「地味で可愛げがない」と婚約破棄された精霊使い、氷の公爵家に拾われる。~今さら戻れと言われても、最強の旦那様が許しません~
第19話 公爵様、元婚約者に氷の視線を向ける
「……で、あるからして、このドレスの裾はあと二センチ長くするべきだ。その方が、アリアが歩くたびに星屑のような輝きが増す」
「ヴァルド様、それだと私が転んでしまいます」
「ならば私が抱えて歩こう」
「却下です」
アイスバーグ公爵邸の応接室。
そこでは、連日のように「聖婚式」に向けた打ち合わせが行われていた。
特に私の衣装に対するヴァルド様のこだわりは凄まじく、王都から避難してきた一流の仕立て屋たちを監禁……もとい、手厚く保護して、不眠不休で作業にあたらせていた。
「アリア、君は私の芸術品だ。妥協は許されない」
ヴァルド様は真剣な眼差しで布地見本を睨んでいる。
その横顔は、魔獣討伐の作戦を立てている時よりも真剣だ。
「お言葉ですが閣下、これ以上重い宝石をつけると、アリア様の首が凝ってしまいます」
「む……それは困る。では、浮遊魔法を付与した軽い宝石を探させろ」
「はっ!」
平和だ。
王都の崩壊や、ベヒモスの襲来といった危機を乗り越え、私たちはようやく穏やかな時間を過ごしていた。
領内の復興も進み、難民たちも新しい生活に馴染み始めている。
ギルバート(元殿下)とミラ(元聖女)も、北の開拓農場で泥にまみれながら、ジャガイモの収穫に精を出しているという報告を受けていた。
「このまま、幸せな式を迎えられるといいのですが……」
私がポツリと漏らすと、ヴァルド様は手を止めて私を見た。
「不安か?」
「いえ、不安というより……嵐の前の静けさのような気がして」
精霊たちが、ここ数日ざわついているのだ。
『なんか来るよ』
『嫌な匂いがする』
『欲深いやつらがこっちに向かってる』
そんな風の噂を運んでくる。
「心配ない。どんな嵐が来ようと、私が凍らせて止めてみせる」
ヴァルド様は私の手を取り、安心させるように口づけを落とした。
「君はただ、世界一美しい花嫁になることだけを考えていればいい」
その時だった。
執事が足早に部屋に入ってきた。その表情は硬い。
「閣下、アリア様。……王都より、使者が到着しました」
「使者? 王家はもう機能していないはずだが」
「はい。ですが、生き残った旧体制派の貴族たちが数名、武装した護衛を引き連れて……そして、開拓農場からギルバート殿下を連れ出したようです」
「ギルバートを?」
ヴァルド様の眉間に深い皺が刻まれる。室温が一気に数度下がった。
「あいつは今、ただの罪人として労役中の身だ。誰の許可を得て連れ出した」
「強引に連れ去ったとのこと。……彼らは『王家の正当なる復権』を掲げ、アリア様との面会を求めています」
「復権、か。……まだ夢を見ている馬鹿がいるようだな」
ヴァルド様は冷たく吐き捨て、立ち上がった。
「通せ。……私の機嫌がいいうちに、現実という氷水をぶっかけてやる」
◇
通されたのは、屋敷の大広間だった。
やってきたのは、豪奢だがどこか薄汚れた服を着た数名の貴族たち。
かつて王都で権勢を振るっていた、宰相補佐や大臣クラスの男たちだ。
彼らは私たちが現れると、傲岸不遜な態度で鼻を鳴らした。
そして、彼らの真ん中に、一人の男が立たされていた。
ギルバート元殿下だ。
ただし、その姿は哀れを誘うものだった。
農場での作業着である粗末な服の上に、無理やり王族のマントを羽織らされ、頭にはサイズの合わない王冠が乗せられている。
髪はボサボサで、頬はこけ、目は落ち着きなく泳いでいる。
「ひぃ……アリア……公爵……」
ギルバートは私たちを見ると、ビクッと体を震わせた。
農場での厳しい指導(主にガストンさんとトマスさんによるスパルタ教育)によって、彼はすっかり「働かざる者食うべからず」の精神と、私たちへの恐怖を叩き込まれていたのだ。
「……何の用だ」
ヴァルド様が玉座(のような椅子)に座り、氷点下の声で問う。
「私の領土で、罪人を勝手に連れ回し、何のつもりだ」
貴族の代表らしき太った男が進み出た。
「お久しぶりですな、アイスバーグ公爵。そしてアリア嬢」
男は慇懃無礼に頭を下げた。
「我々は、憂いているのです。王都の混乱、そして王家の権威失墜を。……このままでは、我が国は近隣諸国に侮られ、侵略の憂き目に遭うでしょう」
「それで?」
「そこで、提案がございます。……国を救った英雄であるアリア嬢が、王家に戻り、ギルバート殿下と婚姻を結ぶのです」
会場の空気が凍りついた。
私は我が耳を疑った。
この人たちは、何を言っているの?
