不埒に甘くて、あざとくて アラサー女子と年下御曹司

玉紀直

第一章 かわいい弟分と凛々しい婚約者候補 (1)




第一章 かわいい弟分と凛々しい婚約者候補




 銀行の窓口業務担当。いわゆるテラーは、銀行の顔ともいわれる。

 ゆえに、過酷な忙しさにも決して笑顔を忘れてはいけない。

 ──と、テラーの誰もが、心の中で自分に言い聞かせているのだと、テラー歴七年の千鶴は思う。

「だからっ! 急いでくれって言ってるだろう、時間がないんだからさ!」

 そしてときに、笑顔を維持したくともできないものなのだということも、よくわかっているのだ。

 バックオフィスに伝票の説明をしに窓口を離れていた千鶴は、イラついた男の声を耳にして顔を上げた。

 目を向けた窓口では、眉を吊り上げたスーツ姿の男が今にもカウンターを乗り越えてきそうなほど身を乗り出している。

「急いでるんだよ、わかるだろ、何分待たせるんだよ!」

 男が急いでいるのは目に見えて明らかだ。髪は乱れ、ネクタイは曲がり、時計を見るために左腕を頻繁に動かしているせいかスーツの袖口が腕時計に引っ掛かってしまっている。

 いくら急いでいるとはいえ、もしもこのあと仕事で人に会うというのなら、全力で鏡の前に立たせてあげたい風貌だ。

「申し訳ございません。整理券の順になっておりますので……」

「先にやってくれよ。馴染みで使ってやってるんだから」

 この窓口に座る三村由莉香は入社二年目。入社から一年間、バックオフィスやテラー補助で経験を積み、この春から正式なテラーとなった。

 補助経験はあっても、正式な担当となれば勝手も責任の大きさも違う。テラーになってまだ三ヶ月あまり。しようがないこととはいえ、窓口に寄せられる苦情は最も苦手なものだろう。

 特に毎月二十五日から月末までは忙しさのピークだ。銀行が忙しいということは、もちろん利用者も忙しいということ。急いでほしい気持ちもわかる。

 スズラン銀行は、地域密着型の地方銀行だ。おまけにここ、アーケード前支店は、支店名どおり商業施設が建ち並ぶアーケード街の近くにある。

 店舗関係の顧客が多く、買い物ついでに立ち寄る客も多数いる。それほど大きな支店ではないが、忙しさでいえば他支店と比べても上位にくるだろうと思うのだ。

 今年に入ってから近くに大型支店が建った。それでもここがなくならないのは、客層にとって便利な立地条件にあるおかげだと思う。

有馬工務店様」

 さりげなく窓口へ近づいていった千鶴が穏やかに声をかける。詰め寄っていた男よりも先に顔を向けたのは、表情も固まってしまった由莉香だった。

「伝票確認に少々お時間をいただいております。次のお客様のあとにお呼びいたしますので、ロビーでお待ちいただけますか?」

 にこりとした微笑みの中に漂わせる、待たせて申し訳ないと言わんばかりの謙虚な姿勢。

 そこに視覚効果としてプラスされるのは、この支店一、いや、スズラン銀行一と噂される千鶴の容姿だ。

 二重がハッキリとした大きな目。ぽってりとした紅い唇に白い肌。制服も薄手の夏服になっている六月末は、どうしても目を引いてしまう胸のふくらみや腰のラインを際立たせる。

 名前を確認しなくてもどこの会社の人間かわかったということは、この女子行員は自分を覚えているということ。吊り上がっていた男の眉は下がり、乗り出していた身体はカウンターから離れる。

「わかった。次の次だな」

「はい。おそれいります」

 ちらちらと振り返りながらロビーへ戻っていく男を、千鶴は会釈をして見送った。思いのほか奥のほうまで引っこんでいったのは、他の客から注がれる「急いでるのはあんただけじゃない」という視線が痛かったせいだろう。

