大富豪皇帝の極上寵愛

御厨翠

1章 香港の蜜夜 (2)

 長めの前髪から覗く鋭い眼差しは、手負いの獣を感じさせた。同年代か少し上、三十前後の男が発する存在感に一瞬んだ穂乃果だが、長い手足を力なく地面に放り投げている様子から、少なくともこちらに危害を加えられる状態でないことが窺えた。

 幾分緊張を解いて近づくと、男のあり様を見た穂乃果は思わず叫んでしまう。

「あ……怪我してるじゃないですか……!」

 口の端は暴行を受けたのか、れて血が滲み、衣服も泥で汚れている。しかも右上腕部は服が裂けて血が流れていた。急いで男のらに膝をつくと、鬱陶しそうに手を払われる。

「うるさい。構うな」

「だって血が……すぐに病院に行ったほうが」

「病院には行けない。いいから放っておけ。こんな傷、舐めておけば治る」

 そうは言うが、男はつらそうにきつく眉根を寄せているし呼気も荒かった。それに腕からはかなり出血していて、深い傷を負っているようである。

「病院に行けないなら、来てください。手当てしますから」

 穂乃果は奇妙な使命感に駆られ、怪我をしていないほうの男の腕を引いた。

 無関係、しかも本人も構うなと言っているが、怪我人を放って立ち去るほど薄情ではない。実家にいたころから弟妹の世話を焼いていた典型的な長女気質で、困っている人を放っておけない性質なのだ。

「……妙な女だ。まったく縁のない男の手当てを買って出るとはな」

「傷ついている人の手当てをするのは、人として当然だと思いますけど」

 即答すると、男が虚を衝かれたように穂乃果を凝視した。そして長いまつ毛を伏せると、小さく喉を鳴らす。

「そうか……当然か。どうやら俺とおまえとは、生きてきた世界が違うようだ」

「え……?」

「いや、なんでもない。……ありがたく厚意に甘えよう」

 男はそれまでのとげとげしい雰囲気から一転し、口角を上げたのだった。



 幸いアパートまで近かったこともあり、人目につかずに部屋に入ることができた。

 穂乃果は男を椅子に座らせると、片腕だけシャツを脱がせて傷口に消毒液を吹きかける。

「っ……」

 一瞬、痛そうに顔をしかめた男は、しかしき声ひとつ上げなかった。丁寧に血を拭い、ガーゼで止血をする。傷口は鋭利な刃物で切りつけられたような鋭さで、明らかに普通の生活で負う傷ではなかった。

 ──まさか、犯罪者ではないよね……?

 ややきつつも、男が首から提げていた金のペンダントを避けて包帯を巻き、ようやく息をついた。出血を見てもさほど動揺せず手当てを終えられたのは、ひとえにホテルで培ってきた精神力の賜物だろう。

「……素人目ですが、幸いそこまで深い傷ではなかったようです」

 黙ってされるがままおとなしくしていた男は、包帯の巻かれた腕を見て笑みを浮かべる。

「助かった。まさか、純粋に他人を助ける人間がいるとは思わなかった」

 男は本気で感心しているようだった。いったいどんな殺伐とした世界で過ごしてきたのかと不思議に思ったが、他人のプライバシーに踏み込むべきではないと心得ている。あくまで穂乃果は怪我人を手当てしただけで、目の前の男が何者であっても関係はないからだ。

「応急手当てしただけです。病院に行ったほうがいいのは変わりないので……病院に行くのが嫌なら、家まで送りますけど」

「呆れたな。どれだけお人よしなんだ」

「乗りかかった舟ってやつです。それに……」

 ここは、穂乃果の勤めるホテルが借り上げているアパートだ。香港へは会社の研修で来ている以上、あまり勝手な行動はできない。男を連れ込んでいるなどと噂が立てば仕事に支障をきたすし、さすがに見ず知らずの異性を宿泊させるような真似はできない。

