ずっと君が欲しかった

井上美珠

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 書類を見ながらオフィスのドアを開けようと手をかけると、ものすごい勢いで向こう側から開いたので、そのドアに額をゴツン、と強くぶつけた。

「いっ! ったぁ!」

 誰だよ、人がいるのに勢いよく開けたのは! と顔を上げると、時が止まったように動けなくなってしまった。その間はたった数秒だと思う。でも、もっと長い時間、身動きができなかった気がする。

 はっきりとした二重目蓋の、キレイな双眸が見開いた。その目は、片方が濃い茶色でもう片方は深い青色だ。オッドアイという名称で呼ばれるが、実際にこのキレイな目を間近で見たら安易な言葉で表現できないほど美しく、見惚れてしまう。

「……さん?」

 このキレイな目の持ち主を、佳生はよく知っていた。まるで、宝石みたいだと、初めて見た六年前に思った。今も同じように、彼の目は輝いて見える。名を口にしたとたん、心臓が高鳴った。彼に感じていたあのときの思いや記憶が一瞬にしてよみがえる。

「佳生か?」

 変わらない、耳に心地いい低くて甘い声。彼が佳生、と呼ぶたびにその声を聞きたくて、もっと名前を呼んで欲しいと思っていた。十八歳という大人なようで、大人ではない時期に彼は佳生に強い印象を残した人だ。

 彼は笑みを浮かべ、優しい目をして佳生を見る。それだけで、心臓の音がさらに速くなっていく。

「なんでここにいるんだ」

「え? 私、ここの社員で、益田さんの部下というか……」

「しゃいん?」

 彼の眉間に皺が寄る。佳生は何度も瞬きをした。眉間に皺が寄っても、彼の顔はカッコイイ。

 美形とはこんな人のことを言うのだろう。東洋人に見えるけど、外国の人といえばそうともいえる。ほどよくブレンドされた容貌は、目鼻立ちが整っていてキレイだ。

 日本人の平均身長をはるかに超えた長身、高い腰の位置。日本人離れした骨格。モデルもしくは俳優に間違われる彼の名は、藤守常盤

「ここの人間?」

 問われてうなずくと、さらに眉間に皺を寄せ、大きくため息。多少イラついているような顔をして、英語で次の言葉を言い放つ。

「streuth……」

「え? なに?」

 英語の意味がわからず首を傾げていると、益田が藤守の手をガシッと摑んだ。

「捕まえたぞ、藤守!」

「しつこい、益田」

 力任せに振りほどいたかと思うと、佳生の前髪をツン、と引っ張る。

「また」

 そう言って佳生の頰に服の一部をかすめながら、勢いよく飛び出して行く長身の背中。

「待てよ! 藤守!」

 続いて勢いよく飛び出すのは、上司だった。

 半ば呆然と佳生は彼を見送った。高鳴った心臓はなかなか収まってくれない。彼の甘く低い声を間近に聞き、体温も感じた。あんな近くに彼を感じたのは久しぶりだった。

「髪、引っ張られた」

 六年前も髪の毛を軽く引っ張られたことが何度もある。彼と仕事をしている間は、始終ドキドキしていたことを思い出してしまう。

「くっそ、逃げ足だけは速いんだからなぁ、あの男は」

 頭をガシガシとかく上司を見上げ、声を出す。

「編集長……さっきの……あの名カメラマンの藤守、常盤さん、ですよね?」

「ああ、そうだ。佳生はよく知ってるだろ? お前以来、あいつ、人は撮ってないからな」

 もうすでに、去ってしまった面影を思い出すように、エレベーターへと視線を移す。

「ったく……昔のよしみで仕事持ちかけたら逃げ出すし。また世界有数の名カメラマンってところが、面倒くさい」

 上司で編集長である益田智彦はこちらを見て、大きくため息。

「ウチはファッション誌の部署だから、女子向けの旅行本や風景写真集にも力を入れていきたいんだ。あいつほどいい写真を撮るやつ、俺は見たことないからな。数年ぶりにフラッと来たついでに頼んだら、そんな仕事はやらない、の一点張りだ。前は写真集の件で追いかけまわしたけどなぁ」

