モトカレは強引上司

伽月るーこ

第一話 はじまりのキス (1)

第一話 はじまりのキス




 ──その雨音を聞いた瞬間、まるで泣いているようだと思った。

 誰もいない教室で、書きかけの日誌から顔を上げて窓の外を眺める。先ほど降り出した霧雨が、いつの間にか小雨に変わっていた。落ちる雫とともにグラウンドに視線を下げると、それでもねばって練習を続けるサッカー部が見える。それをぼんやり眺めながら、傘、持ってくればよかったかな、と思ったが、すぐに、まだ日直の仕事が残ってるし大丈夫か、と気楽に構え、雨音に身をゆだねた。

 しとしと。しとしと。

 なぜだろう。ただ雨の音を聞いているだけなのに、わけもなく切なくなった。

寿々原

 耳を震わす甘い声に、思わず肩がびくりと跳ねる。ゆっくり、校庭から正面に向き直ると、いつの間にいたのか前の席に座る彼と目が合った。栗色の前髪から覗く茶色の瞳。遠くに眺めていた瞳が目の前にあり、息を呑む。

 彼──須藤悠介は、日本に帰ってきたばかりの年上の同級生だ。もともと色素が薄いのか、綺麗な栗色の髪は人の目を引く。加えて端整な顔立ちをしていれば、すぐに興味の的になる。当然、転校初日の彼は、興味津々なクラスメイトたちから質問攻めにあっていた。しかし彼は嫌な顔をひとつもせず、質問にひとつずつ丁寧に答えた。帰国子女だからなのか、それとも生まれ持った性格か、物怖じせず周囲に溶け込んだ彼は、すぐにクラスの人気者となった。そんな彼からの呼びかけに、動揺と緊張が一気に押し寄せる。

「何?」

 緊張をった声は硬く、しかも無愛想だった。一瞬、不快にさせたかもしれないと思ったが、彼はまるで気にした様子を見せることなく笑顔で本題を述べた。

「後夜祭、一緒に踊るヤツってもう決まった?」

 唐突な話題に、言葉が詰まる。彼の言っている後夜祭というのは、文化祭の夜に行われる行事を指しているのだろう。しかし、今はまだ一学期で、文化祭は二学期の後半だ。まだクラスメイトたちから文化祭の〝ぶ〟の字も聞かない時期である。

 ずいぶんと先のことを聞かれ、戸惑いながらも口を開いた。

「……まだだけど」

「じゃ、俺と一緒に踊らない?」

 そう言って、女を魅了する小悪魔のように誘いをかける彼に、戸惑いを通り過ぎて啞然とする。しとしと。しとしと。静寂を取り戻した教室に、再び雨音が響く。しとしと。しとしと。雨音に混じって、彼は妖艶に微笑んだ。今度は、誘惑をその目に秘めて。

「どうかな?」

 心臓が、どくんと大きな音を立てた。まるで魅入られそうになった瞬間、誘惑から逃れるように慌てて目を逸らす。冗談じゃない。人気者の彼と踊れるほど、馬鹿じゃない。それに──。

「か、彼女のいるような人とは踊れません」

 ただでさえ『後夜祭で踊ったカップルは幸せになれる』というベタなジンクスがあるのだから、よけいに彼女持ちの男性と踊る約束はできない。綺麗な彼女がいるのに何を言っているのかと呆れていると、明るい声が教室内に響く。

