大富豪皇帝の極上寵愛

御厨翠

1章 香港の蜜夜 (3)

 広東語で威圧的に話しかけてきた男は、一枚の写真を突きつけてきた。写真を見た穂乃果は心臓が大きく跳ねたものの、動揺を悟られないように笑顔を作ると、〝日本語〟で答える。

「いったいこの人は誰なんですか?」

「……もういい、行け」

 犬を追い払うように手を動かした男は、穂乃果に言葉が通じないと判断したらしく、興味を失ったようだ。

 ──よかった。とりあえず、疑われずに済んだみたい。

 まだ心臓がバクバクと音を立てていたが、動揺を振り払うように足を進める。

 見せられた写真に写っていたのは、やはり自分が保護した男性だった。しかしその写真は隠し撮りのようで、彼が車に乗り込もうとする一瞬を狙って写したものだ。

 知り合いならば、隠し撮りなどしないだろう。となれば、現在穂乃果の部屋で眠っている男を傷つけたのは、先ほどのブラックスーツの集団である可能性がある。

 ──さっきの男たちが、彼の居所を知ったら……彼はただでは済まないかもしれない。

 想像すると、背中にドッと汗が噴き出した。

 香港へは研修に来ている身だし、厄介ごとに巻き込まれるわけにはいかない。このまま警察へ届け出たほうがいいのではないか──そう思った穂乃果は、しかし警察へ足を向けることはなく、アパートへ戻ることを選択した。

 無鉄砲で考えなしかもしれない。それでも、傷ついて苦しんでいる男を見捨てる選択はできなかったのである。



 ──あ、さっきより落ち着いているみたい。

 部屋に戻ってきた穂乃果は、男の呼吸が先ほどよりもおだやかになっていることに胸を撫で下ろした。

 相変わらず表情は険しいが、それでも熱は少し下がっている。タオルで首筋に浮いていた汗を拭ってやると、冷却シートを取り換えようとする。すると、わずかに身じろいだ彼が薄っすらとを上げた。

「あっ、起こしてしまいました?」

「おまえ、は……」

 状況を把握するのに数秒を要した男は、すぐにハッとして起き上がろうとする。その胸を押し返すと、穂乃果は彼の顔を見据えた。

「熱がまだあります。このまま寝ていてください」

「……少しの間ベッドを貸してもらっただけだ。これ以上長居はしない」

 上半身を起こして頭を振った男に、穂乃果は買ってきたルームウェアを手渡した。

「長居も何も、まだ熱があるじゃありませんか。病人なんだから、遠慮しなくていいです。それよりも着替えてください。そのシャツは汚れていますし、汗もかいたでしょう?」

「……わざわざ買ってきたのか」

「はい。この部屋には私の洋服しかないので。それと、痛み止めの薬も買ってあるので、飲んでください」

 有無を言わせない調子で話を進める穂乃果に、男は呆気に取られたようだった。けれども気分を害したわけではなく、可笑しそうに表情をゆるめている。

「おまえ、何も見返りは求めないのか? 薄汚れた男を拾って世話をしたところで、なんの得もないだろう」

「見返りなんて求めません。でも、そうですね……元気になったら、ホテルに泊まりにきてくれると嬉しいです」

「ホテル?」

 穂乃果は、自分が日本にあるホテル『evangelist』の従業員であることを伝えた。元気になったら、いつか日本に来たときにホテルに宿泊してくれればいい。だから気にせずここにいてくれて構わないと伝えると、彼はわずかに目を見開いた。

「そのホテルなら知っている。日本でも五指に入るほど有名な一流ホテルだ。たしかもうすぐ香港にも系列ホテルがオープンすると聞いたが」

「そのホテルの社員研修に来ているんですけど、あと少しで帰国するので……それまでに、ちゃんと熱を下げてくださいね」

 彼はおとなしく穂乃果の用意した水を口に含み、薬を飲んだ。まだ熱があるため気だるげだったが、それでも会話を止めずに続ける。

「おまえ……自分が何を言っているのかわかっているのか?」

「当たり前じゃありませんか。それよりあなたこそ、わたしが帰国するまでに体調を回復させてくださいね。ここにいられるのは、あと数日しかないんですから」

「肝が据わっているというか……本当に変な女だな、おまえは」

 穂乃果の言葉に、男は思わずといったふうに噴き出した。けれども口もとの傷が痛んだようで、顔をしかめて小さく呻く。

「ちょっ……大丈夫ですか!?

