ぜんぶ、初めて。 モップガール・シンデレラ

佐々千尋

1. 別世界の王子様 (3)

 ぎょっとして、何度かまばたきをする。けど、見直しても状況は変わらない。

 とっさに木内さんの手を振り払い、腕をまっすぐに伸ばした。袖がだらりと垂れて、開いた肩口から私の肌が覗いた。

 慌てて裂け目を押さえる。肩の部分を縫い合わせていた糸が切れたらしく、ちょうど一番高い部分が十五センチくらい破れていた。

 何これ。どうしよう!? こんなに開いていたら、ごまかしようがない。

 焦ってオロオロする私の背中に、バサッと何かが掛けられた。

 見れば暗い色のジャケットが私の上半身を覆っている。木内さんが自分の上着を脱いで、私に掛けてくれたらしい。

 ジャケットから伝わってくる彼の温もりと、爽やかな香りにドキッとする。

「あの……?」

 恥ずかしいやら申し訳ないやらで断ろうとしたけど、上着を返すよりも早く、また右手を摑まれてしまった。

 戸惑う私にかまわず、彼は周囲に視線を走らせる。何を確認したのかはわからないけど、納得したように一度うなずいて、廊下の奥へと歩き出した。

「いいから、こっちにきて」

 有無を言わせない様子で、木内さんは廊下をずんずん進んでいく。一番奥の隅に置いてあった掃除機の前を通りすぎて、非常階段を駆け上がった。

 オフィスフロアの上階は会議フロアになっている。木内さんは非常階段に近い小会議室のドアプレートを「使用中」に変えて、私を連れ込んだ。

 小会議室はその名の通り少人数の会議用で、四畳くらいのスペースに小さな机と椅子があるだけの部屋だった。

 何故ここへ連れてこられたのかわからずに木内さんを見つめると、彼は目を伏せて、困ったように頭に手を当てた。

「ごめん。あそこで話をしていると目立つというか。あとで噂になると、きみに迷惑をかけるから」

「え、はい……」

 正直なところ、なんの話かさっぱりわからなかったけど、うなずいておく。とにかく私と一緒にいるところを見られると、木内さんは困るらしい。

 彼は私の真正面に立ち、突然、目の前で腰を折って頭を下げた。

「謝っただけで済むとは思っていないけど、申し訳ない」

「な、なんですか、一体!? 急に謝られても困ります」

 唐突な謝罪に混乱する。呆然としていると、木内さんはますます深くおじぎをした。

「でも、ぶつかったうえ、きみの服をダメにしてしまった。もちろんそれは弁償するし、清掃会社さんの方にも個人的にご挨拶に伺うけど……本当にごめん」

 どうやら木内さんは、私のユニホームが破れた責任を感じているらしい。次々と出される償いの言葉に、私は首を横に振った。

「いえ、別に弁償とかいらないです。直せばいいだけだし。それに破れたのは元々ほつれていたからだと思います」

 少し前、野川さんから「肩のところがほつれている」と言われたのに、直すのをすっかり忘れていた。傷んでいた縫い目が、腕を強く引かれたことで裂けたに違いない。

 私の説明を聞いた木内さんが、顔を上げる。物凄く意外そうに、パチパチとまばたきをした。

「そうだとしても、俺がぶつかったのが原因でしょう」

「私もよそ見をしていたから、謝ってもらうことじゃないです。というか、助けてくださってありがとうございました」

 あの時、木内さんが私の腕を摑んでくれなかったら、転んでしまうところだった。逆に私からお礼を言わなければいけないことに気づいて頭を下げると、借りっぱなしだったジャケットの生地がこすれて、かすかな音を立てた。

「あ、すみません。上着まで借りてしまって」

 ジャケットを返そうとして、襟に手をかける。あわせを開いたところで、彼が目に見えて焦り出した。

「いや、まだ着ていていいから。その……目のやり場に困るし」

「はい?」

 やっぱりなんのことかわからずに首をかしげる。木内さんは何かを言いたげにちらりと私を見たけど、またすぐに目をそらしてしまった。

 ……なんだろう、変なの。

 不思議に思ってじっと彼を見つめる。間近で見た木内さんは、女の私から見ても羨ましくなるほど端整な顔立ちだった。

 綺麗に整えられた眉に、優しげな目元が印象的で、まっすぐに通った鼻筋と小さめの口がバランス良く配置されている。横に流している黒髪も清潔感があって、女性たちに大人気だというのもうなずけた。

 私がまじまじと見ているせいか、木内さんは少しだけ居心地悪そうにしながら、私のユニホームを指差した。

「ところで、その服の替えってあるの? もしあるなら取ってくるけど」

「あ、予備は……」

 駐車場に停めた社用車の中にある、と、言おうとして口をつぐんだ。

 汚れた時のために、替えの服はいつも車に置いてある。でも今日はその車がない。私と清掃用具をここに送り届けたあと、野川さんが他の現場へ乗っていってしまった。

 できるだけ早く戻ると野川さんは言っていたけど、待っていられない。かといって、肩を出したままでは仕事が続けられない。……それなら、今できることは一つだ。

「あの、ここをあと十五分くらい、お借りできますか?」

「え。ああ、大丈夫だけど」

 私のお願いを聞いた木内さんは、面食らったようにまばたきをしている。

「それから、すみませんけど、三階のトイレの脇に掃除用のロッカーがあるので、中から茶色のバッグを取ってきてほしいんです。これロッカーの鍵です」

 ベルトに通していた鍵を外して差し出す。仕事先の社員さんを使うなんて本当はダメなことなんだろうけど、背に腹は代えられない。

 木内さんは、私から鍵を受け取って力強く首を縦に振った。

「わかった、取ってくる。見つけられなかった時は電話するから、きみの電話番号を教えてくれるかな? あ、用が済んだら、すぐに消すよ」

 そう言いながら、彼はシャツのポケットに入っていた携帯を取り出した。

 最後につけ足された言葉に大人の配慮を感じる。平凡で貧乏な私の携帯番号に利用価値なんてないだろうけど、うなずいておいた。

 木内さんは番号を登録したあと、私の携帯にワンコールをして「何かあったら、かけてきて」と言い、小会議室を出ていった。

 一人で残された私は、はあっと溜息をつく。

 なんか、おかしなことになっちゃったな……。

 携帯の画面に残る木内さんの番号を確認して、もう一度、息を吐いた。


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