狂愛と情愛 二人のアラブ王子に溺れる夜

緒莉

第一章 (1)




第一章




 メイクはしっかり。特に目元。アイラインはリキッドで引き、目尻は長めに撥ね上げて。ネイルは控えめ。ラメはなし。落ち着いた色のグラデーションで、あくまで上品に。制服のスカーフは、色味がおとなしめだから、首の横で花が咲いたような結び方をして華やかに。

 よし、完璧。

 後ろ姿や足元まで、自分の姿を何度も鏡で確認してから、佐藤愛梨は従業員更衣室を後にした。

 胸を高鳴らせて、表に通じる従業員出入り口の扉を開く。朝十時という半端な時刻のためか、廊下には誰もいなかったが、一礼してから足を踏み出す。敷き詰められた黄色い絨毯には、土足で踏むのがもったいないような繊細な模様が織り込まれている。

 ここで働ける誇らしさに、自然と背筋が伸びた。この建物のすべては、世界中から最高級の調度品を取り寄せて作られている。壁に飾られた絵画からドアの取っ手まで、愛梨の目に入る何もかもが美しかった。

 少し進むと、建物の中心にあるロビーに着き、目の前がパッと開けた。黄金の柱がいくつもそびえ立つ、地上百八十メートルにも及ぶ吹き抜けは、何度見ても息を吞んでしまうほど豪華だ。真ん中にあるモザイクタイルが一面に張り付けられた噴水は、屋内だというのに高さ四十メートルのところまで噴き上がっている。

 ブルジュ・ラーイア。それが、愛梨の職場となった、バティワ国内のみならず世界にその名を轟かす超高級ホテルの名前だった。

 バティワは近年目覚ましい発展をしている、アラビア湾に面した小さな首長国だ。人口の九割は外国人で、ビジネスチャンスを求めて世界中から人と金が集まってきている。ブルジュ・ラーイアはそのランドマーク的な存在で、風をんだ白い帆を模した優美な建物は、海岸から二百メートル以上離れた人工の島の上に建っている。本土側からは橋を渡ってくるしかなく、宿泊者かレストランの予約があるものでないと検問所で止められてしまうためセキュリティは万全だ。客室は全室メゾネットタイプのスイートで、バスルームのアメニティはエルメス。七つ星のサービスと自ら豪語するだけあって、各階には二十四時間待機のバトラーまでいる。

 日本の大学を卒業したばかりの愛梨は、念願かなって第一希望だったこのホテルへの就職が決まり、親の反対を押し切って一人バティワにやってきた。一週間の研修でこのホテルやバティワという国のことを教え込まれ、今日からは晴れてフロントクラークの仲間入りをする──はずだったのだが、フロントの内側に入るなり愛梨は誰かに肩を摑まれた。

 振り返ると、先輩社員のナズリがいた。

「おはようございます」と、愛梨はとりあえず英語で挨拶した。

 研修中顔合わせをした五歳年上のナズリは、教育係として愛梨に今日から現場でいろいろ教えてくれることになっているのだが、なんだか呆れた顔をしている。

「おはようじゃないわよ。アイリ、あなたなんて顔してるの」

 なんて顔って、と愛梨は困惑した。生まれたときから二十三年、愛梨はずっとこの顔だ。

「顔に何かついてます?」

「違うわよ、きちんと化粧しなきゃダメじゃない」

 ナズリは大げさなくらい大きなため息をついた。

「あの、一応してるんですけど……」

 それもいつもよりずっと念入りに。という愛梨の言い分は、まるで聞いてもらえなかった。

「ちょっといらっしゃい、直してあげる」

 愛梨は引きずるようにしてフロントの裏にある従業員用の化粧室に連れて行かれ、鏡の前に座らされた。

「まったく、研修のときも地味な子だなと思ってたけど、まさか現場にまでそんな顔でくるとは思わなかったわ……これじゃ、ブルジュ・ラーイアはフロントに子供を置いているのかって言われちゃうわよ」

