お世話します、お客様! もみじ旅館艶恋がたり

槇原まき

第一話 仲居は顔に紅葉を散らす (3)

「え、あの……どこに行くんですか? わたし、寮に──」

「二人っきりでゆっくり話せるところに行こ? 大丈夫、ちゃんと明日の仕事に間に合うように帰すから」

(そ……そんな……こと言われても……)

 未だに男の人と付き合ったことがないといっても、悠里だってもう二十一歳だ。これでも仲居になって四年。そして、霧島と出会って四年でもある。

 霧島がお客として「もみじ」を訪れるたびに、彼への思いは育っていた。彼が帰ってしまうのが寂しくて、もっと話せたらいいのにと思ったことも一度や二度じゃない。

 だが、いざそれが叶うとなると、悠里は素直に「うん」と頷けなかった。それが簡単にできる性格なら、四年もの間、彼に片想いなんかしていない。

「……で、でも……」

「もしかして……僕のこと、嫌い?」

 しゅん……と子犬が耳を垂らすように、霧島は肩を落としてうな垂れる。そんな彼に向かって、悠里は力いっぱい否定していた。

「いえ! そんなことは絶対にありませんっ!」

 彼を嫌いだなんてありえない。好きで好きで苦しいくらいなのに!

 いつだって優しくて、温かい眼差しを送ってくれていた人。ずっとずっと、霧島に励まされてきた。次に彼に会えるときを楽しみに仕事をやってきた。

 仲居の仕事を続けてこられたのも、彼に会いたいがためだ。

 他の誰も好きになれなかったのは、この胸の中に彼がいたから……

「じゃあ、乗って? ゆっくり話そう?」

 打って変わって笑顔になった霧島に肩を押され、悠里はタクシーの後部座席に乗せられてしまった。

(え? え? ええっ!?

 悠里の戸惑いをよそに、霧島はずいっと隣に座ると、運転手に何事か耳打ちしてタクシーを出させる。

(ええっ!? どこ行くの!?

「ゆっくり話そうね! 僕、一ノ瀬さんに聞きたいことがたくさんあるんだ」

「……き、聞きたいこと……ですか? わたしに?」

(え……なんだろ? 全然わかんない……)

 彼が聞きたいことは何ぞやと、悠里が懸命に心当たりを探しているとき、彼が耳元で囁いてきた。

「──たとえば今日の最初のキスのこととか、ね?」

!?

 ふっと耳の中に温かな息を吹き入れられて驚きに飛び上がると、霧島は窓枠に肘をもたれさせ、に~っと不敵な笑みを浮かべてくる。途端に悠里は慌てふためいた。心当たりがしっかりあるのだ。その「最初のキス」に。

「僕が気が付かないとでも思った? ズルいよ、勝手に僕の唇を奪うなんて」

「……あ、あれは……あれは、ですね……あの……」

 悠里はアワアワと言葉を詰まらせながら、無意味に両手を動かした。

(今それを言うの!? あのときは何も言わなかったのにぃ!? 『事故』なのに!?

 確かに悠里は霧島とキスをした。

 さっきの夜道での濃厚なキスではなく、旅館で、だ。

 ほんの偶然が積み重なった「事故」で、悠里は彼と軽い小さなキスをした。

 悠里も霧島も、その場では何も言わなかったキスだ。

「『事故』だなんて言わないでね。僕はあのときから火を点けられっぱなしなんだから」

「責任取ってね」と笑う霧島に、悠里は声にならない悲鳴を上げた。



 ──数時間前──


「いらっしゃいませ! ようこそ『もみじ』へ!!

 ガラガラと玄関の引き戸が開くのと同時に、暖簾を潜ってきたお客に向かって、流し小花の青い着物を着た仲居たちが一斉に腰を折る。

 その列の中央で顔を上げた悠里は一歩前に進み出ると、入ってきたばかりのお客に近付いて微笑んだ。

「いらっしゃいませ、霧島さま。お待ち申し上げておりました!」

「一ノ瀬さん! 久しぶり。今回もお世話になります」

「お久しぶりです。こちらこそよろしくお願いします」

 霧島の屈託ない笑顔に釣られるように、悠里の頰が薄く色づく。

(わ~もう……相変わらずかっこいい……)

 清潔感のある白いシャツの上にカーキ色のブルゾンを羽織って、スリムなブルージーンズがよく似合うこの男は、霧島聡────

 四年前、部屋付き仲居の実習で悠里が出会った彼は、今は二十五歳の会社員で、一年に三回から四回も宿泊してくれる常連客になっていた。

 もちろん、彼の部屋付き仲居は悠里だ。

 初めて「もみじ」に泊まりに来た霧島の担当になったことがきっかけで、彼は今でも悠里を部屋付き仲居に指名してくれる。

 それは「専属」と言っても差し支えない状態で、悠里にとって霧島の専属仲居を四年も続けていることは、一種の誇りになっていた。

(最初の頃の大ポカを知られているってのが、一番恥ずかしいんだけどね……)

 玄関で霧島を迎えるときには毎回、滑って転んで、彼の胸に思いっきりダイブした四年前の出来事を思い出して、恥じ入ってしまう。穴があったら入りたいとは、まさしくこのことだ。

 あの日は、霧島の接客を終えて裏方に戻ってから、女将に大目玉を食らった。それでもこの仕事を辞めようと思わなかったのは、彼が帰り際に、「また来るよ。そのとき、また担当仲居になって」と言ってくれたからだ。

 そのときは単なる社交辞令かとも思ったのだが、その後、彼は本当に来た。

 そして約束通りに、悠里を自分の部屋付き仲居に指名してくれたのだ。

 それからというもの、半年と間を空けずに来てくれる霧島を、悠里はいつの間にか待ちわびるようになっていた。

「さ、一ノ瀬さん。霧島さまをお部屋にご案内して」

 女将に言われて、悠里は頷きながら霧島が持っていたキャリーケースに手を差し出した。

「お荷物をお持ちします」

「いや、自分で運ぶよ。ありがとう」

「かしこまりました。それではお部屋にご案内させていただきますね。こちらです──」

 悠里が先導するように客室へと続く廊下を歩く。赤い絨毯が敷き詰められた歩き慣れた床は、後ろに彼がいるだけで特別なレッドカーペットのように感じられた。

 伝統的な池泉庭園を囲むように折れた廊下の先には、二階へと続く階段がある。悠里が先にトントントンと階段を上っていると、後ろから霧島が話しかけてきた。

「真っ赤だねー」

「えっ」

 何のことだろうと悠里がくるっと振り返ると、霧島は踊り場の小窓から、中庭の紅葉を眺めているところだった。

「ええ。今が一番の紅葉の見頃なんですよ。もみじ回廊も今夜からライトアップされますしね」

 悠里が我がことのように得意げに言うと、彼はクスッと笑って窓の向こうを指差した。

「あ、一ノ瀬さん。メジロがいるよ」

「え? どこです?」

「ほら、あの右手のもみじの──」

 霧島が指差す先に身を乗り出して見入ったとき、ズルッと階段の縁から足が外れた。

「きゃあああ!?

 悠里の身体が宙を舞い、視界に入ってくる光景の何もかもがスローモーションになる。

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