恋愛家庭教師

南咲麒麟

第一章 同棲の始まりは突然に (1)




第一章 同棲の始まりは突然のに




 葵は落ち着かない気分でひとり、ソファに座ってお気に入りのビーズクッションを抱きかかえていた。

 日曜日の午後である。女友達と出かける予定もないし、デートをする相手もいない。とはいえ、もともとひとりが嫌いではない葵にとって、そんな日曜日も仕事を忘れてのんびりと過ごせる、嬉しい休日のはずだった。

 化粧品の通信販売をしている会社、そこの専属テレフォンアポインターが葵の仕事である。お客様はほとんどが女性で、コミュニケーションツールは当然、電話のみだ。だからなのか、平日はずっと誰かに何かを話している気がする。

 今の仕事に不満はないが、それでも休日ぐらい、注文と問い合わせ、そしてたまにあるクレームの嵐から解放され、静かなときを楽しみたいと思っていた。それなのに。

「……」

 今朝は起きてからずっと不安でたまらない。すべては母親のせいだった。

(ママが言ってた『お届け物』が届くのって、今日だよね)

 テレビをつける気にもなれず、意味もなく部屋全体を見渡してみる。

 悩みに悩んだ末の転職に合わせ、生まれ育った田舎町から都内に住むようになってから、もう五年になっていた。会社から通勤三十分圏内である一人暮らし専用の小型マンションは、セキュリティも最低限備わっているし、家賃も比較的良心的である。

 少し狭いのが欠点と言えば欠点だが、共有部分も隅々まで清潔だし、南向きの窓は一年中陽が差し込んできて気持ちいい。窓の向こうにはささやかだがベランダがあり、そこからの景色は人気洋菓子店の駐車場とその向こうの大型ファミリーマンションで埋め尽くされていた。実家のある田舎と違って、どこにも緑の木々が見えないのが残念と言えば残念だが、街中に住むことを考えればあまり贅沢も言えない。

 その代わり、いわゆる1DKの葵の部屋は五年間の試行錯誤の末に可愛らしくカスタマイズされ、今では一番、心の落ち着く場所となっていた。

 カーテンはグリーンを基調にした可愛らしい森がデザインされ、樹になっている赤い実と所々に顔を出しているリスの姿が微笑ましい。大型量販店で一目惚れして買った。

 小さな部屋を圧迫しないよう、ソファもテーブルも最小のものを選んだ。小さいけれど、その分こだわって質の良いものを選んだつもりだ。うっすらと花柄が透けて見える綿平織生成のソファは二人も座ればそれだけで窮屈だし、硝子テーブルに至ってはさらに小さい。それでも会社から帰って一人分の食事を作り、食べ終わったあとでのんびりソファに寝転びながらテレビを見ていれば、それだけで葵の心は安らいだ。

 テレビに飽きればノートパソコンを出してきて、ネットショップを楽しむのもいい。たまに女友達が泊まりに来て朝まで飲みながら色々な話題で盛り上がったりするが、それも年に数回程度で、あとはつつましく静かな暮らしぶりだった。

 そんな葵の、穏やかで満ち足りた日常がざわつき始めたのは一ヶ月ほど前──久しぶりにかかってきた母からの電話である。

「お見合い!?

 スマホを片手に紅茶を淹れようとしていた葵の手が止まる。思わずカップを取り落としそうになった。通話口の向こうから「驚くようなことじゃないでしょ?」と能天気な母親の声が響いている。

「あんたもそろそろ二十代のベテランになってきたわけだし。さくっと結婚相手でも見つけて連れてこないかしらねーって、ママずっと待ってたのよ? で、そんなときにタイミング良く、仕事でお世話になっているお得意様からお見合い話をいただいたってわけ」

「でもそんな急に」

「葵。物事ってのは大概、急にやって来るの。それが幸運なことならなおさらね」

「……」

「会ってみて気に入らなければ断ればいいのよ? お得意様だからって遠慮することないわ。先方もそんなことで腹を立てる人じゃないし。お見合いの相手もすごいのよ? 三つ星イタリアンの御曹司。実際に会ってみたけど、これが葵好みの真面目な好青年なのよぉ」

 そんな風に言われると、葵はもう逆らえなくなってしまう。いや、本来ならば逆らう必要なんてひとつもないのだろう。職業柄、母は本質を見抜く厳しい目を持っている。その観察眼で認めた人ならば、きっと素敵な男性に違いなかった。

「でも私……結婚に向いていないんじゃないかな……」

 ぼそぼそと抵抗してみるが、母には一蹴されてしまう。

「なに言ってんの、まだ結婚もしたことないくせに! 向いてるとか向いてないとか分かるわけないでしょ? そういうときは経験してみればいいの、何事も」

 葵、と母の声はワントーン低くなる。

「お見合いって形が気に入らないなら自分で必死に恋の相手を見つけてきなさい。それが出来ないんだったら、堂々とお見合いを受けてみるの。そりゃね、葵の今の生活が平穏で満ち足りていることぐらい、ママにも分かってるわ。でもだからこそあえて言うの。今のままではダメ。このままずっと愛し愛されることを諦めるつもり? 結婚が幸福とは限らないけど、それでもあなたが幸せな結婚を放棄するのはあまりにも早すぎるわ。結論を出すにはもっとジタバタしてからでも遅くないわよ」

 母の言葉はいつも正しい。正しいからこそ、葵の胸に鋭く突き刺さった。

「……」

 黙ってしまった葵に、母は「とにかく写真とプロフィール送るから」と一方的に通話を切った。あとにはむなしい電子音だけが残る。

(どうしよう……どうしよう、どうしよう!)

 翌日に送られて来た写真入りの封筒など、開ける気にもならなかった。絶対に視界に入らないように、今でも本棚の一番隅に追いやられている。母からお見合い話を持ちかけられてから、葵の日々は散々だった。会社では大事なメモを無くして顧客を怒らせたり、報告書の数字には余計なを二つも多くつけてしまうし、上司や同僚との会話もなかなか耳に入ってこない。自宅に戻っても気がつけば一時間でも二時間でもソファに座ってぼんやりとしていた。食欲もなく、なにもやる気が起きず、上手く眠ることも出来ない。

 どうしてこれほどまで、自分はお見合いが嫌いなのか。

(ううん、嫌いじゃなくて……怖いんだ……なんでだろう……?)

 そう自分に問いただすことは、過去の傷に向き合うことでもあった。それが今の葵にとって何よりも辛い。転職を決意してから五年、いや本当はもっとずっと昔から、心の奥底に隠し続けた秘密があった。それは誰にも──母にさえも──語らずに生きてきたのだ。

 今さら、きちんと話せるだろうか。けれど伝えなければお見合いは実行されてしまう。

 多少強引だけど快活で頼もしい母を、葵は今でも大好きだし尊敬もしている。だからこそいい加減な嘘で誤魔化したくはなかった。けれど真実を伝える勇気が出ない。

 散々悩んだ結果、母に電話したのが今から三日前である。写真が送られてからすでに一ヶ月が経っていた。

 会社から帰宅して二時間ソファでうずくまる。このままでは何も始まらないと決心し、震える手でスマホを握りしめた。母に繋がった瞬間は息が詰まったが、それでも勇気を振り絞って、葵は母親に告げた。自分がお見合いを受けられない、本当の理由を──。

「病気!?

 葵の告白に、さすがの母も驚いた様子だった。

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