 正直に伝えると、男は得心したようにうなずいた。

「自分の立場も考えているということか。だが、安心しろ。もとよりこれ以上世話になるつもりはない」

 男は立ち上がると、自分の着ていたシャツを羽織った。右腕が無残に切れたシャツは血で薄汚れていたが、特に気にする素振りもせず穂乃果に向き直る。

「手当てしてくれたこと、感謝する。だが、世話焼きも過ぎると面倒に巻き込まれるぞ。もしも俺が悪人だったらどうするつもりだ」

「感謝を口にするあなたは、悪い人ではないと思います。たとえ悪人だったとしても、あとで助ければよかったと後悔するよりはマシですし」

「は……つくづく奇特な……」

 男の言葉が途中で切れた。次の瞬間、長身がぐらりと傾ぐ。

「大丈夫ですか……!?

 とっさに椅子につかまって転倒を免れた男は、しかしそのまま顔を上げなかった。今にも倒れそうな男の背に慌てて手を添えた穂乃果は、先ほど手当てしていたときよりもその身体が熱いことに気づく。

 ──もしかして……。

 男の顔を覗き込むと、呼気を乱しながら苦しそうに眉を寄せていた。とっさに彼の首筋に手を当てれば、やはり肌は熱を持っている。

「熱が出てきたみたいですし、この状態で移動するのは危ないです。とりあえず、そこにあるベッドで休んでください」

「おまえは……何を言っている。この部屋は自由に使えないと……」

「緊急事態です。病人を放り出すような真似はできません」

 はっきりと言い切ると、男をベッドへ促した。赤の他人、しかも正体不明の男だが、不思議と手を貸したくなる。それはたぶん、彼の言葉の端々に自分への気づかいを感じたからだ。

 悪人であれば、わざわざ「世話焼きも過ぎると面倒に巻き込まれるぞ」などと忠告しないだろう。もっともそれは、楽観的過ぎる考えかもしれないが。

「……悪い。少しだけ、寝かせてくれ」

 男はやはり限界だったようで、ベッドに倒れ込むように横たわった。穂乃果は急いでチェストから冷却シートを取り出すと、彼の額にのせる。

 ──ひどい熱……やっぱり、腕の傷が原因なのかな。

 上掛けをかけて様子を見ていると、傷が痛むのか時折苦しそうに呻いている。見た目の傷は口もとの腫れと右上腕部の切創だけだが、見えない部分も傷を負っているのかもしれない。

「……とりあえず、着替えと痛み止めの薬を買ってこないと」

 穂乃果は部屋を出ると、アパートの近くにあるショッピングモールに赴き、男物のルームウェアと、湿布や痛み止めなどを購入した。ついでに少し多めに食料を買い込み、急いで部屋に戻ろうとする。

 しかしそのとき、何やら剣吞な雰囲気を漂わせてキョロキョロと視線を巡らせる数人の男が目に飛び込んでくる。

 男たちはブラックスーツを身にまとっていたが、ビジネスマンや観光客の類ではなさそうだ。一様に双眸は鋭く、中にはプロレスラーと見まがう体格の者もいた。

 好意的に見て、要人を守るボディーガード。正直な感想は、その筋の人間である。

 およそ一般人には見えない風体の男たちは、広東語で「この辺りで傷を負った男を見なかったか」と道行く人たちに尋ねていた。

 ──もしかして、あの人を捜してる……?

 穂乃果が香港に来てほんの十日だったが、これまでアパートの付近で柄の悪い人間など見かけなかった。

 それが、穂乃果が傷を負った男を保護した直後から、怪しい風体の人間がうろついている。どう考えても、偶然とは思えない。

 自分が保護した男を捜しているのだと確信した穂乃果は、なるべくそちらを見ないように足早にその場を立ち去ろうとした。けれども、通り過ぎようとした瞬間、男たちのひとりが穂乃果に近づいてくる。

「おい、あんた。この男を知らないか?」

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