この恋が罪になっても お義兄ちゃんと私

桜舘ゆう

第一章 望んでいた再会と、望んでいなかった現実 (2)

 何でもないことのようにさらりと告げた彼に、莉央は驚きを隠せなかった。

「え? 決まっていたって……」

「君が父の恋人の娘ってことは、最初から知っていたよ」

「……最初……から、知っていたんですか?」

 初めから知っていたと、あまりにあっさり告げてくる彼に衝撃を覚えてしまう。

「あのときは、恋人の娘さんだから、親父がうるさかったなぁ。逐一報告しろって」

(恋人の娘……あのときから、ママと先生のお父さんは……)

 彼女が俯いて黙ってしまうと、瑛史が心配そうに覗き込んでくる。

「ああ、ごめん、成績のことだとか、莉央ちゃん自身がどうだったかは報告してないよ。ただ、僕の行動を報告していただけで」

(先生の行動って……どんなふうに接したかの報告? 私に優しくしてくれたのは……先生の意思じゃなくて、そうしろって言われていたからなの?)

 瑛史の美しい唇から漏れる言葉のどれもが、心を突き刺す薔薇ののようだった。

 彼が莉央を親の恋人の娘だと知っていて、それを何も言ってくれなかったこと。

 親の恋人の娘だと知っていたからこそ、瑛史が優しくしてくれたということ。

 そして、優しくしてくれたことすら、彼の意思ではなかったかもしれないという事実に、莉央の心は深く傷ついていた。

 まるで兄のように優しい人だと感じたのは、まさに彼がそう接していたのだから当然だった。

 これから家族になると知っていたから、自分に対して意図的に親切にしてくれたのではないかと思えた。

 妹になる人間だからこそ、彼は甘やかすような態度をとっていたのだと知らされてしまえば胸が痛む。向けられていた優しさが、特別なのではないかと少しだけ勘違いをし、その結果、彼に恋をした。自分がそんな目で彼を熱く見ていたことが陳腐に思えてならなくて、恥ずかしさと悲しさで消えてしまいたいと思えた。

 黙り込む莉央に気がついた瑛史は、話題を変えるように「随分、髪が伸びたんだね」と言って微笑む。

 腰まであるやや茶色がかった彼女の髪は、当時は肩につくくらいの長さだった。

 彼の指摘に苦笑をする。

「先生、私は……三年前の私じゃないです」

 彼女の返事に彼はふっと笑い、頭を撫でてくる。

 三年前であったなら、こうして瑛史に頭を撫でられるのもまるで心が撫でられているようにくすぐったくて嬉しかったのに、今は悲しくなってしまう。優しくしてくれた理由が瑛史の好意からではないと判ってしまったから、今はもう優しくされても悲しくなるだけだった。

「……莉央」

 急に呼び捨てにされて、莉央の小さな肩がひくりと跳ねる。

 おそるおそる見上げると、瑛史は柔らかく微笑んでみせた。

「そろそろ戻るか。それとも、まだ見ている?」

 ずっと彼ばかりを見ていたから「まだ見ている?」と、訊ねられて思わず頰を赤らめてしまう。

 だけど、ふいっと彼が移した視線の先にある薔薇の花を見て、きっかけはどうであれ、瑛史が庭園の薔薇を見せる為に連れてきてくれたことを思い出した。

「もう少しだけ、見ていてもいいですか?」

 莉央の返事に、彼は微笑み頷いた。

 ぼんやりしていて見ていなかった庭園の薔薇を見る時間が欲しかった。

 真紅の薔薇の花びらが艶やかに輝いている様子を見ながら、彼女は微笑む。

「綺麗ですね、この庭園」

「気に入った?」

「はい。薔薇は好きなので」

「だと思った。莉央は綺麗なものや、可愛らしいものが好きだものね」

 鮮やかに微笑む彼に、胸が射貫かれたような思いがした。

 昔、家の隅に置いてあったペンギンのぬいぐるみを見て「可愛いねぇ、ペンギンが好きなんだ?」と言って、子供扱いをして笑ったときの彼の優しい表情が、鮮やかに思い出された。

 あのとき……莉央は彼に「綺麗なものや、可愛らしいものが好き」という話をしていた。

 些細な出来事だったが、もしかしたらそれを彼が覚えているのかもしれないと考えてしまえば、恋心に胸が切なくなってしまう。

「この奥にも、違う種類の花がある。おいで」

 そう言って、彼はごくごく自然に手を差し伸べてきて、躊躇しながらも莉央は応じた。

 初めて繋いだ手。

 掌の温もりや、莉央の小さな手を包んでしまえるほどの手の大きさを感じれば、恋の迷路でさまよわされる。

 けれど──。

『先生。私のこと、少しは好きでいてくれた?』

 次に彼と出逢ったときには、冗談めかしてでも聞いてみたかった言葉は、もう永遠に言えなくなってしまった。

 薔薇の香りを鼻腔に感じると、彼女はふと気付く。

 昔はふわりと香ってきた煙草の匂いが、彼の身体からしなくなっていて、莉央はそのことを瑛史に訊ねた。

「先生は、煙草をやめたんですか?」

「え?」

 不思議そうな表情をして彼が見つめてくるから、苦笑いをする。

「私の前では吸わなかったですけど、昔は吸っていましたよね? でも、今は先生からは煙草の香りがしないから、吸わなくなったのかなって思ったんですけど」

「ああ、ごめん。そんなに俺の煙草の匂いが気になっていた?」

「い、いいえ、気にはなってなかったですよ」

「女ってそういうところ鋭いな。おまえは、まさか吸ってないよね?」

 ──おまえ。と彼に言われて先ほど名前を呼び捨てされたときのように、肩が小さく跳ねた。

「わ、私は、だって、まだ……吸ったら駄目な年齢……」

 しどろもどろになっている莉央の首筋に、ふいに彼の顔が近づいた。

 その距離があまりに近く、瑛史の唇が肌に触れたのではないかと感じるほどで、頰が赤らんでしまった。

「ん、しないね。煙草の匂い」

「だから、吸ってないって……」

「……煙草はさ」

 彼女の動揺をよそに、何事もなかったように身体をゆっくりと起こしながら瑛史は言う。

「喫煙所を探すとか、なんだか色々と面倒になってやめたんだよね」

 長い前髪を鬱陶しげにかき上げながら瑛史は笑った。

「日本もそうだけど、あっちもなかなか喫煙者に厳しくてね」

「そ、そうだったんですね……あの、聞いてもいいですか」

「ん? 何」

「先生はシリコンバレーの本社に勤務されているんですよね、いつ向こうに戻るんですか?」

 休日を利用してきたと思っていたのでそう訊ねると、彼は笑った。

「あぁ、言ってなかったな。日本支社に配属が変わったんだよ」

「嘘……本当に?」

「本当だよ。嬉しいだろ」

 微笑みながら告げてきた彼の唇の動きや仕種に、莉央は胸が締めつけられるような息苦しさを感じていた。

 彼女が成長した分だけ気付かされる瑛史の色気に、鼓動が速くなっていく。

 胸元を押さえ俯いてしまった莉央を、しげに彼は見る。

「どうかしたか?」

「い、いいえ」

 胸がどきどきしてうるさいと思った。

 彼が自分を呼び捨てにしたり、おまえと呼んだり、彼自身が「俺」と言うのにも、いちいち心臓が跳ねてしまう。

 全身を痺れさせるような甘い感覚に小さく息を漏らすと、瑛史の大きな手が頭にぽんと置かれる。

「喉が渇かない? テラス席で何か飲もうか」

「でも、ママたちのところに戻らないと……」

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