逃がさないよ? ケダモノ外科医、恋を知る

伽月るーこ

第一話 食べてもいい? (2)

「そこまでしていただくわけには……!!

 というか、むしろこの寒空の下でジュースを頭からかぶらせてしまった自分の失態を思い出して、どこから謝ればいいのかわからなくなった。口をぱくぱくさせる芽衣子に、男は視線を合わせてあのけるような笑顔で微笑む。

「じゃあ、君が頭に食らわしてくれたジュースの埋め合わせに、これからの時間を俺にちょうだいよ」

 ぼさぼさ頭の、中途半端にいい男からの口説き文句に目の前がチカチカした。

 もちろんジュースの件は申し訳ないし、転びそうになっていた芽衣子を受け止めて一緒に倒れてくれたこと、それから捻挫の迅速な手当てにはとても感謝している。でも、ここで彼の手を取るのはなんだか嫌だった。

「失恋の痛手に俺を利用してるような気がするから、うんって言ってくれないのかな」

 あたらずといえどもとおからず。思わず男に向かって目を見開く。そんな芽衣子の様子を楽しんでいるかのように、彼は名探偵よろしく芽衣子の隣に座った。

「気合を入れて綺麗にしている女性が、彼氏も連れずに一人で映画館から出てきたら、俺ならまず勘ぐるね。俺の経験上、友達と喧嘩したぐらいじゃここまで気合は入れない。でも、失恋だったら話は別」

「……それで、私は後者だと?」

「カマかけてみたらしっかり動揺してたし、間違ってはないんじゃない?」

 これだからイケメンは。

 思ったことを口に出さず胸中で吐き出した芽衣子は息を吐いた。

「よく人を見ているんですね」

「俺みたいな悪い男は、美人に弱いんだ」

「……そうですか」

「で、俺に持ち帰られてくれる気になった?」

 微笑んだ男に、にっこり微笑む。

「そういうわけにはいかないので、連絡先を教えてください。後日改めてお詫びを」

「今がいい」

「……はい?」

「俺は、今がいい」

「申し訳ありませんが」

「風邪ひきそうなんだ」

 その言葉に笑顔が凍る。寒空の下で氷入りのジュースは水を浴びるよりも嫌だ。身体は冷えるし、なによりも髪の毛がべたつく。背筋に冷たいものが走る芽衣子に、男はニヤリと笑った。

「じゃ、俺のうちで決まりな」

「は? って、ちょっとあの!!

「捻挫の治療もちゃんとしたいからさ」

 何を言っているのか意味がわからない。戸惑いを隠せない芽衣子を突然抱き上げた男が、驚きの一言を放った。

「俺、医者なんだ」

「えぇ!?

 まさかこの胡散臭い男が医者だとは思わず、驚きの声をあげた。その様子に、男が楽しげに笑う。抱き上げられた腕の中で、今までの出来事を思い返してみれば、一般人よりも的確な応急処置を、しかも手際よくこなしていた。芽衣子も似たような職場に勤めているせいか、なおさら違和感を覚えなかったのだろう。

(すごいな……じゃ、ない!!

 今の暴挙を忘れて思わず感心しそうになる気持ちを、慌てて打ち消す。

「下ろしてください!」

「嫌だ」

「おーろーせー!」

「こら、大きな声を出さない。恥ずかしい思いをするのは君のほうなんだよ?」

「ていうか、持ち帰るなら私以外にして!」

「いーやーだ。君がいい」

 ふざけるな。

 耳元で叫ぼうとしたが、強がってもこの足だ。帰るならタクシーだし、今手元に自宅に帰るまでのタクシー代なんて残っていない。やっぱり映画なんて観なければよかった、と後悔が頭をよぎったが、過ぎてしまったことを嘆いても意味がなかった。

 そうやって冷静に考えていたら、抵抗する力も気力もなくなってきた。

「そうそう。捻挫してるんだから、おとなしく医者の言うことをきこうな」

 耳元でかれた声が、なぜか甘く聞こえる不思議。これがいい男の特権なのかと思うと殺意が芽生える。こういう男がいるから、騙される女がいるんだ。彼のような男はどこにだっている。前の職場にもいたし、当然、今の職場にも例外はない。

『若宮ちゃんはうちにきたばかりで知らないと思うけど、あの外科医には気をつけて。イケメンだけど女癖悪いから、名前は──』

 ふと浮かんだのは休日前に忠告をしてくれた先輩の声と、その人物の背中だ。転職したばかりで、当然のことながら、芽衣子は職場全員の顔を覚えていない。そのせいか、なんとなくイケメンと医者という単語に嫌な予感がした。

(まさか……ね)

 そんな偶然、ドラマの中でしかないはずだ。先ほど覚えた違和感も手伝ってか、不安は大きくなる。しかし、もう後戻りはできなかった。パーキングに着いてしまう。

「そういえば、名乗ってなかったね」

 黒のマークXの助手席に芽衣子を乗せた男は、運転席で言った。名前の話題になった瞬間、なぜか嫌な予感が勝った芽衣子は、黙って彼の声に耳を傾ける。同時に、脳内で先輩同僚の声が再生された。

『名前は』


各務良真


『良い子じゃないのに良真、って覚えておくといいよ』

 記憶に残っている名前と、運転席で名乗った男の名前が一致した。

「よろしく」

 その瞬間、院内で看護師に取り巻かれている記憶の中の外科医と、運転席の男の顔が重なった。仕事中はきちんとした格好と髪型をしていたせいか、まさかプライベートがこんなによろよろだなんて誰が想像できるだろう。しかも、院内で見かけたときは眼鏡をかけてなかったせいか、イメージがだいぶ違う。

(騙された!)

 と、思ったときには後の祭りだ。

 転職先である槻野辺病院で、人気のイケメン外科医・各務良真とプライベートで会っていたと噂されたら最後、取り巻きの看護師に何をされるかわからない。

 芽衣子は、自分の職業が管理栄養士でよかったと心から思った。平和に仕事を続けていくにあたって、人間関係のトラブルは避けるに限る。どうでもいいことで職場をくすのだけは、二度とごめんだ。特に女という生き物は『恋愛』が絡むとどうしても面倒なことになる。だったら、はじめから関わらない。そういう意味で、芽衣子は病院内で人気を集める医師の情報については記憶の隅にとどめておく努力をしていた。

 ありがたいことに、彼はまだ芽衣子が同じ院内で働いている管理栄養士だと気づいていない。芽衣子だけが良真のことを知っている状況だ。落ち着いて行動すれば、バレることはないだろう。加えて、モチベーションを上げるために着飾った自分を褒めてやりたかった。普段、とても地味な格好をしているため今日の格好とギャップがある。これで仕事中に気づかれる可能性も低い。

 心の中でガッツポーズを決めた芽衣子は、落ち着いて笑顔を作った。

「各務さん、ですか」

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