不埒に甘くて、あざとくて アラサー女子と年下御曹司

玉紀直

第一章 かわいい弟分と凛々しい婚約者候補 (2)

 そう言いながら、晃治の視線は蛇のようにぬるりと千鶴を舐める。顔から下りたそれは、あからさまに胸元で止まったのがわかった。

 嫌悪感から動揺しそうになる自分を誤魔化すため、千鶴はカウンターの上にあるキャッシュトレーを何気なく直す素振りを見せる。するとその手を両手で摑まれ、血流が止まってしまうかと思うくらい血の気が引いた。

「お伝えいたします……」

 無理やり笑顔を作り、千鶴は握りしめていたこぶしを膝に押しつける。優子が担当している窓口にいる年配の女性が、なにかいやらしいものを見るような目つきでこちらを見ているのがわかった。

 なんとかしたいと一番思っているのは千鶴だが、この支店の行員として、得意先の上役である晃治を無下にすることはできないので必死に耐える。

「あー、お嬢さん、お嬢さんっ」

 そのとき、晃治を押しのけるように年配の男性が千鶴の前に立つ。そのおかげで晃治の手が離れ、千鶴は内心ほっと安堵の息を吐いた。

 改めて助けになってくれた男性を見ると、彼は手に持った振込用紙をひらひらさせながら苦笑いをしている。

「どうも書きかたがわからない。ちょっと教えてくれるかい?」

「はい、かしこまりました。では、あちらのカウンターにどうぞ」

 椅子から腰を浮かせ、ローカウンターを手で示す。ローカウンターには椅子があるので、年配の客に伝票の説明をするときにも利用されている。

 振込用紙の書きかたくらいならロビー担当者に任せてもいい。しかしこの状況を利用すれば、晃治のおしゃべりから逃れられると考えたのだ。

 客が目の前にいるのに話し続けるわけにはいかない。そのくらいは察することができるらしく、晃治はカウンターから離れていった。

 ホッとしつつ男性に目を向ける。すると、男性は振込用紙をたたんでスーツの胸ポケットに入れてしまった。

「すまん、すまん。どうやら振込番号を控えた紙を忘れてきたようだ。確認して、また来るとしよう」

「承知いたしました。お振込でしたらATMからでもご利用いただけますので」

「はい、ありがとう」

 男性はにこりと笑い、手に持っていたハンチング帽をかぶると足早に歩いていく。

 物腰の柔らかい男性ではあったが、話しかたや歩きかたにメリハリがあって清々しい雰囲気だ。

(孫と野球やったりする元気なおじいちゃん、って感じだなぁ)

