逃がさないよ? ケダモノ外科医、恋を知る

伽月るーこ

第一話 食べてもいい? (3)

「あ、良真でいいよ」

「……じゃあ、良真さんで」

「おっけ。で、君は?」

「………………メイです」

 職場が同じだというのに本名を名乗るばかはいない。芽衣子は笑顔でこれ以上くなと言わんばかりに念を押した。

「メイって呼んでください」

「ふーん。……羊みたいにかわいいと思ったら、本当に羊みたいな名前なんだな」

「え?」

「めぇって、鳴くだろ羊って」

「……それ、冗談で言ってます?」

「いや、かわいがってるだけだろ」

 なんだかからかわれたような気がする。むくれる芽衣子に、良真は笑いながらアクセルを踏んだ。そうして、車を走らせること十五分。

「家、近くなんだ」

 と、言うだけあってすぐに彼の住むマンションに着いた。見るからにおしゃれな外観のデザイナーズマンションだ。胡蝶蘭などが飾ってある高級感溢れるエントランスは、暗証番号でロックを開けるタイプだった。自分の住んでいるところと比べたらいけない、そう思うのだが、物珍しそうに周囲を見てしまう。が、エレベーターが到着する音で我に返った芽衣子は、小さく首を横に振った。そんなことよりも、自分の心配だ、と。各務良真の自宅に行ったなんて知られたら、あの取り巻き連中は目の色を変える、間違いなく。それを想像してゾッとする。往生際悪く、まだここから逃げ出すにはどうしたらいいのかを考えている間に、彼の部屋に着いてしまった。しかも、の良真にお姫さまだっこをされた状態で。

 こんなところを誰かに見られたら、正直終わりだと思う。

「これからうちに入るけど、俺がいいって言うまでは目を閉じててほしいんだ」

「構いませんけど、靴が脱げませんよ?」

「俺が脱がせるから大丈夫。それに、これは俺の気分の問題だから」

 なるほど。確かに、初めて連れてきた女性に部屋の中を見られるのが嫌いな男性もいる。そういった無粋なことは芽衣子も嫌いなので、素直に目をつむった。

 そこから先は耳に入ってくる音で判断することになる。

 カチャカチャ、ガチャ。──鍵を差し込む音に、玄関のドアを開ける音。

 ぱちっ。──これは、電気をける音。

 彼が靴を脱ぎ、片方しかない芽衣子の靴を脱がせたあとは、しばらく歩く音が続く。

 なんだかいろいろな香りが混ざっているような気がしたけれども、身近に感じる良真の香水の香りに包まれているせいか、特別気にはならなかった。

 それから、──なにかしらの浮遊感がした。きっと階段でも上っているのだろう。小学生のとき、うたた寝した自分を父が二階の自室まで運んでくれたときと似たような感覚がした。そもそもマンションの一室で階段があるのは、中二階のある部屋ぐらいだ。目を開けてないからわからないが、たぶんそうだと思う。ずいぶんとおしゃれな部屋に住んでいるんだな、なんて思いながらも、落とされないようにしっかり彼の首にまった。

「……ずいぶんとかわいいな。ここが狼の部屋かもしれないのに」

「悪魔よりも、狼の部屋のほうがまだましですよ」

「言ってくれるね」

 くくく、との奥で笑った良真の足は階段を上り終えたらしい。浮遊感がぴたりとなくなった。再び歩く音が聞こえたら、──ドアノブを回して開く音。まもなく、やわらかなところに下ろされた。

 いまだ素直に目を閉じている芽衣子は、眼前に人の気配を感じて考える。このまま目を閉じておくべきか、それとも身に迫ろうとしている危険を回避するべきか。

 当然、選んだのは後者だ。

「お」

 目前に迫っていた良真の端整な顔が、楽しげにんだ。もう一歩でキスされていたかもしれない距離で。

「何、してるんですか?」

「お姫さまを目覚めさせるには、キスが相場だろ」

 唇を狙っていたことを飄々と告げてくる良真に、にっこり微笑む。

「勝手にキスしたら、今すぐ股間を蹴り上げますよ」

「威勢のいい羊で、食うにはうまそうだ」

 これまた楽しそうにつぶやいた良真の顔が、ぐっと近づいてきた。キスをされるのかと思って顔を背けたら、首筋にくちづけられてそのまま押し倒される。

「きゃっ」

 スプリングのよくきいたベッドの上で、めるように良真の顔を見上げた。にやりと微笑むその顔は、まるで悪魔のようだった。

「なに」

「も、しないよ。言っただろ? 〝心臓よりも高い位置に患部を置くように〟って」

 応急処置が終わったあとに言われたことを思い出した芽衣子を、目の前の男はそれはそれは楽しそうに眺めていた。

「……からかって楽しんでるんですか?」

「ささやかなおかえしだよ。ジュースの」

 正直に言われて、何も言えずに押し黙った。転ぶところを助けてもらい、ジュースを頭からかぶらせ、あまつさえ捻挫の応急処置までしてもらった良真に、文句は言えない。

 警戒心を解いたのがわかったのか、芽衣子の鼻の頭にやわらかな唇をそっと押しつけた良真は、ベッドから起き上がった。

「かわいい子は、どうにもいじめたくなる性質でね」

 これはいじめではない、立派なセクハラだ。

「手を出すの間違いじゃなくて?」

「出してほしければ、俺を誘うといいよ。すぐにころっと落ちるから」

 悪魔のような笑みを浮かべた良真は、芽衣子の寝ている位置を調整する。捻挫をしている右足首の下に大きなクッションを置き、応急処置に使ったハンカチを取って水タオルで綺麗に拭っていく。そして氷囊の代わりにタオルでくるんだ保冷剤を足首に固定した。

「冷やしている間に、俺はシャワーを浴びてくる」

 そう言って寝室から出て行った良真をベッドの上から見送った。男の香りがする部屋で一人になったのは、久しぶりだ。

 しばらく、けたように天井を見上げていた。

 どれだけ時間が経っただろう。知らない間にリラックスしていたのか、よけいな力が抜けて、ベッドに身体が沈みこむ感覚を楽しんでいた。

 次に、大きく息を吐いて頭を左側に傾ける。ベッドに顔を半分めると、良真の香りが鼻をくすぐった。ふと、ここに来る前に言われた『失恋の痛手』という言葉を思い出す。別に男を失ったのは痛くない、痛いのは芽衣子の状況だ。

 ああ、思い出すだけで悔しさで胸が詰まる。──やっぱり、

「一発殴っておけばよかったかな」

 芽衣子に残ったのは、このむしゃくしゃした気持ちだけだった。釈然としない思いを抱えて、泣いてすっきりすることもできない。誰かにもたれかかって泣いたら楽になるのかもしれないが、女を武器にするような真似はしたくなかった。

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