「ああ、先輩? だいじょーぶ。たぶんその頃には別れてる」

 あっけらかんと答える穏やかではない内容に、思わず視線を彼に戻す。

「だから、俺と踊ってよ。寿々原」

 にっこり微笑んで再度誘惑をしかけてくる彼に、素直にも頰が熱くなった。それでも彼の提案を受け入れるわけにはいかなった。

「嫌」

「どうして?」

「本当に別れてるかわからないし、それに」

 ──どうして私なのか、理由が思いつかない。

 彼の真意を探るべく、茶色の瞳を覗き込む。が、この表情からは何も読み取れなかった。どうしたものかと嘆息すると、彼は何かを察したのか苦笑を浮かべた。

「……迷惑なら、はっきり言っていいから」

 その表情に、心臓を撃ち抜かれるほどの衝撃が走る。

 ころころ変わる表情に流されてはいけない、と心を強く持ち、ゆっくり息を吐いて冷静を装った。

「誘ってくれたのは嬉しいよ。……でも、どうして私なのか理由が欲しいの」

 その返答に、きょとんとした表情をした彼は、次の瞬間には口元を歪ませていた。

「……へぇ? 理由がないとだめなんだ。寿々原はおもしろいね」

 そして、今度は遊び飽きた猫のように顔を背けた。

 彼の興味が自分から逸れたことにほっとして、手元の日誌に視線を落とす。途中まで書いた内容を読み返して、そうだそうだと思い出しながらシャーペンを日誌の上で走らせた。

「──書き終わった?」

 ペンケースにシャーペンをしまったところで声をかけられ、驚いて顔を上げる。日誌を書くことに集中していたせいか、彼の存在を気にしていなかった。

「お、……終わった、けど」

 何? と、続ける前に彼の唇が開く。

「キスしたい」

 なんの脈絡もなく言われた言葉に、ぴたりと時間が止まる。じっと見つめてくる彼の瞳は思いのほか真剣で、時間だけでなく言葉さえも失った。

「寿々原に、キスしたいんだけど」

 まるでそれをするためだけに待っていた、とでも伝えるように、彼は言う。やっと彼の言っている意味を理解しても、心臓がどきどきしてうるさい。何も考えられず、時間だけが過ぎていく中、彼は静かに距離をつめてきた。触れそうで触れない唇、眼前に男の色気を感じさせる彼の顔が近づいてくる。

 今まで見たことのない真剣な表情に、息を呑んだ。

 動けない。動けるはずがなかった。見惚れるように彼の瞳に吸い込まれそうになった瞬間──。

「須藤くーん」

 彼を呼ぶ声で我に返る。慌てて散らばった理性をかき集めて、冷ややかに告げた。

「お迎えがきたみたいね。先輩、あんたのこと呼んでるよ?」

「……みたいだな」

 興をがれた様子で離れていく彼を前に、からかわれたお礼にくすくすと笑ってやる。

「別れるって言ってるわりに、ラブラブじゃない」

 そう言って、日誌を手に席から立ち上がった。彼は、手にしたミルクティーの缶を飲み干して、小さくつぶやく。

「俺は、身代わりだから」

 寂しげに笑ったかと思うと、立ち上がって向き直ったときにはいつもの笑顔を浮かべていた。その笑顔が妙に嘘っぽく見える。

「じゃ、後夜祭は俺と踊るってことで、よろしく」

「は?」

 あまりにも強引な約束の取り付けに驚きを返すが、そこから先は何も言えなかった。首の後ろを手で押さえられ、──唇を、塞がれてしまったから。

「ん、んん……!?

 初めて感じるやわらかな唇は、思いのほか熱い。教室内に響く雨音が、いやらしく耳を震わせる。彼の唇に下唇を挟まれ、舌先で触れられた。ぴりりとした甘い刺激に腰から力が抜けそうになる。その直後、手にした日誌が落ちたのを境に、彼の唇は離れていった。

「これは約束。それと、わかってるだろうけど先輩には内緒な?」

 互いの息遣いが聞こえる距離で、彼はそう言って口角を上げた。落ちた日誌を拾い上げ机の上に置いた彼は、ひらりと舞うように机の間を縫っていく。視界の端で真っ白なワイシャツが教室のドアを閉めたのが見えた。やがて、廊下から「ごめん、待たせた」と待ち人に謝る彼の声を聞きながら、少し湿った唇をそっと指先で撫でてみる。

「レモンの味なんて、……しないじゃない」

 雨が強くなる音に混じって、ぽつりと呟いた。


 しとしと。しとしと。

 ──むせ返るような記憶の中で目覚めた瞬間、涙がれる。

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