マイスウィートダーリン エリート上司が愛しの旦那様になるまで

佐木ささめ

1章 (1)




1章

 八月上旬、上海出張から帰国してしばらくして、三本課長と芳野係長に呼び出された。

 直属の上司だけでなく、部署のボスも同席する話し合いなど初めてで、パーティションで囲った簡易応接室へ足を向けた私は、緊張のためか動きがおかしい。──まさか私、ヘマをしていないわよね。

 記憶を探りながら上役二人の前に腰を降ろすと、三本課長が資料をめくりながら声をかけてきた。

「ああ、渡部君、緊張しないで。悪い話じゃないから」

 そうですか。とてもじゃないけどリラックスできる雰囲気ではありませんが。

 課長と係長は、ガラステーブルに積まれた厚さ十センチほどの資料に目を通しつつ、何事かを話し合ってこちらを見ようともしない。しばらくの間、私の存在はほったらかしだった。

 今日はコレポンが多いから、早く翻訳してデータ入力を済ませたいのに。それに岡沢先輩から新しい仕事を教えてもらう予定だったのになぁ。

 最近は先輩スタッフの手伝いをしつつ、発注から出荷の全行程を覚えている最中だ。とても楽しいので早く仕事に戻りたい……

「──で、どうする?」

「そうですねぇ~☆ やっぱり僕が動きましょうっ

 この会話を最後に上司たちの話が纏まったらしく、ようやく二人が私に向き直った。

「待たせてすまんね、渡部君。君にやってもらいたい仕事があるんだ」

「はい」

「上海出張で一件の契約を取りつけただろう。あそこの技術者が松沼の工場と研究所を見学したいって言ってきたんだ」

 中国での契約といえば、中華移動しか思いつかない。でもあれは私が契約を取ったことになるのだろうか。商談はほとんど芳野係長が話していたのに。

 疑問に思ってそのことを係長へ尋ねてみると、彼は苦笑を零している。

「もちろんあの契約は渡部さんの功績だよん☆ なんたってCEOは君を指名して商談をはじめたデショ

「あの方はただ、私の中国語を聞きたかっただけだと思いますが……」

 私の表情に納得がいかない色を見つけたのか、三本課長まで苦笑を浮かべる。

「どのような理由であれ、うちの商品を買ってくださる事実は変わらないよ。で、ここからが本題なんだけど、チャイニーズ・モバイルの研究開発部門が来日する際、案内が必要なんだけど、先方が渡部君にお願いしたいって言ってきたんだ」

「え、私ですか」

 なんで私に? それよりもアテンドってどうすればいいんだろう。初めてなんだけど。

 大役にいていると、芳野係長が笑顔で口を開いた。

「渡部さんってこういうの初めてデショ☆ チームの誰かとペアを組ませようと思ったんだけど、相手が新規の大企業だし接待もあるから、僕と組むことにしたよぅ

 変人係長とご一緒ですか。抵抗感がありまくりだけど、仕事の上では頼りになる上司だから、まあいいか。

 と、頭の中で考えを巡らせていたら、いささか険のある上司の声が降り注いだ。

「渡部さんっ★ 今、『嫌だなあ~』って考えたデショ?」

 頭の中を覗かれたかのような台詞に首を傾げる。なんで人の考えていることが分かるんだ、変人め。

「まさか、そんなことございません。よろしくご教授お願いします、係長」

 いちおう、仏頂面の上司へは、にこやかな笑みを向けて頭を深く下げておいた。


 視察には、国内海外問わずふた通りの意味がある。

 一つは社員や研究員が同じ立場の人間と勉強したり、情報交換をすることによって互いのモチベーションを高め、よりよい製品作りに昇華させる。

 もう一つは顧客に自社工場や研究所を案内することだった。後者の場合はたいてい接待がついてくる。

 松沼通商の工場と研究所は、埼玉入間市の航空自衛隊基地の近くにある。今回のお客さまは一泊した後に帰られるので、来日した日の夜に食事へ連れて行く必要がある。幸いなことに、海外のお客さまに喜ばれそうなお店はリストアップされているため、使いやすいお店に予約を入れた。その他、送迎の手配や工場と研究所への連絡、行動予定表の作成、宿泊するホテルの手配など、やることが山のようにあって驚いた。

 お客さまのアテンドは海外営業部にとって重要な仕事の一つ。手を抜くことは厳禁である。隣席の岡沢先輩に、〝アテンド虎の巻〟なるものを借りて、慣れない業務に奮闘する。

 気づけばすでに午後九時を過ぎていた。

「りぃーちゃん☆ 区切りがついたら後は明日に回して、もう帰ろうねっ

 同じように残業している上司がふざけた愛称で呼びやがった。今は私たち二人以外は全員退社しているので、彼は当然のごとく私を愛称で呼んでくる。止めろ。

「渡部です、係長。誰もいないからってオフィスで名前を呼ばないでください」

「ええ~、いいジャン★ 聞いてる人は誰もいないしぃ

「そうやって名前を呼ぶことに慣れて、他のスタッフがいる場所でも呼ぶかもしれないじゃないですか。それが怖いんです」

「僕、今まで間違ったことはないよん

 だーかーら、これから間違えるかもしれないと言っているだろうが! くそぅ、ここで言い合いをはじめても、この頭だけはやたらと切れる上司に口では勝てない。

 私は諦めて退出することにした。

「では、お先に失礼します。係長はまだ帰られないのですか?」

「この書類を作り終わったら帰るよん あ、もしかして一緒に帰りたかったぁ?」

「失礼します!」

 私は手荷物を持って足音高く営業三課を後にした。背後から、「お疲れぇ☆」なんて間延びした腹立たしい声がかけられる。ロッカールームで貴重品やスマートフォンを鞄にしまい、ついでに化粧室へ寄って軽く化粧を直してからエレベーターホールへ向かった。

 のろのろと行動していたら、そこそこの時間が経過していたらしい。営業三課の部屋を通り過ぎたときには、すでにオフィスの電気が消えていた。芳野係長は自分が退席してからそれほど時間を空けずに帰ったようだ。

 海外営業部が専有するフロアは、廊下の電気以外はすべての灯りが落とされ、しんと静まり返った空間はほんの少し心細さを抱かせる。エレベーターが到着するときのコールまでフロア中に響くほど静かだった。

 私は大きく息を吐き、伸びをしてからエレベーターに乗って一階のボタンを押す。壁にもたれてボーッと行き先表示を眺めていると、不意にエレベーターが五階に止まった。

 あれ、こんな時間まで誰か残業をしているんだ。自分のことは棚に上げつつ感心していると、ゆっくり開かれた扉の向こうから一人の壮年男性の姿が現れた。

 ひゅう、と喉から細い音が漏れる。──そうだ、ここは五階だった。

 海外営業部に配属されるまで在籍していた、総務部があるフロアだ。でも異動になってからこの階へきたことは一度もない。そして私の姿を見て呆然とつっ立っている男とも、あれ以来、一度も顔を合わせたことはなかった。

 まるで金縛りにあったように動けず、声を出すこともできない。消え去って欲しいと渇望しているのに、その男は箱の中に入って当然のように私の隣で正面を向いて並ぶ。まるでここが自分の定位置だと主張するかのように。

 男の吐息と気配を肌で感じる。密室空間での呼吸は男の呼気が私の肺に侵入して、気持ち悪さと震えで体の自由が奪われる幻覚が脳裏に浮かんだ。

「マイスウィートダーリン エリート上司が愛しの旦那様になるまで」を読んでいる人はこの作品も読んでいます