいてきたかと思うと、「マシャラーって言って」と耳元で素早く言われた。

「え?」

 英語だったから、一瞬何を言われたのかわからなかった。

「あの子に、マシャラーって言うんだ。意味はわからなくていいから、早く」

「あ……マ、マシャラー! マシャラーマシャラー!」

 愛梨はその呪文のような言葉を、怯えている母娘に向かって必死で叫んだ。意味などまるでわからないが、他にできることは何もない。

 呪文の効果は覿面だった。周囲の緊張感は目に見えて緩み、別のもっと明るい興奮が沸き起こったのがわかった。愛梨に集中していた視線は、もはやすべて男性に注がれている。皆もう愛梨に対する興味など失ってしまったようだ。男性がにこやかに笑って片手を上げると、周囲から歓声が上がった。

 有名な人なのだろうか。少し余裕のできた愛梨は、男性の横顔をまじまじと見た。顔立ちが日本人とは違うから、年齢がよくわからない。十代後半か、二十代か。人前に立つことに慣れているのか、振る舞いがやけに堂々としているから、もしかしたら本当に有名なモデルか俳優なのかもしれない。

「さあ、行こう」

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