王子様症候群

せらひなこ

第一章 官能小説、書かせます! (2)

「ほらね、けっこう急でしょ。やっぱりタクシーが正解だよ」

 にっこりと微笑む丸い顔はやけに嬉しそうだ。温厚なひげ面に、メタボリックな体型。ずんぐりむっくりとした外見はどこかクマのキャラクターのよう。しかし仕事となるとがらりと雰囲気が変わり、その眼光も表情も異様な鋭さを帯びる。編集部で囁かれている『野生のテディベア』『ヒグマのプーさん』というあだ名も妙に説得力があった。

「せっかく横浜散策の機会なのに。帰りは歩きましょう!」

「うう、しんどい……蒔田は、バイタリティあるなー」

「それだけが取り柄ですから」

 香蓮は努めて明るく笑い、窓の外に視線を向ける。

 流れていく景色は確かにとても素敵だ。憧れの街でもあり、見ているだけで胸がときめくのを感じる。

 しかし今日は、高揚感の後ろに揺らぐ不安も隠れていた。

(初めて担当作家に会うんだもの……気を引き締めなきゃ)

 中途採用で入社して三ヶ月。会社勤めの経験こそあるものの、編集という仕事に関してはまったくの素人だった香蓮は、周囲にイチから業務を叩き込まれた。地道に仕事を手伝い、遅くまで残業もこなし、ようやく今日、初めて作家を担当させてもらえることになったのだ。

 嬉しい反面、気懸かりもまた大きい。

 初めての仕事に対する心細さ、それに、まだ見ぬ相手への好奇心と恐れ。

 なにしろ出発前にあんなことを言われては……。

「そういや、今日の作家さんなんだけど」

 きらり、と小さな目を光らせて藤原がこちらを見た。

「会社を出る前に言ったこと、覚えてる?」

「あ、はい」

 香蓮は急いで鞄から黒い手帳を取り出した。大事なことなので書いておいたのだ。

「ええと、綾小路史郎先生……覆面作家さんで、完全にすべてが秘密。担当編集でも、詳しい氏名や職業、生い立ちを聞いてはいけない。自宅だけは例外で、呼ばれたら直接訪ねてもいい。……ですよね?」

「そうそう」

 藤原が満足そうにうなずく。

「ちょっと複雑な作家さんでね。大きなヒットも出すけど、基本的には寡作だし、執筆に関しても難しい部分があるんだ。特に現在は……」

「スランプですか?」

 小説家には書けなくなる時期、というのがある。俗に言うスランプだ。その度合いは人によって違うが、あまりに重症だと筆を折ってしまう作家もいると聞く。

 だが藤原は首を振った。

「まあ実直に言えばそうなんだけど。他の人とは違って筆が乗らないというんじゃなくて、なんというか……行けば分かるかな」

 含みのある言葉が不安をる。香蓮は眉をひそめた。

「そんなに難しい人なんですか? 確かに小説はかなり純文学風というか、深みのある感じでしたけど」

「渡した本、読んだ? どうだった?」

 作家を担当してもらうかも、という話を聞いたのが先週の終わり。そのとき、香蓮は藤原から綾小路の既刊を手渡された。すでに読んだ本もあったが、知らない本も多く、夜遅くまで熱心にページをめくる日々が続いた。

 そうですね、と言いながら香蓮は小説の内容を思い浮かべる。

「なんだか、官能小説ではないようでした。文章も重厚で、あらすじも登場人物の心理もきっちり作り込んであって。読んだことのある官能小説とは全然違っていたので、驚きました」

 入社したころも、勉強のために、と男性向け官能小説をいくつか読んだことがある。だがどれもエッチなシーンばかりにページが費やされ、恋愛や、互いの心理を深く描いたものは少なかった。たまたま手に取った本が悪かったのかもしれない。だが香蓮にとっては物足りない、薄い印象しか残らなかった。

