恋獣。 パーフェクト弁護士に愛されまくりの毎日

麻生ミカリ

第一章 突発的事態に、彼女は弱い (3)

 見上げた東京の空は、地元と比べて星が少ない。それでも、冬は少しだけ空気が澄んでいるのか、遠く輝く星がひとつふたつ目に入ってくる。

 小さな光を見つめて、冬の空気を鼻から吸うと、なんだか泣きたくなってきた。新宿の喧騒が、雛里の耳から遠ざかっていく。

「メリークリスマス! ケーキの予約はお済みですか?」

 そのとき、すぐうしろから男性の声が聞こえてきた。最初は自分に言われたのかと思い、雛里は足を止めた。おそるおそる振り返ると、サンタの衣装をまとった、背の高い男性がケーキ屋のちらしのようなものを配っていた。

 ふと見れば、ちょうどケーキ屋の前である。

 お腹がぐうっと鳴った。こんなときでもお腹が空くんだと、雛里は口元を緩めた。

「メリークリスマス!」

 今度こそ、そのサンタは雛里に声をかけてきた。赤い帽子から、白い巻き毛がはみ出して、同じく白い口ひげをもっさりとつけた彼は、雛里を見て小さく首を傾げる。

「あ、いえ、わたしは……」

 ホールケーキを買ったところで、ひとり暮らしでは持て余すのが目に見えていた。それに新宿のケーキ屋さんなんて、きっと雛里には目が飛び出るような価格だろう。

 サンタは、差し出しかけたちらしを引っ込めると、ちらしの束から別のものを取り出す。

「……え? これを、くれるんですか?」

 よく無料で配られている、求人誌。

 道端で偶然会ったひとから見ても、自分は就職活動中だとわかるのか。そう思ったら、恥ずかしくて頰がかあっと熱くなる。

 うつむいた雛里の手に、半ば強引に求人誌が押し込まれた。

「メリークリスマス、きっといいことがあるよ」

 耳に心地よい、少し低い声。

 顔を上げたときには、彼はまたほかのひとにケーキのちらしを配っている。

 ──サンタさんがくれたんだから、無駄にしたら罰が当たるかな。

 ほんの少しだけ、気持ちが明るくなった気がした。もちろん、ただの気のせいなのだろうとはわかっていても足取りは軽くなる。

 そして。

 クリスマスの奇蹟は、それだけでは終わらなかったのだ。

 サンタがくれた求人情報誌で、付箋がつけられていた弁護士事務所に面接希望の連絡をすると、クリスマス当日を指定された。リクルートスーツに黒い靴を履いて、赤と緑で彩られた街を闊歩し、向かった先。

 東野弁護士事務所で、雛里の就職活動は終止符を打った。その場で、即採用を東野所長が決めたのである。

 あれから八カ月が過ぎているが、雛里は『サンタのひと』にどうにかお礼をできないものかと考えることがあった。

「……んでも、どこの誰かもわがんねし、店もつぶれでしまったし、探しようがないっちゃね」

 アパートの小さなベランダで、プランターに植えた朝顔に水をやりながら、雛里はひとりごちる。

 今年も、きれいな花を咲かせる朝顔たち。夏の風物詩は、地元でも東京でも変わらない。

 ──そういえば。

 先日もらったベゴニアの種を、バッグにしまいっぱなしだったことを思い出し、じょうろをエアコンの室外機のうえに置いて、雛里は部屋に戻る。

「あったあった」

 司がくれたベゴニアの種は、だいたい早春からゴールデンウィークぐらいまでに撒くものだ。今年はもう無理だが、来年なら育てられるだろうか。

 ──でも、碓氷さん、どうしてこれをもらってきたんだろう。あのひとだったら、いらないものはいらないとその場で断りそうなイメージだけど……

 考えている間に、電子レンジに入れておいたミルクがあたたまる。雛里はベランダに通じる掃き出し窓を閉めて、急いでレンジへ向かった。

 大半の家事はこなせるのだが、料理はあまり得意ではない。なので、朝はたいていホットミルクのみ。夏場は冷たいものを飲みたくなるのだが、あまり胃腸の強いほうではないらしく、寝起きに冷たいものを飲むとお腹が痛くなる。

「あ、急がないと遅刻しちゃう」

 そして今日も、一日が始まろうとしていた。

 いつもと同じ一日──になるはずだった。そう、このときまではなんら変化のない日常を、雛里は生きていたのだ。


「えっ……、自己破産、ですか……?」

 その日の夜、仕事を終えて家に帰ったとき、アパートの付近が妙に騒がしかった。人だかりができていて、火事でもあったのかと焦ったけれど、どうやらそうではないらしい。

 隣の部屋に住む三十代の女性が教えてくれたことによると、アパートの持ち主が破産したため、この建物と土地も差し押さえられたというのだ。

 その後、債権者代表と名乗るスーツの男性がやってきて、雛里に書類一式をわたしてきた。普通の勤め人には見えない、どこかカタギではない雰囲気を持つ債権者代表氏は、一カ月以内に部屋を引き払うよう通告すると、

「あとはそちらの書類をご確認ください」

 と言って、足早に去っていく。

 専門学生時代から住んでいた、安い家賃のアパート。そこから急に追い出されるだなんて、夢にも思わなかった。

 職場ではよく耳にする自己破産という単語が、今はひどく重たくのしかかってくる。

「急に出て行けって言われたって、こっちだって困るのよね」

 隣人は頰を膨らませていたが、雛里は頭のなかで通帳の残高を思い出すことに必死だった。

 なにせ、社会人になってまだ四カ月。無駄遣いをしないようにしてきたとは思うが、たいした貯金があるわけでもない。

 ──今と同じくらいの家賃だったら、なんとか引っ越しできなくもない……かな。

 ありがたいことに仕事はある。貯金がなくなっても、毎月定期的に収入があるのだから、なんとかやりくりはできるだろう。

 雛里は翌日から、仕事帰りに不動産屋を巡ることにした。



 無事、新居の契約も終わり、次の週末には業者を入れて引っ越しをしようとしていたある日、雛里は総務の陽子に住所変更の手続きについて尋ねてみた。

「えっ、ヒナちゃん引っ越すの?」

「はい」

「どうしたの、何かあった? ストーカーに狙われた? それともご近所トラブル?」

 何やら物騒な方向に想像力をはたらかせる陽子だが、そこまでの事件は起こっていない。

「いえ、そういうことはないんです。ただ、大家さんが自己破産をされたらしく、アパートが差し押さえられてしまって」

「じゅうぶんに問題じゃない! それで、おとなしく引っ越すことにしたの?」

 八月も、残すところ一週間。

 急な引っ越しに頭を悩ませた雛里ではあったが、いい物件を見つけることができた。

「はい、土曜日──二十六日に引っ越しなんです」

 本来ならば、日割りで八月分も家賃を支払わなければいけないところを、事情を聞いた大家が「九月分からでいいよ」と言ってくれたのだ。おかげで週末の引っ越しができる。

「ねえ、そういうのって所長に相談すれば、たぶん立ち退き要求に対策もとれたと思うんだけど」

 声をひそめた陽子に、雛里は首を横に振った。

「ここで働かせてもらえるだけでもありがたいんです。これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」

「でも、社会人一年目で引っ越しは大変でしょう。そうだ、何か、ヒナちゃんの好きなものを引っ越し祝いにあげる。新居でほしいもの、なんでもねだって?」

「そんな、矢野さんには普段からお世話になってますし、お祝いだなんて」

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