恋獣。 パーフェクト弁護士に愛されまくりの毎日

麻生ミカリ

第一章 突発的事態に、彼女は弱い (1)




第一章 突発的事態に、彼女は弱い




 新宿駅南口を出て、甲州街道沿いに首都高方面へ歩いていくと、左手にガラス張りの美しいビルがある。白を基調とした、青緑色のガラスが特徴的な十五階建ての建物だ。

 とある生命保険会社の名を冠したそのビルの二階が、高橋雛里の勤める『東野弁護士事務所』である。

 今年の四月から働きはじめて、四カ月。

 八月も半ばを過ぎ、道行く人々が真夏の装いになっても、未だにこのビルを見上げるたび、雛里は感慨深い気持ちになる。

 今日も空は青く澄み、ビルは神々しいまでのまいで雛里を見下ろしていた。

 額にうっすらと浮かんだ汗の粒を手の甲でうと、自分の幸運に感謝する気持ちが胸いっぱいに広がる。

 生まれ育った宮城を離れて三年目、専門学校で経理を学んだものの、このご時世、就職活動ではかなりの辛酸めた。一年近く不採用連絡をもらい続けていた雛里が、今こうして社会人として働いていられるのは、ひとえに『あのひと』のおかげにほかならない。

 ──よし、今日も一日がんばろう!

 おろしたばかりの夏物のスーツは、驚くほどに布地が薄く、七分袖のジャケットに至っては、着ていることを忘れそうな軽さである。

 チャコールグレーのタックスカートを生ぬるい風にひらめかせながら、バッグを肩にかけ直して、雛里は今日も出勤する。

 東野弁護士事務所は、弁護士三名と、パラリーガルと呼ばれる弁護士業務の補佐を担当する職員が四名、それに総務担当が一名、経理担当が一名の合計九名の正社員を有している。そのほかに、雑用担当のアルバイトが一名──ただし、毎日いるわけではないため、基本は事務所内にいるのは九名、ときどき十名のこぢんまりとした職場だ。

 雛里は経理担当としてこの事務所に入社したが、三月までは総務担当の矢野陽子が、経理も兼務していたそうだ。

「おはよう、ヒナちゃん。今日もめんこいねえ」

 事務所に入ると、レーザー複合機の手前に座っている陽子が声をかけてくる。

「おはようございます」

 宮城県出身の雛里は、感情が高ぶると方言が口をつく癖があった。職場では、なるべく心穏やかに過ごすことを心がけているため、標準語を徹底している──つもりなのだが、極稀に東北弁がナチュラルに出てしまうこともある。

 地元にいたころは、自分はそれほどっていないと思っていたものの、東京へ来てみるとアクセントが違うだけではなく、同じ動作を示す際の表現が違うことに驚いた。

 有名な例としては、ゴミを『捨てる』ことがある。

 雛里は子どものころからゴミを『投げる』と言っていた。これは雛里の両親も祖母も、学校の先生や同級生も当たり前に使う言葉だ。いわゆる『ゴミ捨て当番』も、『ゴミ投げ当番』と言ったりする。

 最近気づいた違いは、テレビの音量を調節するときの言い方だ。実家にいるとき、音量を大きくして、と頼む場合には「音、高くして」と言う。小さくする際は『低く』すると表現する。だが、総務担当の矢野によれば、

「音量は大小で表すじゃない? 音程だったら高低なのもわかるんだけど」

 ということらしい。言われてみればもっともである。けれど、こういった表現についてはなかなか直せない。

 ──『ごしゃぐ(怒る)』とか『ゆつける(結びつける)』とかなら、方言だってわかるんだけどなあ。

 ちなみに『めんこい』は、かわいいという意味なのだが、昼休みに陽子と一緒に事務所でテレビを見ていて、愛くるしいペンギンの赤ちゃんが映ったとき、つい口にしてしまった。それ以来、陽子は雛里に向かって「ヒナちゃんはめんこいねえ」と、よく言うようになったのだ。

「あの、矢野さん、わたしはあまりかわいいほうではないので……」

 今日も今日とて、朝からそれを言われてしまい、雛里は恐縮して顔の前で手を横に振る。

「なあに言ってるの。ヒナちゃんはかわいいわよ。お雛さまみたいっていうか、座敷わらしみたいっていうか?」

 雛里より十歳上の陽子は、明るく人見知りしない性格で、出会った当初から妹のように面倒を見てくれている。それには心から感謝しているが、二十歳にもなって座敷わらしのようにかわいいと言われても、逆に面目ない気持ちになるのだ。

「ねえ、所長。そう思いませんか?」

 結婚指輪の光る左手を振って、陽子が所長に声をかける。

 東野弁護士事務所所長の東野雄二は、還暦を過ぎた穏やかな白髪の男性だ。初めて会ったとき、某有名フライドチキンショップの店頭にあるにこやかなおじさんの立像とあまりに似ていて、目を丸くしたほどである。

 法廷以外の場所ではループタイを愛用しているところが、品の良いおじさま然として見える。身近にループタイを着けているひとがいなかったこともあって、雛里の目に東野はおしゃれな老紳士として映っていた。

 そして、おしゃれなだけではなく、東野所長は温厚で誰に対しても親切なすばらしい上司だ。

「そうだねえ、ヒナちゃんはいつも一生懸命で、かわいらしい女性だと思いますよ」

「そっ……そんな、所長まで……。おだてても何も出ません!」

 を赤らめた雛里を見て、所長と陽子が楽しげに笑い声をあげる。

 年齢のわりに、自分が少々幼い顔立ちをしている自覚はあった。いや、顔立ちというより、髪型や化粧のせいかもしれない。

 雛里は、中学から高校まで陸上部で短距離の選手だったこともあり、いつもショートカットだった。

 進学のために東京へ出てくるのに合わせて、部活を引退してから髪を伸ばしていたものの、やはりどうにも長い髪の手入れが行き届かない。

 朝から一時間もヘアアイロンと格闘することに疲れ、落ち着いたのが今のショートボブだ。心もち前下がりのサイドはのラインですっきり短く、重すぎる黒髪を少しだけ茶色く染めている。

 化粧は、日焼け止めクリームを塗ってパウダーファンデをはたき、申し訳程度のマスカラと、リップクリームにグロスを薄く重ねるだけ。派手なメイクは、自分には似合わないのではないかと不安になる。背伸びをして、ひとから笑われる目に遭うのはごめんだ。

 もとより臆病なところのある雛里は、冒険をしない。高校卒業まで一緒に暮らした祖母が、家を出るときに言ってくれた。

『まんず、雛里はじぐなしだっけ、背伸びばっかしてねで自分らしぐがんばらいん』

 標準語にすると、どうにもニュアンスが違う気がするのだが、しいて言えば『雛里はほんとうに臆病者なんだから、背伸びばかりしていないで自分らしくがんばるんだよ』といったところだろうか。

 そんな『じぐなし』の雛里が、地元宮城を離れて国分寺にある専門学校に入学し、今では弁護士事務所の経理担当をしていることを、祖母は誰より喜んでくれている。就職してからまだ帰省の機会がないけれど、年末には冬のボーナスで祖母にプレゼントを買って帰る予定だ。

 ──ばばちゃん、じぐなしのあだしでも、毎日がんばってるよ。

 バッグを机のいちばん下の引き出しにしまい、椅子に座ってパソコンを起動する。その間に、壁にかかったアナログなホワイトボードをちらりと確認する。

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