突然ですが、御曹司の妻になりました。

立花実咲

◆1 いきなりプロポーズ (1)




◆1 いきなりプロポーズ




 黄金色に染まりかけた銀杏並木を早歩きし、朝の通勤ラッシュに揉まれながら、吉岡奈緒はオフィスビルの自動ドアをくぐった。

 エレベーターが二十階で止まると、鼓動が途端に速くなる。さっき急いで首に巻き直したストールが要らなくなるほど熱くなってきた。

 手に汗を握りながら、落ち着かない気持ちをどうにかやりすごしつつ、どうか『あの人』が入ってきませんようにと願う。

 しかし、こういうときにこそ神様はいじわるをする。エレベーターの扉が開き、最初に中に入ってきた眼鏡の男性こそが奈緒が最も避けたかった人物だった。

「おはよう、ございます」

 会いたくなかったからといって無視するのもどうかと思い、奈緒は彼に声をかけたのだが、彼、尾野駿也はたちまち顔を引きつらせ、奈緒に冷たい視線を向けた。

「ああ……おはよう」

 そっけない挨拶は、いつもよりも低い声で、拒絶の色が漂っている。ただそれだけで、会いたくなかったという気持ちが伝わってくるようだ。そこから会話も続かなくなり、奈緒は自分が見えない沼底に沈んでいくような気分になってしまった。

(少し前まで和やかに話をする仲だったのに……こんなに変わっちゃうものなんだ……)

 彼は奈緒とは反対側の隅に移動し、話しかけるなといわんばかりに壁を作っている。何度も腕時計を確認する仕草から、早くこの場から抜け出したいと苛々しているのが伝わってくる。そうしてあげたいのは山々だけれど、エレベーターに乗ってしまったらどこにも逃げ場はないのだ。

 営業部一のエリートと囁かれる彼と奈緒は、ついこの間まで婚約していた。しかし別れた今となっては、一緒の空間にいて、気まずくないわけがなかった。

 しかし、これからも会社では顔を合わせる機会があるのだから、普通にしていた方がお互いによいと思うのだが、彼の考えは奈緒とは異なるらしい。

(そんなに……私のことが嫌いになっちゃったんだね)

 自分の心の中で受け止めた事実はあまりにも重たくて。

 さっきから沼底に沈み続けている気持ちが、大量の藻に搦め捕られていくみたいに、未練というしがらみから抜け出せないでいる。

 別れた関係なのだからよそよそしくなるのは当たり前と言い聞かせながらも、好きだった彼に冷たくされる仕打ちは、想像していた以上に苦しいものだった。

 これから出社するたびにこんな気持ちになってしまうのだろうか。

 奈緒はやりきれなさのあまり、小さくため息を漏らす。

(恋人と別れたくらいで、会社を辞めるわけにもいかないし……)

 奈緒が勤めている『インペリアルリゾート』は、世界各地にブランチを持ち、日本全国に温泉旅館やホテルなどを展開している総合リゾート運営会社だ。そのブライダル事業部に奈緒は在籍している。

 ここのオフィスビルの二十階から二十二階にインペリアルリゾートのブライダル事業部が入っており、営業部が二十階、企画部が二十一階、会議室は二十二階……というように、部署ごとにフロアが仕切られていた。

 おそらく彼はこれから会議室に向かうのだろう。朝礼前に急ぎの会議が入ることもままある。

 それにしたって、まだ出社時刻までだいぶゆとりがあるし、急いでいるというふうにも見えない。つまり……ただ奈緒と一緒にいるのがいやなのだろう。事実を受け入れたときに、喉の奥に苦いものが流れてゆくのを感じた。

 別れた二人なのだから、これからは他人だ。知らんふりすれば済む話かもしれない。だが、いくら別れようと仕事での付き合いは続くわけだし、ぎくしゃくしたままでいるのはお互いに居心地が悪いだけだろう。

 そう思った奈緒は、なんとか話をする機会を得ようと、二十二階まで乗り過ごし、到着してエレベーターから出るやいなや、勇気を出して尾野に声をかけた。

「あの、尾野さん、色々と思うところはあるかもしれませんが、私は気にしていませんから。これからも会社では普通どおりにしていただいて構いませんから」

 周りには聞こえないように、なるべくやんわりと告げたつもりだった。もし振った方の彼が気にしているのなら、そのしこりを取り除きたかった。

 しかしそんな奈緒の思惑をよそに、彼は不愉快そうに表情を歪めた。

「わかっていないね。むしろ逆だよ」

「え?」

 彼は周りの目を気にしつつ、奈緒に一歩近づき声を潜めた。

「思うところがあるのだと思いやってくれる気概があるなら、余計な気を回さないでくれないか。よく考えてみてくれ。君が構わなくても、僕の方がそうはいかないんだよ。上に紹介してもらった手前、へらへらもしていられないだろう?」

 皮肉を込めた言葉を返された挙句に、冷たい視線をよこされ、奈緒は怯んでしまう。

 彼の言い分もたしかに一理ある。二人が交際もそこそこに婚約に至ったのは、共通の上司からのお膳立てだったからだ。

「ごめん、なさい」

 奈緒はそれだけしか言えなかった。

「……別に、二度と話しかけるなとは言わないけどね」

 彼はそう言い捨ててを返す。

 奈緒は尾野に頭を下げ、逃げるように反対側のエレベーターに乗り直した。

 彼の不愉快そうな表情が、奈緒の心臓を凍らせる。胸に何かを埋め込まれたみたいな居心地の悪さで、吐き気がした。

 つまりは『もう二度と話しかけるな』ということだろう。

(少し前は、あんなに感じの悪い人じゃなかったのに……)

 奈緒はため息をつく。二人の関係に恋を挟まなくなった途端に、あれほど態度が変わってしまうなんて考えてもみなかった。

 一分一秒前まで恋人同士だった二人でも、縁がほどけた時点で、他人よりも遠い存在になってしまうものなのだろうか。

 湧き出てくる疑問に対し、回答もすんなりと導き出される。それが自然なことなのだ。寂しいと思う方がどうかしている。理性的に線引きができてこそ大人の恋愛といえるのではないだろうか。

 別れを切り出されるまで、奈緒は別れが目前に迫っていることなど疑いもしなかった。彼がいつから別れを意識していたのかも気付かなかった。

 今度こそは……そう願っていた恋だった。この人と結婚するんだと思い込んでいた。

 結婚を前提にお付き合いしたからといって、必ず結婚できるとは限らない。あくまで前提の話。付き合ってみて、婚約をした。けれど、彼にとって理想どおりの女性ではなく、結婚したいと思えるような相手ではなかったということだ。縁がなかったのだから仕方ない。

 そんなふうにむりやり言い聞かせるものの、何度も同じようなパターンで失恋すると、やりきれない気持ちになってしまう。

 今まで奈緒が恋人に振られる理由はいつも同じだった。自分から気持ちを伝えるのが苦手な奈緒は、たいてい相手から告白された。男性は仕事のできるエリートタイプで、同じように仕事を生き甲斐にしている奈緒に理想を求めるらしい。奈緒は好意をもってくれる男性と向き合おうとするうちに好きになっていくことが多かった。

 しかし実際付き合っていくと、奈緒が本気になりはじめたときには相手の気持ちが冷めてしまう。それも、「ごめん。想像と違っていたみたいだ」とお決まりの別れの言葉を残して、奈緒から離れていく。

 奈緒は自分の何がいけないのか最初はわからなかった。それに、勝手な言い草だと思う。会社にいるときの顔と、プライペートで恋人といるときの顔は違うのが自然だろう。

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