レンタル彼氏 初恋はあこがれ上司と

七福さゆり

プロローグ レンタル彼氏 (1)



プロローグ レンタル彼氏



 日曜日の深夜──白の猫足テーブルの上にラベンダーのオイルを垂らしたアロマディフューザーのスイッチを押すと、蒸気とともに優しい香りが六畳の部屋にふんわりと広がった。

 レースの布を敷いた棚の上にはカモミールの他にも、ローズ、グレープフルーツといったさまざまな種類のアロマオイルが置いてある。何気なく集め出したものだったけれど、今ではアロマオイルを集めるのが趣味となって、雑貨屋を見つけるとついつい買ってしまうようになった。今では友達も趣味を知ってくれていて、珍しいものや可愛らしいデザインのものがあると、ありがたいことにプレゼントしてくれる。今日使ったオイルは、友達からの北海道旅行土産だ。

 六畳の部屋には少し大きめの本棚、テーブル、小さなピンク色のテレビ、それにベッドを置いてあるからかなり狭い。けれど、不満はどこにもなかった。幼い頃からごしてきたこの部屋でげるわずかな時間が、社会人になりたての仲村美冬にとって、宝物みたいに大切な時間なのだ。

 髪をサイドでまとめていたパステルピンク色のシュシュをき、本棚から少しくたびれた本を手に取ってベッドにり込むと、ラベンダーの香りに混ざって太陽の匂いがした。今日はとても天気が良かったから、母が干してくれたらしい。

「はぁ、いい匂い……ふわふわ……」

 気持ち良くてこのまま眠ってしまいそうになったけれど、目覚ましをセットしていなかったことを思い出して慌てて飛び起きた。

 危ない……! 明日寝坊したら大変!

 スマートホンで目覚まし機能をセットし、充電器に繋げる。

「これでよし……」

 眠いりながら再び寝ころび、手に持っていた本を開く。

 何年も前に買ったお気に入りの小説──本には恋愛経験ゼロのキャリアウーマンであるヒロインが、ライバル会社の社長に熱烈なアプローチを受けて、情熱的な恋に落ちるという話が描かれているのだ。何度も読み返して結末を知っているのに、ドキドキしてページをめくる手がまらない。

「はぁ、素敵……」

 私もいつかこのヒロインみたいに、素敵な恋に落ちる日がくるのかな……。

 ──できたらいいな……。

 胸に淡い期待を抱いていた美冬は、いつの間にか微睡に飲み込まれていった。


◆◇◆


 完全寝不足になっていた翌日──。

「仲村さーん! さっき頼んだ各書類のコピーって、もうできてる?」

 大量の伝票づくりに集中していると、肩を軽く叩かれた。驚きのあまり『ひゃっ!』と悲鳴を上げてしまった美冬を、男性社員が何事かとキョトンとした表情で見下ろしている。

「あ、ごめん。驚かしちゃった?」

「い、いえ、大丈夫です。……えっと……す、すみません。まだできあがってなくて……っ」

 美冬はものすごい音を立てて早鐘を打つ心臓を服の上から押さえ、慌てて答えた。

「そっか、後どれくらいでできそう?」

 コピーといっても、かなりのだった。急ぎの伝票を先に仕上げなければいけないため、すぐには取りかかれそうにない。

 頼まれたのは、ほんの三十分前のこと。

 急いでいるものではないので、定時までにできあがっていればいいと言われたので引き受けたものだ。

「えっと……」

「もしかして大分時間かかる? 参ったなぁ。もう少し早くできない?」

「あ、あの、急ぎでしたか?」

 もしや聞き間違いをしてしまったのだろうか。あからさまに狼狽しながらねると、眉をめられた。

「ああ、さっきまではね。でも急にすぐ使うことになったんだよ。……あのさ、社会人なら臨機応変にいかないと駄目だよ?」

「あ……す、すみません」

 責めるつもりで言ったわけではない。ただ自分の聞き間違いだとしたら、謝りたかったのだ。

「あー……、もういいから。で、いつできるの? なるべく早くがいいんだけど。あと何分ぐらい? だいたいでいいから教えてよ」

 早口でまくしたてられの中が真っ白になった美冬は、慌てて大分早い時間を告げてしまった。思ったより早く仕上がりそうなことに気をよくした男性社員は、『思ったより早いね。じゃ、よろしくっ!』と、鼻歌交じりにその場を去って行く。

「あ、あの……っ」

 やっぱり訂正しようと呼び止めた美冬の声は、小さ過ぎて届いていない。

 とにかく、早くしなくちゃ……!

 違うと伝えるよりも、やった方がきっと早い。ひとまず伝票作成を保留にして、頼まれた書類を両手に抱えてコピー機へと急いだ。

 ここは都内一等地の高層ビルを拠点とする株式会社サイバーネットフューチャーの本社。美冬は今年の三月に四年制の大学を卒業したばかりの新社会人で、四月から総務課に事務員として採用されたばかりだ。

 入社してから三か月ほどがち、季節は春から夏へと変わった。仕事の要領はだんだん得てきたけれど、どうしても慣れることができないものがある。

 ──それは、男性がいる環境だった。

 サイバーネットフューチャーは、国内に五箇所、海外に三箇所の支部を持ち、主にインターネットメディア・広告事業などに力を入れている会社だ。

 社員の男女比は男性が八割、女性二割と圧倒的に男性の方が多くを占めている環境だというのに、彼女は男性から話しかけられると萎縮してしまうという致命的な悩みを持っていた。

 なぜなら中学から大学まで女子校に通っていたこともあって、異性を変に意識してしまうのだ。

「このままじゃ駄目だよね……」

 恋愛小説やドラマのような恋に憧れながらも、男性と関わることを想像するだけで緊張して冷や汗が止まらなくなり、まともに接することができない。

「あ、あの、コピーでき上がりました」

「ああ、ありがとう」

 先ほど頼まれていたコピーを渡し、無事頼まれごとを終えたことにホッと胸をで下ろす。

 すぐに自分のデスクに戻って伝票作成の続きに入ろうとしたが、自分から男性に話しかけた緊張から指が小刻みに震えてしまい、ミスタイプばかりが目立ってしまう。

 少し話しただけでしょっ……! しっかりして、私!

 こんなことなら、学生時代のうちに勇気を出して男性のいる場に足を運び、少しは慣れる努力をしておくべきだったと、後悔の念に駆られる毎日を送っている。

 ……こんなことじゃ、私が恋をするなんて夢のまた夢だよね。

「仲村」

 震えが治まるのを待っていたら、後ろからよく通るどこかのある低い声が聞こえてきて、心臓が大きく跳ね上がった。

「……っ……!」

 振り向くと総務課長である西園寺総一が、美冬を見下ろすように立っていた。

 彼は美冬の直属の上司で、一番関わる機会が多い男性だ。

 短く整えられた黒髪の下には、鋭い印象を与える切れ長の瞳。眼鏡を支えるのは高く整った鼻梁、薄い唇は一文字に結ばれ、愛想笑いをする様子など微塵も見せない。

 シワ一つないグレーのスーツや、き上げられた黒の革靴を履いた彼は少しも隙がなく、高くびた身長も手伝って他の男性以上の威圧感だ。

「は、はい……」

 できるだけ元気よく返事しようとしたけれど、に何かまってしまったみたいに小さな声しか出てくれない。

「今の作業が終了次第、資料整理を頼む。ここにある書類をデータ化し、共有サーバーにアップしてもらいたいのだが……」

「わか、わかりました……っ」

 差し出された資料を受け取ろうとすると、かすかに総一の指先に触れた。

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