 そんなことを考えつつ席へ戻る。次の番号を呼び出すと、やはり馴染みの会社の若い男性だった。

「歳をとってても男は男だな。わざわざお姉さんの窓口にくるんだから。年配もいけそうだもんね、お姉さん」

 からかうように口から出るのは、下世話な話題だ。

 千鶴は奥歯を嚙みしめながらも、口元を微笑ませてかわすしかなかった。



 銀行員の定時は、表向き十七時だ。

 だが、その銀行や支店にもよるが、時間どおりに帰れることはほぼない、といってもいい。

 この日も一時間半ほどの残業を終えて帰路についた千鶴は、家に帰る前に洋菓子店でケーキを購入した。

 妹の菜摘が、甥っ子を連れて実家に来ているのだ。

 千鶴はまだ両親と一緒に実家住まいだが、三つ年下の妹、菜摘は二年前に結婚をしている。子どもは生後十ヶ月。菜摘によく似て、笑顔がかわいいよく笑う男の子である。

「ちょっと、なにジロジロ見てんの? いやらしーい」

 ケーキの箱を受け取り出入口へ向かおうとしたとき、くように怒っている女性の声が聞こえた。

 何気なく顔を向けると、千鶴を見ていたらしい青年と目が合う。大学生とおぼしき彼は、腕を組んだ彼女っぽい女性と壁側で順番待ちをしていた。

 目が合った青年は慌てて目をそらす。それに気づいた彼女が憤慨してそっぽを向いた。

「美人だからってなによ。もの欲しそうに目で追っちゃって。美人でしょー、綺麗でしょー、みたいな女に弱いよね、男ってっ」

 彼氏に文句を言っているように聞こえるが、言葉のは千鶴にも向けられている。気づかないふりをして店を出ようとしたとき、もうひとつの刃が千鶴を切りつけた。

「変な目でなんて見てないって。遊んでそうな女だな、って思っただけだって。そんな顔してるし、それに……」

 そのあとも彼の憶測は続いたのだろうが、自動ドアが閉まると同時に言葉は聞こえなくなった。

 ケーキの箱を落とさないようにしっかりと持ち、早足で店から遠ざかる。しばらくしてから歩調を緩め、なんとなく立ち止まってしまった。

 人通りのある道ではあったが、信号前だったので千鶴が立ち止まったことを気にする者はいない。

 信号を待っているふりをして顔を横に向けると、そこに建つショップのショーウィンドウに千鶴の姿が映っていた。

 ちょっと癖のあるロングヘアがそよ風に揺れる。仕事中はまとめているがオフはそのまま垂らしていた。仕事が終わった解放感からそうしているだけだが、見る人によってはわざと色気を出していると誤解されることもあった。

 ──遊んでそうな女だな、って思っただけだって。そんな顔してるし……

 つい先程耳に入った言葉が、頭の中で息を吹き返す。

 ショーウィンドウに映った千鶴がつらそうに下唇を嚙み、人の流れに紛れこもうと横断歩道へ足を向けた。

 容姿に恵まれているということは、女性にとって悪いことではない。けれど、いいことばかりでもない。

 幼いころは「かわいい女の子」だけで済んだが、成長するにつれてそこに違う感情が混じり始めた。

 千鶴の性格をわかっていない同性には嫉妬や中傷を受け、男性には面白そうに好色な目つきで見られる。

 容姿が美麗であることを人生の価値観の基準としている女性だっている。そうすることができれば、自分に自信が持てて快活な女性でいられるだろう。

 しかしそれだって、その人その人の性格があってこそ、だ。

 千鶴は、そんな積極性を持てる性格ではない。

 また、幼いころに容姿が原因で不審者が絡んだ事件に巻きこまれた経験があり、男性というものにいまいち馴染めない。

 ──おかげで、二十九歳にして処女であるどころか、交際経験さえないのであった……

「ただいまぁ」

 自宅のドアを開け、玄関に妹の靴があることを確認する。

 すぐにリビングのドアが開いたので、菜摘が出迎えてくれたのかと千鶴の顔に笑みが浮かぶ。直後、その顔は溶けてしまいそうなくらいのデレデレ顔に変わった。

 リビングのドアから出てきたのは、甥っ子の卓哉だったのである。

 それも、十ヶ月の彼は無垢な笑顔で喃語を口にしながらハイハイダッシュを決めてくる。

 これだけで、どれだけ千鶴の帰りを喜んでくれているかがわかるというもの。

「たっくーんっ」

 声を裏返しながら放るようにパンプスを脱ぎ捨て、ケーキと鞄をその場に置き去りにして、千鶴も卓哉に向かって四つん這いで近づいた。

 小さく柔らかな身体を持ち上げ胸に抱くと、廊下に座りこんだままスリスリと頰をりつける。

「たっくん、ねんねしてると思ってたのにー。おっきしてたのぉー?」

 普通のことのように出てしまう赤ちゃん言葉に多少なりとも照れはあるものの、かわいい甥っ子相手だと「まあ、いいか」と思えるものだ。

 卓哉は嬉しそうに笑いながら小さな手でぺたぺた千鶴の顔を触ってくる。柔らかな手の感触にほんわりしていると、リビングから誰かが顔を出した。

「寝そうになってたのよ。でも、お姉ちゃんの声が聞こえた途端、くわぁっと目を開けちゃってね。びっくりしたわ。ドアを開けてあげたらすっ飛んでいったのよ」

 二人の高さに合わせて四つん這いになり苦笑いをする、妹の菜摘だ。千鶴のふわっとしたロングヘアとは対照的なショートカットだが、それがまた彼女の快活さを象徴しているようにも思えた。

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