「……少し、傷に障った。あまりにおまえが予想外なことばかり言うからだ」

 男はそう言いながら、おもむろにシャツを脱いだ。穂乃果の提案を受け入れたらしく、ルームウェアに着替え始める。露わになった上半身は腕の負傷のほかにも細かな傷や打撲痕があり、穂乃果は購入した湿布を彼に貼りつけた。

「着替えるついでに、湿布を貼っておきますね。どこかほかに痛いところはありますか?」

「ひどいのは腕の傷だけだ。この程度の打撲なら問題なく動ける。発熱も、腕の傷からきているものだ。じきに下がる」

 男が語るように、腕以外は比較的軽傷のようだ。安堵して着替えを補助しようとした穂乃果は、彼の左上腕部に拳程度の大きさのがあることに気づく。

 ──あれは、龍?

 先ほど手当てしたときは、右半身だけを脱いだ格好で気づかなかったが、ずいぶんと不思議な形の痣である。

 あまりにもはっきりとした形だったため、刺青なのかと思った。でも、そういった不自然に手を加えたものではなさそうだ。まるで、空へ昇っていく龍を思わせる痣に目を引きつけられて、つい凝視してしまう。

「これが気になるか?」

 視線に気づいた男が、自身の左上腕に視線を落とす。穂乃果は慌てて首を振ると、彼の脱いだ服を拾って後ろを向いた。

「ちょっと、変わった形の痣だと思っただけです。不躾ですみません」

「べつに構わない。だが、忘れろ。……覚えていても、ロクなことにならない」

 静かな、しかし重く響く声だった。

 彼は痣に対して、何かコンプレックスでもあるのだろうか。昇龍の形をした痣など神秘的ですらあると思ったが、本人にしてみれば触れられたくない話題だったのかもしれない。

「あの、ごめんなさ……」

 謝罪しようと振り返った穂乃果だが、彼が下着姿だったためふたたび後ろを向いた。家族でもない異性の下着姿を見るのは恥ずかしく、さすがにうろたえてしまう。それでなくとも、男性の下着姿など見慣れてはいないのだ。

「シャツ……は、洗ってもダメそうですけど、パンツはどうしますか」

 動揺を悟られないようにまったく違うことを口にすると、背後で笑った気配がした。

「妙な女だ。見ず知らずの男の怪我を手当てする度胸があるかと思えば、どうでもいいことで動揺する。男を誘惑する手管ならたいした演技だが、どうやらそうでもないようだな」

「……演技をする理由なんてありません。下着姿なんて、普通は動揺すると思いますけど」

 ムッとして言い返し、首だけを振り向かせる。怪我をしているから着替えをひとりでできるのか気になったが、彼はなんとか自分で着替えたようだ。ルームウェアは、ウェストがゴム製のパンツ、それに前ボタンの生成りのシャツといったシンプルなものだ。しかし彼はボタンをしておらず、腕を通しただけの状態にしている。

「ボタン、留めましょうか?」

「いや、いい。それよりも、大事なことを言っていなかったな」

 男は座ったまま、穂乃果に右手を差し出した。

「──俺は、暁龍だ。暁の龍と書く」

「暁龍、さん?」

「〝さん〟はいらない。暁龍でいい」

「じゃあ……暁龍。わたしは、森崎穂乃果です。よろしくお願いします」

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