 しかし綾小路の作品は違っていた。

「世界観も濃厚で、なにより女性の視点を織り込んだシーンもあって……うまく言えないのですが、純文学に淫靡さを足したような感じで、のめり込んでしまいました」

 香蓮の感想に、うんうん、と藤原が満足そうにく。

「そう、綾小路先生はかなり特別でね。筆力もあるしプロットもしっかりしてる。なにより、ノスタルジックで豊穣な世界を手抜きせずに描写していくのが素晴らしい。男性向けだけど、女性読者も多いんだ。でも今は……」

「スランプですか」

「そう」

 藤原は困ったように腕組みした。

「実力のある人だけに、惜しいんだよなぁ。だから、担当を僕から君に代えてみたわけ」

「わ、私に」

 急に自分の話になり、思わず背筋を伸ばしてしまう。藤原がにやりと笑った。

「担当を新しくしたら、心機一転、書き出せるかもしれないと思ってさ。そういう意味でも、ぜひがんばって欲しい。頼んだぞ、蒔田!」

「私にそんなこと、できるでしょうか」

 心配そうな香蓮に、藤原は優しいヒグマのような笑顔を浮かべる。

「まあ、そう思い悩まなくていいよ。朝も言ったけど、ダメもとだから。合わなかったら別の人にするし」

「そうですよね……新米編集者ですもんね……」

 実力不足どころか実務経験不足なのだから仕方がない。どんなに「がんばる」を繰り返しても、実績のない今はまだ、空回りでしかないのだ。

 とほほ、という表情を浮かべた香蓮の肩を、藤原がなだめるように叩いた。

「入社の時に、バイタリティが取り柄だって言ってたじゃん? 僕もフォローするし、何かあったら頼ってくれればいいからさ! とりあえずファイト百発!」

「そうですよね……がんばります! やってみなきゃ分からないですしね!」

 香蓮は強引に笑みを浮かべた。自分の言葉に自分で勇気づけられる。そうだ、弱音を吐いている場合ではない。憧れの編集者になって初めての自分の仕事であり、担当作家なのだ。それがどんな人であれ、誠心誠意尽くせばきっと良い結果になるはず。ダメでもともと、当たって砕けろだ。

 表情を新たにした香蓮に、藤原が意味ありげに笑いかける。

「そうそう、ちょっと難しいけど、その分、眼福だと思うよ」

「え、どういう意味ですか?」

 尋ねたところで、タクシーが静かに停車した。どうやら着いたらしい。

 藤原が精算している間に香蓮は外に出た。冷たい北風が首筋をかすめる。大きくひとつ震えてから、目の前に広がる景色を眺めた。

(わあ、森みたい……)

 道の脇には公園のような、こんもりと茂った木立が続いている。ぱっと見ただけでも奥行きがあり、かなり広大な敷地のようだ。周囲は重厚な鉄柵で囲まれているから、きっと何かの施設に違いない。作家さんの家はこの先だろうか。

 だが降りてきた藤原は、その公園を指さした。

「おーい、ここ。ここだよ」

「え……ここって、個人宅……なんですか?」

 香蓮はあんぐりと口を開け、まじまじと森を見つめた。確かに、鉄柵の真ん中には門がある。だがあまりに荘厳すぎて住宅用には見えないし、表札も郵便ポストもない。

 住宅に見えないのは柵の中も同様で、こんもりと茂った樹木はどれも大きく、庭木のサイズを軽く超越している。木々の間には小道が続き、その先にやっと住宅らしい三角屋根が見えるが、それもかなりの大きさだ。家の外壁は煉瓦だろうか、年季の入った色合いをしている。大正時代の洋館と言われても納得しそうな、古めかしい建物だった。

 昔の政治家やお金持ちが住んでいた、というならおかしくはない。だが普通の人間が寝起きしている姿はちょっと想像がつかない。高級住宅地という条件を差し引いても、現代の感覚からは遠くかけ離れた物件だ。

「家、ってか洋館とか城ですね、コレ」

「それが近いね。中もすごく広いし、住んでいる人も……」

 藤原は言いながら、目立たない場所に設置されたインターフォンを押した。

「あ、お世話になっております、天山書房の藤原ですが」

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