「は?」
ヴァルド様から、どす黒い殺気が漏れ出す。
しかし、男は気づかないふりをして続けた。
「アリア嬢の『聖女』としての人気と、ギルバート殿下の『王家の血筋』。この二つが合わされば、民衆も納得し、国は再び一つにまとまるでしょう。公爵閣下には、そのための後見人となっていただきたい」
「……本気で言っているのか?」
私が口を開くと、男はニヤリと笑った。
「もちろんですとも。アリア嬢にとっても悪い話ではありますまい? 辺境の公爵夫人よりも、王妃となる方が、女としての幸せでしょう。かつての婚約者とヨリを戻せるのですから」
彼らは本気で信じているのだ。
女の幸せ=王妃になること。
そして、私がまだギルバートに未練があり、王家に憧れていると。
時代錯誤も甚だしい。
「……おい、ギルバート」
ヴァルド様が、低い、地を這うような声で元殿下を呼んだ。
ギルバートが「ひいっ!」と飛び上がる。
「お前も、そう思っているのか? アリアと結婚したいと?」
ヴァルド様の瞳は、絶対零度のアイスブルーに輝いている。
背後には、怒り狂った氷の精霊王(仮)だけでなく、私の配下の精霊たちまでもが殺気立って集結していた。
『燃やす? ねえ燃やす?』
『凍らせて粉々にする?』
『埋める?』
物騒な相談が聞こえてくる。
「ち、ちが……! 僕は……!」
ギルバートはガタガタと震え、首を激しく横に振った。
「僕は、ただ……ジャガイモの収穫をしていただけなんだ! そしたらこいつらが来て、無理やり連れてこられて……!」
「殿下! しっかりなさいませ!」
太った貴族がギルバートの背中を叩いた。
「ここでアリア嬢を説得できれば、あなたは王になれるのですよ! 泥まみれの生活から抜け出し、再び贅沢な暮らしができるのです!」
「贅沢……」
その言葉に、ギルバートの目が一瞬揺らいだ。
農場での生活は過酷だ。温かい食事とふかふかのベッドへの未練がないと言えば嘘になるだろう。
彼はチラリと私を見た。
「ア、アリア……」
彼は縋るような目を向けた。
「もし……もし僕たちが結婚したら……また、昔みたいに……?」
その浅はかさに、私は溜息をついた。
「昔みたいに、私があなたの世話をして、あなたが他の女性と遊んでいる間に、私が国を支える。……そんな生活に戻りたいと?」
「う……い、いや、今度は大事にするよ! ミラとは別れるし、君だけを……」
「お断りします」
私はきっぱりと告げた。
「私は、今の生活に満足しています。泥にまみれても、自分の手で何かを育てる喜びを知っている今のあなたの方が、以前の着飾っていただけのあなたより、まだ人間らしくてマシだと思っていましたけれど……失望しました」
「あ……」
ギルバートは私の言葉に打ちのめされたように項垂れた。
「聞いたな」
ヴァルド様が立ち上がった。
その瞬間、大広間の床が一気に凍結し、貴族たちの足元まで氷が迫る。
「私の妻を侮辱し、さらには私の目の前で口説くとは……万死に値する」
「な、なんだこの魔力は……!」
「ひぃっ、足が凍る!」
貴族たちが悲鳴を上げる。
「き、貴様! 我々は王家の使者だぞ! 公爵風情が逆らう気か!」
「王家? そんなものはとうに崩壊した」
ヴァルド様は冷酷に見下ろした。
「今のこの国を支えているのは、アリアの加護と、私の武力、そして領民たちの汗だ。……何もせず、甘い汁だけを吸おうとする寄生虫に、席など用意されていない」
「ぐぬぬ……! ならば、力ずくでも!」
太った男が合図をすると、背後に控えていた護衛の兵士たちが剣を抜いた。
「アリア嬢を確保しろ! 人質にすれば公爵も手が出せまい!」
愚かだ。
あまりにも愚かすぎる。
大陸最強の氷魔法使いの住処で、剣を抜くなんて。
「……凍れ」
ヴァルド様が指を鳴らした。
ただ、それだけ。
パキィィィィン!!
