大富豪皇帝の極上寵愛

御厨翠

プロローグ / 1章 香港の蜜夜 (1)




プロローグ




 森崎穂乃果は、目の前で優雅にソファで腰を落ち着ける男を呆然と眺めていた。

 ここは、最高級ホテルとして名をせる『evangelist』のスイートルーム。ホテルの名を冠した豪奢な部屋で、都内では最大級の広さを誇っている。毛足の長い絨毯に、触れるのもためらわれる高価な調度品の数々は、さながら王族が住まう宮殿の様相を呈していた。

 だが、リビングでくつろぐ男は、その中においても見劣りしない。それどころか、まるでこの部屋の主のごときまいで穂乃果に目を向けている。

「何を呆けているんだ。来い、穂乃果」

 少し長めの漆黒の髪をかき上げて、切れ長の黒瞳をこちらに寄越す男は、艶のある低音で穂乃果を呼んだ。それは、命じることに慣れた声。常日頃より、他者を従えてきた者の発する声だ。

 自身のためにえられたであろうスーツに、ハイブランドの腕時計、ひと目でわかる上等なダブルバックルの革靴。どれも、以前の彼が身に着けていた代物とはまるで違う。

 いや、そもそも穂乃果が出会ったときの彼が非常事態で、今目の前にいる彼こそが本来の姿なのだろうか。

 ──なぜ、彼がここにいるの……?

 幾重にも疑問を連ねた思考は、目の前の秀麗な男の前では無意味だった。

 穂乃果は自身に注がれる黒瞳から逃れられずに、ゆっくりと彼に近づいていく。手を伸ばせば届く距離まで近づくと、彼は焦れたように穂乃果の腰を引き寄せた。膝の上に横抱きで座らされ、をすくい取られる。

「ようやくおまえをこの手に抱けた」

「っ……」

 至近距離で見る男は、否応なしに人を惹きつける容貌をしていた。今が仕事中でなければ、きっと意識ごと奪われていただろう。

「……様、離していただけませんか」

暁龍、だ。一年前はそう呼んでいただろう。忘れたなら、思い出させてやってもいい」

 暁龍の瞳が、獰猛な色を宿して穂乃果に据えられる。この瞳には、覚えがあった。彼と過ごした最後の夜、穂乃果が肌を許したときに見たものだ。

 一年前の夜、今では想像もつかないほどボロボロの姿で現れた男は、しかし瞳の力だけは強力だった。

 想い出に意識が引きずられそうになって、穂乃果は唇を嚙みしめる。

 ──この人は、何も持たずにわたしの前に現れたときの彼じゃない。もう立場が違うんだから……流されちゃダメだ。

「鄒様、ご用件をお聞かせ願えますか」

 穂乃果は理性をかき集めると、平静を装って事務的に告げた。男の膝の上という場所なだけになんとも締まらないが、あくまでも彼はゲストであるという態度は崩さない。それは、穂乃果のホテルウーマンとしての矜持だ。