 その件は知っている。

 益田が藤守を追いかけまわしていた当時、まだ一介の編集者だった益田は、彼の写真を勝手に持ち出し、写真集を出してしまった。しかしそのことに対して彼は、文句を言うこともなく訴えるなんてこともなく、淡々と返事をしただけだった。

『あっそ。印税は適当に入れといてくれ』

 たまたま仕事で居合わせたから、その言葉に面食らったものだ。じゃ、と言って去って行く広い背中をずっと見ていた。これで最後なのかもしれないと思うと寂しかった。

 佳生の思いがわかったのか、通じたのか。最後に一度だけ振り向きざまに視線が合った彼が、軽く手を振ったのを覚えている。

「……おい、佳生!」

「……は、はいっ!」

 当時のことを反芻しボーッとしていた。慌てて益田に向き直ると、彼は腕を組んで真剣な目をする。

「佳生、あいつに仕事をするように口説いてこい」

 益田が佳生、と呼び捨てにするのは、十八のころからだ。ファッション誌の編集となる前、読者モデルをしていた。そのよしみで、益田は佳生を呼び捨てにする。

「えっ!? そんな、できませんよ! 第一、藤守さんって、どこに住んでいるかわからない人だし……前に、オファーをなかなか受けてくれないカメラマンって聞いたことありますけど」

 佳生の言葉にチッと舌打ち。

「そうだな……住んでいるところ知らねぇな」

 益田はまた頭をガシガシとかいた。どうにかして調べないとなぁ、とぶつぶつ言っている。

「佳生の話だったら聞きそうだけどなぁ、あいつ」

「そんなまさか。藤守さんに写真撮ってもらったのって、何年前の話ですか? あのときも、渋々、でしたよ?」

「ふうん、そっかなぁ……にしてはあのとき、ずいぶん楽しそうにしてたよなぁ、二人とも」

 ニヤつきながら言われ、確かに楽しかったのを思い出す。楽しすぎて、ドキドキしすぎて、時々あのときの思いを引きずる。ましてや、さっき本人を目の前にしたから余計に。

「楽しかったですよ。でも、別にモデルとカメラマンの関係で、楽しかっただけです」

「藤守、お前しか人物、撮ったことないんだぜ?」

「たまたまでしょう? カメラマンの人から、気まぐれ屋さんって、聞いたこともあります。話を聞く限り、ずいぶん気難しい人ですよね? 藤守さんって。気に入らない仕事はしない。好きな仕事だけをやってあれだけ成功してるって、すごい人だとは思いますけど」

 そんな人だとは、自分がモデルをしていたときは知らなかった。彼が去って行ったあと、初めて知ったのだ。でも聞けば聞くほど、それはどうなんだろうと思うこともしばしば。でも、彼の写真が世に出回ると注目してしまうのは彼の写真が好きだから。それに、彼の優しさや誠実さに触れたから。

 佳生の言葉に、はぁ、と益田はため息を吐いた。

「今回はあきらめるか。ほかにもいいカメラマンはたくさんいるんだよなぁ……」

「そうですよ。確かに、藤守常盤がうちみたいなファッション誌で仕事してくれたら、すごく注目されるでしょうけど」

 なんとなく、彼と仕事をしてみたいと思う佳生がいる。でも、世間一般的な彼の評判を考えるに、それはできないことだとわかるのだ。

 さらに深いため息を吐いた益田は、ったく、と言って佳生に背を向ける。

「出会ったときも結構大物だったが、さらに大物になっちゃって……」

 ブツブツ言いながら自分のデスクへと向かう益田を見て、佳生はただ笑う。

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