やさしいオトコ。 ハイスペック・ダーリンの極上愛

三津留ゆう

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 ふと気がゆるんだ瞬間に、視界がじわりとんでしまった。

 ……泣いちゃだめ。

 くちびるをきゅっと嚙みしめ、顔を上げる。潤んだ私の目の前には、渋谷の夜を彩るネオンが、涙にぼやけて揺れていた。

 くんともよく、ふたりで遊びに来た街だ。

 彼を追って上京したのは、私が高校を卒業した春──今から、ちょうど一年と少し前のことだった。

 幼馴染の紘くんは、私よりふたつ年上で、ほんの幼いころからずっと、私をかわいがってくれていた。

 この街に遊びに来たのも、私が彼にねだったからだ。

 はしゃぐ私を、「つばさ、転ぶなよ」と心配そうに見ていた顔を思い出す。「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから」と笑い返したことが、ずいぶん昔の話みたいだ。

 小さなころから、紘くん一筋で生きてきた私だ。紘くんのいない故郷の町で、恋をしようとは思わなかった。

 だから、紘くんが東京の大学に行くとわかったときは寂しくて、「私も東京に行こうかな」なんて言ってしまった。そうしたら紘くんが、「いいんじゃないの」と言ってくれたものだから、私はすっかり舞い上がり、高校を出てすぐ紘くんの家に転がり込んだ。

 今思えば、考えなしにもほどがある。

 けれど私は、それで紘くんの彼女になれたつもりでいたのだ──彼の気持ちは、まったく別のところにあっただなんて、知りもせず。

 ──そりゃ、つばさのことは、かわいいと思ってるよ。でもそれは、妹みたいにかわいいって意味で……女としては、見られないよ。

 紘くんの言葉、困ったような表情が頭をよぎる。

 鼻の奥がつんとして、私はあわてて上を向いた。肩の上で揃えた髪が、春の夜風にふわりと揺れる。

「──泣いてる場合じゃないよね、しっかりしなきゃ」

 私は自分で、両頰をぺちんと叩いた。

 カットソーに薄手のブルゾン、デニムのショートパンツという格好では、四月の夜はまだ寒い。このまま夜どおし、外にいるわけにはいかないのだ。

 涙がこぼれないよう目を見張り、まっすぐに前を見る。

 街のネオンは涙で滲み、よけいにきらきらまぶしく見えた。どこまでが本当の街明かりなのか、私にはもうわからない。

 それでもここは私にとって、紘くんとの楽しい記憶が残る街だった。だから今夜も、彼の部屋を飛び出してきて、自然とこの街に足が向いてしまったのだ。

 ──もう紘くんに迷惑はかけられない。ひとりでちゃんと、大人になるんだ。

 くちびるをきゅっと引き結ぶと、私は荷物を詰めたボストンバッグを持ち直し、大股に歩き出した。

 取り急ぎ、泊まるところを探さなくてはならなかった。

 紘くんには、「知り合いの家に泊めてもらう」と伝えて家を出てきた。

 けれど、上京して一年とちょっと、アルバイト先と紘くんの家だけを往復してきた私には、頼れるような場所はない。

 たいして貯金があるわけでもなく、タイミングの悪いことには、アルバイトの口も失くしたばかりだ。次の仕事にけるまで、できるだけお金は使いたくない。駅前のホテルの値段も調べてみたけど、何泊するかもわからないのに、そうそう高いところに泊まるわけにもいかなかった。

 明日からは、仕事を探して歩き回ることになるだろう。体が休まる気はしないけど、ネットカフェにでも行ったほうがいいのかも──そう思い始めた矢先のことだ。

《ご宿泊 4000円》

 目に飛び込んできた看板の文字に、私は知らず、見入ってしまった。

 ……安い。駅前のホテルより、ちょっとだけど安い。

 大通りから一本入った、れた雰囲気の界隈だった。行き交う人は肩を寄せ合い、密やかに話している。そういえば、カップルが多い気がするのは気のせいだろうか?

 デートスポットが近いのかなと思うと、またじわりと視界が歪む。

 そんな場所があるのなら、私だって紘くんと行きたかった。この期に及んで、まだそんなことを考えてしまう自分が情けなくなる。

 だめだ、もう、思い出しちゃだめ。

 かぶりを振って、私は再度、《ご宿泊 4000円》の看板に目をやった。

 ピンクのネオンで縁取られた看板は、そこはかとなく安っぽい。

 けれど、この値段でベッドに入って眠れると思えば上々だ。今夜、空いてる部屋があるかなあと考えていると、ふと誰かに腕を取られた。

「いくら?」

「えっ?」

 私の肘をつかんだのは、ぜんぜん知らないおじさんだった。まるまるとった体をスーツに押し込め、ふうふうと肩で息をしている。

 いくら、って、ここのホテルのことだろうか。

「宿泊料金ですか? だったらここに、《4000円》って書いて……」

「そうじゃないよ。らすつもり?」

 おじさんは、向き合う私の全身を、じっとりと舐め回すように見た。まるで私を、品定めしているかのようだ。

「まあいいや、その身なりじゃ高くもなさそうだし。交渉は中で、ね」

 私は、おじさんが入ろうと促すホテルの中を見て悟った。エントランスに、受付らしき人はいない。さらには、部屋の内装がひと目でわかるパネルが並んでいる。

「ま、待ってください!」

 私は後ずさり、ホテルの外観を振り仰いだ。

 西洋のお城を模した建物のてっぺんは、どぎついピンクと紫色のネオンで彩られている。これはもしかして、もしかしなくても──。

 いわゆる、ラブホテルというやつだ。

「え……っと」

 こめかみを、冷や汗がたらりと伝う。

 周囲に首を巡らせると、やっぱり、というべきかなんというべきか、ここはラブホテル街だった。カップルが多いはずだ。みんなこそこそ腕を組み、そこここのホテルへと消えていく。

 そんなところで押し問答をしている私たちは、変に目立ってしまったようだった。すれ違う若いカップルが、私とおじさんを横目で見ている。

 呆然としている私のところへ、鼻息をいっそう荒くしたおじさんが近づいてきた。

「このあたりでこういう商売やってるなんて、めずらしいよねぇ。最近は、新橋とかじゃ儲からないの?」

「あ、あの……」

「大丈夫だよ、今日は食いっぱぐれずに済むからね。さ、行こう」

「違うんです、私」

 おじさんはまわりを気にするように視線を泳がせ、私の腕を強くつかむ。

「わかったから、とりあえず入ろうか」

「きゃ……!」

 思ったよりもおじさんの力は強くて、本能的な恐怖を感じた。ようやく我が身に起こっていることを理解した私は、全力でおじさんに抵抗する。

「私、そんなつもりじゃ……や、やめてください!」

 力くらべになってしまうと、所詮こちらは女、相手は男だ。腕力で敵うはずもなく、じりじりとホテルの入り口に引きずり込まれそうになっていた──まさに、そのとき。

「悪い、待たせたな」

 私とおじさんのあいだに、大きな影が割り込んだ。

「──へ?」

 闖入者に、私は間抜けな声を上げた。

 影の正体は、背の高い男の人だった。ダークカラーのスーツにコートを羽織り、少し長めの黒髪を、無造作に額に散らしている。

「変なところで待たせて悪かった。あっちに車、回してきたから」

 言いながら、彼はおじさんの腕から私を引き剥がした。胸の中に私を抱き込み、おじさんから距離を取ってくれる。

「だ、誰……?」

 うろたえて見上げると、彼は私の耳もとにくちびるを寄せ、低い声でささやいた。

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