なだな。それが普段のおまえの姿か。だが、悪くない」

 暁龍は穂乃果の腰をしっかり抱いたまま、顎にかけている手に力を込めた。

「おまえは俺の花嫁だ。否は認めない」

「離してください! わたしは、仕事中で」

「それなら問題ない。俺は客だ。客の相手をするのも、仕事のうちだろう」

「何言って……ん……っんぅっ……」

 強引に唇を重ねられて、口内に舌が挿し入れられる。逃げようとする舌を搦め捕られると、ぬるぬると擦り合わせられた。

 すべてを食らい尽くすようなキスは、香港で体験したときと変わらない。彼によってもたらされた快感を覚えている身体は、キスがきっかけとなって熱を持ち始める。

「んっ、ん……ふ……ぅっん」

 くぐもった声に甘さが混じってきたのを自覚すると、穂乃果のに朱が走る。

 このまま流されてはいけない。自分と彼とでは、立場が違う。一年前ならいざ知らず、現在のふたりは、ホテルの宿泊客と従業員なのだから。

「も……やめ……っ」

 唇が外れた隙に抗議の声を上げた穂乃果に、暁龍は余裕たっぷりに微笑んだ。

「やめろと言われてやめると思うか? それはおまえが身をもって知っているはずだ」

 香港での一夜を匂わせる言葉だった。そんなことは、指摘されなくてもわかっている。

 過去に穂乃果は、目の前の男を受け入れた。一時の熱情だと切って捨てるには、心も身体もこの男を鮮明に覚え過ぎている。忘れてしまうには強烈な存在感で、この一年の間ずっと穂乃果の心に居座っていた。

「ようやくおまえを迎えに来られたんだ。もう逃がさない」

「あ……っ」

 暁龍は、穂乃果を抱いていた手を離すと、その場に押し倒した。片手で穂乃果の両手を拘束し、空いた手で制服のリボンを解いていく。

「穂乃果……おとなしく俺のものになれ」

 そう言って自分を見下ろす男の瞳には、一年前と同じように欲望がくすぶっている。

 穂乃果は心臓が早鐘を打つのを感じながら、彼と出会ったときのことを思い返した。




1章 香港の蜜夜




 それは、さかのぼること約一年前の春。四月下旬のことである。

 大手外資系ホテル『evangelist』に勤務する森崎穂乃果は、香港にオープンする系列ホテルで現地スタッフの研修を請け負っていた。ホテルに就職して三年目のことだ。

 入社してベルに配属されてから経験を積んできた穂乃果だったが、将来的にはコンシェルジュを希望していた。コンシェルジュはホテルの〝なんでも屋〟であり、多種多様な人種と関わることの多い職種だ。

 国外のホテルへ赴くことは、自分のスキルアップにもつながる。そう思い、自ら志願して研修に臨むことになった。もちろん、責任者をはじめとするほかのスタッフも派遣されており、穂乃果はあくまでも補佐としてなのだが。

「──それじゃあ、お先に失礼します」

 その日の勤務を終えた穂乃果はホテルを出ると、早々にアパートへ戻るべく足を進めた。

 研修期間は二週間あり、その間は会社が借り上げているワンルームのアパートの一室に宿泊している。もともと現地の従業員に用意された独身用の社宅で、生活に必要なものはすべて揃っている。中環に位置するホテルに近いこともあって、至れり尽くせりの環境だった。

 香港に来た当初の退勤後は、観光に繰り出していた。林立する高層ビル群とレトロでノスタルジックな建物が織りなす不思議な街並みは、散歩しているだけで楽しかった。

 だが、ちょっとした旅行気分を味わっていたのは最初の数日で、一週間を過ぎるころには疲労が溜まってアパートに直帰するようになっていた。日本ではまだ肌寒さの残る季節だが、香港はすでに初夏の気温である。環境の違いや疲労とで、旅行気分はすっかり失せていたのである。

 研修の十日目となるこの日は、午前中のみの勤務で終わった。疲労する身体を早く休めたいと思った穂乃果は、足早に荷李活道近くにあるアパートを目指していたのだが……。

 ──えっ、何……?

 あと数百メートルでアパートに到着というところで、建物の隙間から大きな物音が聞こえてきた。

 足を止め、反射的に路地に目を凝らす。すると、大きな影がうずくまっているのが目に留まった。

「大丈夫ですか……!?

 とっさに出たのは日本語だった。香港に来てからは日本人と話す以外、広東語や北京語、英語が主だったが、驚いてつい母国語が出たのだ。

 メインの通りから薄暗い路地に足を踏み入れると、うずくまっていた人物が顔を上げた。

「……日本人か。面倒に巻き込まれたくなければこの場から去れ」

 顔を上げたのは男性だった。漆黒の髪に瞳、それに流暢な日本語を操っている。

 一瞬日本人かと思ったが、雰囲気が違った。それは、日ごろホテルで様々な国のゲストに対応しているからこそわかることである。

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