ぜんぶ、初めて。 モップガール・シンデレラ

佐々千尋

1. 別世界の王子様 (1)




 1.別世界の王子様




 昇ってきた太陽の光で世界が白く輝き出す時間。私は派遣先へ向かう社用車の助手席に座り、まだ朝焼けの残る空を見上げた。

 車のラジオでは、パーソナリティの朝の挨拶と共に懐メロが流れている。早朝のリスナーは年配の人が多いのか、七十年代の曲がよくリクエストされていた。

 隣からかすかな鼻歌が聞こえてくる。振り向けば運転席に座る同僚の野川さんが、嬉しそうに目を細めていた。

 野川さんは今年で六十二歳だと言っていたから、当時は青春時代の真っ只中だったんだろう。白髪染めに失敗したという薄茶色の髪と、ふっくらした身体を揺らして歌を口ずさむ彼女の横顔を見つめた。

 私の視線に気づいたらしい野川さんが、ふふっと笑う。

春花ちゃんは、こんな古い歌を知らないでしょ。あたしたちが若い頃の曲だものねえ」

「サビのところだけなら、聴いたことがあります」

 いつ、どんな状況で耳にしたのかは覚えていない。でも確かにサビの部分だけは知っている。私の返事に気をよくしたのか、野川さんは嬉しそうにまた笑った。

「あら、意外。この曲は私がちょうど春花ちゃんくらいの時に大流行したのよ。懐かしいわあ」

「へえ。そうなんですね」

 最近の曲のようにアップテンポじゃないけど、よく聞けばメッセージ性のある良い歌だと思う。野川さんと一緒にラジオに耳をかたむけながら、近づいてくるオフィス街を眺めた。

 私が勤める清掃会社は、主にビルや商業施設の清掃を請け負っている。今日も早朝からオフィス清掃の仕事が入っていて、派遣先である建設会社のビルへ向かう途中だった。

 市街地の大通りを進んだ先の右手に、目的のビルが見えた。

 壁面全体を覆うガラスが、淡いオレンジ色の空を映している。余計な装飾のない洗練されたデザインのビルは、私がここで働き始める少し前に建て直されたものらしい。

 一階に外資系のカフェ、二階にフィットネスクラブが入っていて、三階から上が社屋になっているというおしゃれな造りだった。

 地下駐車場の入り口に行くため、車は一旦ビルの前を通りすぎる。少しずつ高くなっていく太陽が、カフェの看板に反射してきらりと光った。

 ……なんていうか、別世界。

 別に卑屈になっているわけじゃないけど、清掃員の私と、あそこで働く人たちが、まるで違う人間のように感じた。

 私と野川さんと、清掃用具を積んだ軽ワゴンは、地下駐車場の入り口をゆっくりと進んでいく。契約してある専用スペースに車を停めたところで、野川さんとお互いの恰好をチェックし合った。

 清掃会社の方からも、作業ユニホームに不備はないか、だらしなくなってはいないかを確認しろと言われているけど、それ以上にこの現場は服装に厳しい。

 依頼主である建設会社の社長さんが「良い仕事をするためには、まず見た目をきちんとしなければならない」という信条を掲げているらしく、私たち清掃員にも徹底するよう指導されていた。

「あ。春花ちゃんのユニホーム、右肩の後ろのところがほつれているわよ」

「えっ」

 野川さんに指摘され、肩へと目を向けた。けど見えない。一度、脱いで確認しようとすると、彼女に止められた。

「今日はまだ大丈夫よ。糸がちょっと飛び出ているだけだし。でも早めに直しておいた方がいいかもね。放っておくと広がってきそう」

「はい。ありがとうございます」

 うなずいて、微笑み合う。

 野川さんはベテランの先輩というだけじゃなく、細かいところにもよく気がつくし、歳の離れた私とのペアも面倒がらないでいてくれる。とても頼りになる存在だ。

 服装のチェックを終えた私たちは、車を降りて作業の準備を始める。軽ワゴンのバックドアを開け、掃除機を降ろしたところで、駐車場内に女の人の甲高い声が響いた。

「待ってくださいっ!」

 慌てて顔を上げる。スライドドアの方からモップとバケツを出していた野川さんも、ぎょっとしていた。

 普段この時間に駐車場へ出入りするのは私たちだけだ。

 ビルには警備員さんが常駐しているけど、定時の見まわり以外で警備室から出てくることはないし、女性の警備員さんがいるという話も聞いたことがない。

 声のした方を見ると、ビルの入り口の手前で、淡いピンク色のスーツを着た華奢な女の人が、隣に立つ男性に縋りついていた。

 一体、なんだろう……?

 今にも泣きそうな顔でしがみつく女性を、男の人は強引に引きはがし、きっぱりと首を振る。少し離れているせいで何を話しているのかはわからないけど、二人の首にこの会社の社員証が下がっているから、不審者ではなさそうだった。

 声をかけた方が良いのか悩みながら、二人を横目で見る。と、いきなり横から腕を摑まれた。

 驚いて振り返れば、野川さんが呆れたような表情を浮かべて首を横に振っている。

「……無視よ、無視。どうせ色恋沙汰で揉めているんだから。係わっちゃダメよ」

 ぐっと身を寄せてきた野川さんが、私の耳元にぼそぼそとささやく。何がどうなっているのかさっぱりわからずに、私はまばたきをくり返した。

「え?」

 どういう理由であれ、揉めているなら止めた方が良いんじゃないだろうか。

 本当に無視していいのか戸惑っていると、野川さんは疲れたように溜息をついて肩を落とした。

「あの男の人、知らない? ここの施工管理部の主任で、木内さんていうんだけど……」

「さあ。ちょっと、わからないです」

 車の後ろに身をひそめて、私は首を横に振った。私と同じように縮こまっている野川さんは、その木内さんに向けて顎をしゃくる。

「彼、見るからにイケメンでしょ。しかも二十代後半で主任のエリートだから、社内で凄い人気なの。何があったのかは知らないけど、男と女のことに口を出すべきじゃないわ。面倒事になるから」

 野川さんの話にぽかんとしてしまった。

 木内さんは確かに遠目でもわかるくらい整った顔をしている。けど、なんで早朝にこんなところで揉めているんだろう……。

 まるで私の疑問に答えるように、二人の言い争う声が大きくなってきた。

「資料作成が間に合わないと言うからきたのに、あれは嘘だったの?」

「う、嘘じゃありません。ただ、あと少しのところまでは進めてあるから、ちょっとお話をする時間くらいはあるかなって……」

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