コイウタ 憧れ部長の極甘ラブレッスン

伽月るーこ

叙唱《レチタティーヴォ》 (3)

「こういうの慣れてないよね? 大丈夫……?」

 そっと落ちた彼の言葉にかなでは自分の男性遍歴をぽろりとこぼす。

「彼氏がいたことがありません」

「……じゃあ、これは結構……刺激的な展開だよね」

 ははは、という乾いた笑いに混ざって、東屋にいる男女の声は徐々に喘ぎ声へと変わりつつある。確実に居づらい。気にしないようにしようと思えば、心とは逆に耳が嬌声を拾ってくる。気にしないと思っていても、どうしても気になってしまう。これではだめだと、目を閉じて精神統一でもしようかとしているときに、耳が何かに覆われた。

「これで、少しはげそう?」

 目を開けると、響生がかなでの両耳を手で覆ってくれていた。多少は聞こえなくなったが、完全に聞こえないわけではない。素直に首を小さく横に振った。

「……無駄な抵抗だったか」

 苦笑を浮かべた響生が手を引く。離れていく熱に名残惜しさを感じながら、申し訳なく思った。

「すみません……」

「いや、高槻さんのせいじゃないよ。俺が、できるかぎりのことをしてから諦める人間だから、ちょっと足搔いてみたかっただけ」

 できるかぎりのことをしてから、諦める。

 彼の言葉を心の中でなぞりながら、自然と自分に問いかけていた。苦手なことを目の前にしたとき、自分はどうだっただろうか、いつも何もせずに諦めていなかったか、と。

 その答えが、声になって言葉になる。

「……がんばってもできないことは、やるだけ無駄じゃないですか……」

 今までの自分を正当化する本心が唇からこぼれ落ちた。自分の拗ねたような声で我に返ったかなでは、また悪癖が出ていることに気づいて取り繕おうと顔を上げる。しかしその直後、こつりと額をくっつけられてしまった。心臓が大きく脈打ち、額からのぬくもりに息を呑む。

「無駄じゃないよ。少なくとも、挑戦する気持ちは」

 静かに告げた響生が、ゆっくりと額を離す。彼は微笑みを浮かべていた。

「さっき、高槻さんは〝がんばってもできないこと〟って言ったでしょ。それって、一度は挑戦しようと考えたってことだよね。最初から立ち向かわない人は、そうは言わない」

 けれど、やらなければ結果は同じだ。最初から立ち向かわない人と同じになる。

 思っていることが相手にも伝わったのだろうか、響生はかなでの頰にその手を這わせた。

「高槻さんみたいに挑戦しようという気持ちを持っている人は、結果的に自分に負けてしまう人が多いんだよね」

 自分に、負ける。──確かにそうだ。立ち向かう気持ちはある。挑戦して、苦手なことを克服したい。しかしそれと同時に、何をやってもどうせできない自分を想像してしまい、結果、その場に立ち尽くしてしまうのだ。前に進むこともできず。

 響生に言われたとおり、最初からやってもないのに諦めることのほうが多かったと思う。

「俺はね、何もせずに諦めることのほうが、かっこ悪いと思う人間なんだ」

「……じゃあ、私も」

 その人たちと一緒だ。そう言おうとしたが、響生はゆるゆると首を横に振った。

「高槻さんは、挑戦する気持ちがあるだけ一歩前に進んでる。だったら、できない、と思ったことを諦めないで、〝できないと思った自分を捨てる〟ことからはじめたらいいんじゃないかな」

「できないと思った自分を捨てる……?」

「そうだね。できることをできないって思いこんで、本当にやらないのはとてももったいないことだと思うよ」

 そう言って頭を撫でてくれる響生の声に、不思議と勇気が湧いてくる。そうだ。やらなきゃできない。逃げることで自分に勝てるわけがないのだ。で、あればどうするか。──今、できることを考える。

「さて、といったことを踏まえて、……この状況をどうしようか……」

 困ったね。そう苦笑を浮かべた響生に、かなでは先ほどから考えていたことをついうっかり口にした。

「ぎゅって……、してください」

 驚きに目を見開いた響生に、かなではまた自分の悪癖が出てしまったことに気づき、慌てて弁解という名の墓穴を掘り始める。

「あの、さっきぎゅってされたとき、周りの音も聞こえないぐらい中村部長の体温にドキドキしました。中村部長に夢中になれば、他の音も聞こえなくなるんじゃないかって、そう思いまして……!」

 表情を変えない響生の反応を前に、初めて自分の性格を恨めしいと思った。

 さっきの告白といい、今のセリフといい、一体、どこのネジが吹き飛べば恥ずかしいことを言えるのだろうか。いまだ反応のない響生に申し訳なさそうに視線を落とす。

「……ごめんなさい。中村部長がこういうのに慣れてない私に、耳を塞いでくれたり、気を使ってくれたりしたっていうのに……、私、こんな頭の悪いことしか言えなくて」

 俯いた視界が、少しずつ歪んでくる。諦めるよりも先に自分なりにできる限りのことをしたのに、結果頭の悪いことしか言えなかった。そんな自分を、こんなにも情けないと思ったことはない。

 かなではぐっと涙を堪えて顔を上げると、情けない顔から笑顔に変える。

「変なこと言ってごめんなさい。私、このままでも大丈夫ですから」

 涙がこぼれるギリギリのタイミングで、視線をそっと東屋のほうに向けた。こちらからでは、人影が重なっているのしか見えない。ここから出るにはまだ時間がかかりそうだった。

「向こうは、動く様子がないみたいです」

 響生に視線を戻して報告するかなでだったが、彼はかなでを凝視したまま動かない。

「……えっと……、中村部長?」

 好きな人にじっと見つめられる恥ずかしさに包まれながらも、目を逸らすことができなかった。綺麗な紺碧の瞳に吸い込まれそうになって、全神経が響生に持っていかれる。彼のことをぼんやり見ているかなでに、彼がゆっくりと手を伸ばしてきた。熱い頰にそっと大きな手が添えられる。

「……ッ」

 ぴりっとした甘いれが肌を伝って心臓を高鳴らせた。小さく肩が震え、直視されることにとうとう耐えきれなくなったかなでは、俯くことで彼の視線から逃げる。何をされるかわからなくて、近づいてくる気配に目を閉じて身体を硬くした。

「あんまり、かわいいことをしないでもらえるかな」

 そのとき、かなでの顎に響生の指が触れる。不意にくいっと顔を上げさせられた瞬間、かなでは驚きに目をった。


「──俺も、できた男じゃないんだよ?」


 優しい王子さまなんて、嘘だ。笑顔で獲物を引き寄せて、その魅惑の瞳で動けなくさせる美しい獣がそこにはいた。普段、欲情という言葉を微塵も感じさせない草食動物の皮をかぶっていた彼が、肉食動物のように微笑む。

「あんまり素直でかわいいと、……その唇を塞ぎたくなるな」

 安堵を与える声が、急にオンナを誘う艶やかな甘い響きに変わった。彼の低くて甘い声がすぅっとかなでの身体に沁みこんで、その場から動けない。吐息が触れ合うほど近くに響生がいて、心臓の鼓動ははちきれんばかりだ。恥ずかしさから涙さえんでくる。それでも、誘惑に負けて自分から唇を乞うことはしなかった。

「……じょ、……だんは、やめてください」

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