年下カレシ センセイ、逃がしませんよ?

沢上澪羽

プロローグ




プロローグ




 明るい日差しの差し込む職員室で、松崎栞は苦しいほどに激しく鼓動する胸にきつく握った拳を押し当てていた。

 栞はこの春に大学を卒業し、この清葉学園の養護教員となった。二日後に入学式を控え、この日は初めての職員会議だった。

 初めての顔合わせということもあり、全員が自己紹介をすることになったのだが、自分の順番が近づくにつれ、緊張で鼓動は速まるばかりだ。

「現国担当の伊藤です。よろしくお願いします」

 隣の席に座っているいくつか年上と思われる女性教師の自己紹介が終わり、職員室にいる全員の視線が栞に集中する。

 過度の緊張のせいで足が震え、立ち上がる時にがたんと椅子が大きな音を立てた。自分に向けられている視線が肌に痛く、栞は逃げ出したい気持ちになる。

 注目されるのは苦手だ。他人の視線が怖くさえある。

 ただ名前と一言抱負などを言えばいいだけだというのに、栞の声帯は凍り付いてしまったかのように一言も声を発することができないでいた。

 ──でもだからって、逃げ出すわけにも行かないじゃない。自己紹介もまともにできないなんて、社会人失格だわ!

 そう必死に自分を鼓舞し、栞は大きく息を吸い込んで口を開く。

「あの……松崎──」

「失礼します」

 絞り出した栞の声に、ドアの開く音と落ち着いたテノールの声が重なる。栞に向けられていたたくさんの視線は、一瞬でその声の主へと移動した。栞の視線も。

 そして一人立ち上がっていた栞と、職員室のドアを開けた声の主との視線が真っ直ぐに重なり合い、きさえも忘れてしまう。

 大げさかもしれないが、一瞬、時が止まった気がした。

 ──なんて……綺麗な子。

 そこに立っていたのは、清葉学園の濃いブルーを基調としたブレザーに身を包んだ男子生徒だった。

 栗色の髪の毛。切れ長の目、二重の下の瞳は、髪の毛と同じ栗色をしている。すっと通った鼻筋の下にある唇は引き締まり、綺麗な弧を描いている。

 どのパーツひとつとっても、その造形は整っていた。それらがひとつの顔を作り上げているのだから、その美しさは相当なものだ。本当に、『美少年』としか表現のしようがないほどに。

 自己紹介の途中だったことも忘れ、栞は惚けたように彼に見とれてしまっていた。

「ああ、東堂君。どうしたんですか?」

 そう教頭が声をかけたことで、それまで栞に向けられていた少年の視線がそれた。

「職員会議中に申し訳ありません。実は入学式の準備をしたいので、視聴覚室のをお借りしたいのですが、いいでしょうか?」

 その少年は礼儀正しい口調でそう言った。きちんと制服を着こなしたその姿は、優等生の雰囲気っている。

「ああ、構わないですよ」

「ありがとうございます。職員会議中に失礼しました」

 東堂と呼ばれたその少年は再びちらりと栞に視線を向けた後、一礼して職員室を出て行った。身のこなしひとつとっても、そつがなく流れるようだ。まるで彼がいたところにスポットライトでも当たっていたかのように、視線が離せなかった。

「松崎先生? 続きをお願いします」

 教頭にそう声をかけられ、栞ははっと自分の置かれている状況を思い出した。

「あ、あの。松崎栞です。養護教員です。この春に大学を卒業したばかりでわからないことばかりですが、どうぞよろしくお願いしますっ」

 一息にそう言って、ぺこりと頭を下げた。ぱらぱらとした拍手が起こり、栞は今度は大きな音を立てないようにと注意深く椅子に腰掛ける。

 不思議と先程まで感じていた目眩がするほどの緊張感は消えていた。

 ──あの子のおかげだわ……

 と、栞は思って小さく笑う。吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な瞳に、栞はすっかり緊張さえも忘れ、おかげで自己紹介もすんなりこなすことができた。

 ──あの子は一体誰なんだろう?

 そんなことを考えていると、隣の席から「ねえ」とこっそり声をかけられた。確かさっき自己紹介で伊藤と名乗っていたな……と考えながら、栞は彼女を見る。

「今の子、綺麗だったでしょう?」

 彼女の言葉に、栞はさっき生徒に見とれていたことを悟られたのかと一瞬どきっとした。けれどそれは杞憂であったとすぐに悟る。

「彼ね、東堂一樹君っていうのよ。この学園の生徒会長。成績優秀で、品行方正。その上、父親は大企業の社長で、母親はハーフの元美人キャスター。おごったところもなくて、生徒からも教師からも信頼が厚い。絵に描いたような優等生。現実にあんな完璧な子っているものなのね」

 彼女のその口調から、東堂一樹という生徒がこの学園の自慢の生徒であるということがうかがえた。

「東堂……一樹、君」

 栞は知らず、口の中で小さくその名前を繰り返していた。

 ──東堂一樹君、か。

 その名は、栞が初めて覚えた生徒の名前だった。

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