「すみません。松園さん」

 申し訳なさげに小声で謝る由莉香の腕を軽く叩き、バックオフィスから戻ってきた伝票を千鶴が受け取る。そこから有馬工務店のものだけを由莉香に回し、残りを引き受けた。

「今のが終わったら、次でお願い。残りは私が回すから」

「すみません」

 ロビーに面した窓口は四つ。通常の客が利用するハイカウンターが三つと、各種変更手続きや相談などに使われるローカウンターがひとつだ。

 千鶴の定位置はローカウンターの隣になっていた。ローカウンター専属のテラーはいないが、相談や口座開設などが必要なときは事務課長が担当をする。

 ただバックオフィスの課長なので、対応できないときもあり、そんなときに勤続年数の長い千鶴が対応している。そのための定位置ともいえた。

 何気なくロビー内を確認してから席につく。ローカウンターのエリアに入って壁にかかった絵画を眺めている年配の男性が目に入ったが、動きがあれば事務課長が対応するだろうと、ひとまず手持ちの仕事を優先させた。

「お疲れ」

 隣からねぎらいがかけられる。隣のテラーは同期の山口優子だ。

 同期、とはいってもすでに結婚をしていて人妻なので、なんとなく自分よりワンランク上の落ち着きがあるような気がする。

 ねぎらいありがとう、の意味でにっこりと笑い仕事を再開させる。

 月末月初は忙しいとはいえ、絶対にミスは許されない仕事だ。スピーディさを要求される時期だからこそ、仕事に集中したい。

 ……それでも、それをさせてくれない状況も生じるものである。

 順調に客をいていくうちに、心配していた由莉香も問題の客の対応が終わっていつもの笑顔が戻ってきた。ホッとしたころ、千鶴の窓口に人が立つ気配がしたのだ。

 顔を上げた千鶴は笑顔が固まる。そこには、を緩ませる顔の筋肉を制御できないといわんばかりの男が立っていた。

「千鶴さーん、忙しそうですね」

「あ……有馬様、いらっしゃいませ。……先程、営業の方がいらっしゃっていましたよ」

 少々引っ掛かりつつも千鶴が笑顔を見せると、有馬晃治は緩んだ顔をさらににやけさせた。

「ああ、あいつね。急いで金と書類を持って行けって脅したから、すっごく急いでただろう? 指定されていた時間より一時間早めに言っておいたからな」

 必死の形相で由莉香に詰め寄っていた男を思いだす。こんな嫌がらせをされていたのだと知ると、気の毒に思えてきた。

「いい大学を出てるだかなんだか知らないけど、口のききかたを知らない。いい薬になったろうさ」

 千鶴より三つ年上だと聞いているので、晃治は三十二歳だ。嫌がらせをされた営業の男は晃治よりも年上だろう。

 こんな大柄な態度をとれるのも、彼が有馬工務店の長男で常務という役職をもらっているからだ。

 ワイシャツにネクタイを締め、自社の作業ジャンパーを着用した姿。態度こそ大きいものの、そこに、一企業の上役たる威厳のようなものは皆無である。

「有馬様。今、副支店長をお呼びいたしますね」

「いや、いい。福田さんに用はないから」

 有馬工務店は、この支店の上得意だ。一番と言ってもいい。それゆえ、副支店長も晃治には頭が上がらない。

 晃治が来店した際の対応役は副支店長の福田と、そして……

「今日は、千鶴さんの顔を眺めに来ただけだからさ」

 カウンター越しに顔を近づけ小さくく声にぞわりとする。晃治本人は気の利いた声を出したつもりなのかもしれないが、千鶴にしてみれば耳の中をミミズが這っているかのようだ。

「……おそれいります」

 片手をカウンターの下に隠し、ギュッと握りしめる。どこかに力を入れていないと、表情が怯えたように歪んでしまいそうだ。

 晃治の対応役は、主に福田と千鶴が務めている。勤続年数が長いから上得意の接待も任せられる、との任務ではなく、単に晃治が千鶴を指定しているからだった。

「ああ、今度の〝親睦会〟、近いうちにって福田さんに伝えておいて。千鶴さんの用事がないときに頼むよ」

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