 ナズリは自分用の化粧ポーチからまずはチークを取り出した。ポンポンと頰骨の上に色を置かれ、鼻の脇には影を入れられる。

「はい、目をつぶって」

 言われた通りにすると、にふわっと柔らかいブラシが当たった。アイシャドウを塗られているようだ。続けて瞼の際にアイラインを引かれ、最後にはマスカラを塗られたのがわかった。

「いいわよ」

 目を開けた愛梨は、思わず「わっ」と声を上げてしまった。鏡にさっきまでとは全然違う顔が映っていたからだ。大人っぽいというか、色っぽいというか。面白くて、ついまじまじと鏡を見てしまう。

「なんだか、私じゃないみたい」

 瞼にはこってりとパープル系のアイシャドウが塗られ、アイラインは自分が引いた線より倍は太く引き直されていた。マスカラも、睫毛が十倍ぐらい増えたんじゃないかと思うくらいにたっぷりと塗られている。

 この国では、アイラインくっきりのゴージャスなメイクが主流だ。それは知っていたから、愛梨も日本にいるときよりはだいぶしっかりめのメイクをしたつもりだったのだが、ローカルの社員であるナズリの目から見るとまだまだ全然足りなかったらしい。

「ほらね、見違えたでしょ」

 ふふ、と笑ってナズリはじゃれつくように愛梨の頭を抱いてきた。バティワの人々は、同性に対しては非常に人懐っこく、スキンシップが多い。女性同士でも、男性同士でもだ。ナズリも例外ではなく、知り合ったばかりの愛梨に対してまでこんな調子なものだから最初は面食らったが、どうも後輩というよりは妹のように思ってくれているようなので、今はありがたく思っている。

 これが異性相手だと全然話が違っていて、スキンシップなどもってのほかだしお互い目すらまともに合わせない。厳格な信者が多いと言われている隣国のシャルークほどではないとはいえ、宗教の戒律が厳しいためだ。地元民は自分たちの文化や習慣を尊重してさえもらえれば、外国人にそれ以上のことは求めてこないとはいえある程度の配慮は必要で、愛梨もアラブ系の男性客には必要以上に愛想よくしないよう、研修で念を押されていた。

「毎日これくらい綺麗にしていなさい、アイリ。そしたらいいことがあるかもよ」

「いいこと?」

「ここには王族や外国のセレブが泊まることも多いじゃない。もしかしたら、見初められて、プロポーズされちゃう! なーんてことがないとは言い切れないでしょ」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと」

 大真面目な顔をして頷いたナズリ自身は、現地の男性と結婚したばかりだ。数日前そのときの写真をいろいろ見せてもらった愛梨は、その豪華さに目を見張った。この国の結婚式は、大きな会場に何百人もの客を招待し、二日にわたって盛大に行われるのが普通らしい。庶民でさえそんななのだから、王族の結婚式なんていったいどんななのか、愛梨には想像することすらできない。

「王子様と結婚できるかもしれないんだったら、ちょっと頑張っちゃおうかな」

「その意気よ。ああ、結婚式が楽しみだわ。あなた、お母さんもお姉さんもいないのよね? 私が花嫁のベールを持って花道を一緒に歩くから!」

「お願いします」

「約束ね」

 額をくっつけるようにしてきたナズリと、二人してクスクス笑い合う。もちろん冗談だ。でも女同士、こんなふうに夢のある話をするのは楽しかった。

「それにしても、アイリは本当に肌が綺麗ね」愛梨の頰を指先でつつき、羨ましそうにナズリが言う。「赤ちゃんみたい。顔も赤ちゃんみたいだけど」

「あ、赤ちゃんって……でもありがとう」

 愛梨は自分ではそんなに童顔だとは思っていない。とはいえ、目鼻立ちのくっきりとした中東の人たちから見ればずいぶん幼く見える顔なのだろうと理解はできる。

 それにしても、赤ちゃんって。フフッと小さく笑い、愛梨はお守りとしていつもつけているネックレスを服の上からそっと押さえた。

「なあに?」

「ただの思い出し笑いです」

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