コイウタ 憧れ部長の極甘ラブレッスン

伽月るーこ

叙唱《レチタティーヴォ》 (1)


第一楽章

叙唱《レチタティーヴォ》



「わぁ……!」

 高槻かなでは、頭上に広がる夜空を見上げて感嘆の声を漏らす。煌々と光る一等星の輝きを前に、不思議な感動が胸に広がった。星の名前や星座を知らなくても、都会の中心で綺麗に星が見えるという事実に心を動かされているのかもしれない。なにげない日常に隠された幸せを見つけられたような気がして、思わず口元がんだ。今にも歌い出したい気持ちに駆られたが、いつまでもこうしていたらめまいを起こしてしまう。そう思い、名残惜しくはあったが視線を遠目に見えるライトアップされた高層ビル群に移した。人工的な明かりを前に、もう星空が恋しくなった。

 ここは、株式会社Nサウンド──かなでの勤めている会社の屋上だ。住所は首都圏内になっているが、にぎやかな高層ビル群から少し離れた場所にある。周囲にビルがないおかげで、こんなにも星が綺麗に見えることに気づいたのは、つい最近だった。

 ──就職して二年も経てば、業務に慣れが出てくる。かなでもそうだった。慎重さがなくなり、慣れという傲慢から簡単なミスで業務がずれ込み、必然的に残業という選択を余儀なくされる。それが何回か続いて自分に対して疑問を持ち始めたとき、小さな幸せと出会った。かなでが気分転換がてら屋上に向かうと、いつもと違う景色を見せる夜の世界が広がっていたのだ。それ以来、夜の屋上はかなでのお気に入りの場所になっている。

「……」

 街の明かりさえあれば道を歩くのに不便はない。しかし、上を見ることを忘れがちになる。かなでがこの場所を見つけたときには、言葉にならない感動があった。この美しい星空に気づくまでの日々が、とてももったいなく感じるほどに。

 に両腕を預けたかなでは、星空と街のコントラストをぼんやり眺める。元気になるために秘密の場所へきたというのに、せっかく明るくなった気持ちがもう暗くなり始めていた。

 生ぬるい夜風がを撫でていく。

 風に身をゆだねて細く輝く月の光を浴びていると、自然に唇が旋律を紡ぎ始めた。

 くちずさんだのは、大好きな映画の曲だ。高校時代に所属していた合唱部でこの歌と出会い、一人、音楽室で歌っていた日々を思い出す。決して楽しいばかりじゃない思い出に心は痛むが、それでも歌を止めることはしなかった。

 くちずさんでいた声と頭に流れる伴奏が大きくなると、次第に身体が歌う姿勢になっていく。背筋が伸び、預けていた両腕は歌いやすいように自由になり、足に力を入れて身体を響かせるようにお腹の底から声を出す。夜空にとけていく声は誰の耳に入ることもなく、星々の輝きがスポットライトのように静かに降り注ぐだけ。歌い終わるのが惜しいくらいにとても気持ちのいい、最高のステージだった。

 いつもなら、これで気分転換は終わりになる。──が、今日に限って今までかなでが歌っている間、一度も開いたことのないドアからかすかに音が聞こえた。すぐに歌うことをやめ、ドアを確認するために振り返る。誰かによって開かれようとしているドアを見ながら、かなでは咄嗟に隠れる場所がないかを探した。しかし、人工芝が敷き詰められた屋上にはいくつかのベンチと休憩場所として設けられた東屋ぐらいしかない。悩んでいる間にもドアは開かれ、かなでは思わずその場にしゃがみこんで目を瞑った。ベンチで隠れて見えませんように、と祈りながら。

「──今、歌っていたのは君?」

 ほんの少し甘みを帯びた低い声が耳に届く。

 祈りが届かなかったことに落胆しながらも、かなではゆっくりとまぶたを押し上げてベンチ越しに横目で入り口を見た。薄暗いそこからこちらに向かって歩く声の主が、東屋に設置されているライトの明かりに照らされる。

「……中村部長……!?

 人事部部長の中村響生だった。

 中村人事部長と言えば、大手音楽関連企業のトップと言われる親会社、中村グループ代表取締役社長の一人息子だ。先代の祖父がイタリア系アメリカ人だったため、その容姿を孫の中で唯一受け継いでいる──黒髪碧眼の御曹司。

 会社では、その容姿から〝王子さま〟と密かに呼ばれていた。

 切れ長のい目、すっと伸びた鼻筋、甘そうに見える唇はさほど日本人離れを感じさせない、いい意味でバランスの取れた顔立ちをしている。高身長のわりには線が細く、見る者を引きつけ、女性社員たちの間では『一度は恋に落ちる』と言われるほどだ。しがない事務員であるかなでの耳に入るほどだから、よっぽどのことである。

 噂から入ったかなでも少なからず彼に憧れを抱いているうちの一人だった。

 どんなに望んでも手の届かない王子さまは、かなでの中で〝お伽話に出てくる王子さま〟として認識されていた。そんな彼から話しかけられるなんて、まるで都合のいい夢を見ているような気分だった。

「君は……、高槻かなでさん、だよね」

 さすが人事部長、顔と名前を覚えるのが仕事なだけはある。妙に納得しながらも、自分の名前を言われたことに内心驚いていた。

 というのも、かなではよく素朴な顔だと言われる。悪く言えば、どこにでもいる顔だ。ダークブラウンの長い髪の毛に、くりっとした茶色の瞳、少しぽってりした唇をしているが特別かわいいわけでもなく、特別美人でもない。素朴な雰囲気というか、影が薄いというか、その他大勢というか。オフィスで一人残業をしている際に、見回りの警備員に気づかれず電気を消されることが何度かある程度の存在感だ。特別目立った特徴がないのに、フルネームで覚えてくれていた彼の細やかな気遣いに心があたたかくなった。

「高槻さん……?」

 斜め上から声が聞こえて、慌てて振り仰ぐ。

 彼は高そうなブラックスーツに身を包んで、ベンチの背もたれから前にいるかなでを覗き込むように身を乗り出していた。

「……はい」

 憧れの王子さまを目の前にしての緊張からか、恐る恐るといった様子で響生を見つめる。

「そんなに緊張しなくても怒ったりしないから大丈夫だよ?」

「……」

「いい子だから、出ておいで」

 緊張が相手にも伝わったのだろうか、響生は優しく微笑みかけてくれた。その笑顔に、心が蕩ける。話しかけてもらえただけでも嬉しいのに、優しくされたらもっと心臓が大きな音を立てた。

「出てきたら、さっきの歌のことを──」

 そう言いかけて彼は口を閉ざす。何かに耳をすませている様子に、かなでも同じように耳を傾けた。完全に閉まっていないドアから、かすかだが足音が聞こえる。その音に気づいた瞬間、響生はしゃがみこんでいるかなでのほうに回り込み、その手を取った。

「こっち」

 言うなり、無理やり立たせて走り出す。そして東屋のライトが当たらない、かつ、踊り場の部分だけ出っ張っている出入り口の陰に隠れた。──かなでをその腕に抱きしめて。

「あの」

「しっ」

 ぎゅっと抱きしめられた際に生じた衣擦れの音で、心臓の鼓動が加速する。こんなに密着していたら心臓の音が相手に伝わってしまうのではないか。どうすることもできない胸の鼓動に、目を閉じることで落ち着こうとするかなでに対し、壁に寄りかかる響生は、そんなことなど気にせず息を潜めている。しかし、かなでの乙女心とは逆に、現実はロマンティックとはかけ離れたところで動いていた。

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