甲高い音が響き渡り、次の瞬間、兵士たちは氷像と化していた。
剣を振り上げたポーズのまま、カチコチに凍りついている。
「な……!?」
貴族たちは腰を抜かした。
「え、詠唱もなしに……!?」
「化け物だ……!」
「次は誰だ? アリアを『確保』したいと言ったのは」
ヴァルド様がゆっくりと階段を下りてくる。
その一歩ごとに、床の氷が貴族たちの方へ侵食していく。
「私の妻に指一本でも触れてみろ。……その指先から魂ごと凍らせて、永遠の氷獄で砕け散る苦痛を味あわせてやる」
その視線は、まさに「氷の公爵」の名の通り、一切の慈悲を含まない絶対的な捕食者のものだった。
貴族たちは恐怖のあまり失禁し、這いつくばって命乞いを始めた。
「お、お助けをー!」
「出来心だったのです!」
「許してくれぇぇ!」
「失せろ。……二度と私の視界に入るな」
ヴァルド様が手を振ると、突風が巻き起こり、貴族たちを扉の外へと吹き飛ばした。
彼らは雪の中に転がり、這々の体で逃げ去っていった。
残されたのは、私たちと、そしてギルバートだけ。
彼は王族のマントを引きずりながら、床にへたり込んでいた。
足元まで迫った氷に怯え、ガチガチと歯を鳴らしている。
「あ……あぅ……」
ヴァルド様がギルバートの前に立った。
ギルバートは見上げることもできず、ただ震えている。
「……ギルバート」
「ひぃっ! ご、ごめんなさい! 殺さないで!」
「殺しはしない。アリアが悲しむからな」
ヴァルド様は氷のように冷たい声で告げた。
「だが、お前には失望した。農場での労働で少しはマシになったかと思ったが、甘い汁の誘惑にこうも簡単に乗るとはな」
「だ、だって……辛かったんだ……寒くて、腹が減って……」
「それが生きるということだ」
ヴァルド様は厳しく言い放った。
「アリアは、実家で冷遇されていた時も、王都を追放された時も、決して腐らず、自分の足で立ち、周りを助けてきた。……お前には、その爪の垢ほど骨気もないのか」
ギルバートは言葉を失い、涙をこぼした。
自分の弱さと、甘え。それを突きつけられ、返す言葉もなかったのだろう。
「……連れて行け」
ヴァルド様が執事に命じる。
「農場へ戻せ。ただし、今後は監視を厳重にし、ノルマを倍にしろ。……自分の食い扶持くらい、自分で稼げるようになるまで、二度とここへは入れるな」
「は、はい……」
ギルバートは抵抗しなかった。
騎士に両脇を抱えられ、引きずられていく。
去り際に、彼は一度だけ振り返り、私を見た。
「……アリア。……ごめん」
その言葉は、初めて彼の本心から出た謝罪のように聞こえた。
王冠は床に転がり落ち、虚しく音を立てた。
◇
「……やれやれ。不愉快な茶番だったな」
ヴァルド様が溜息をつき、私の方へ向き直る。
その表情は、先ほどの冷酷さから一転して、心配げなものに変わっていた。
「アリア、怖くなかったか? あんな連中に詰め寄られて」
「いいえ。ヴァルド様がいてくださいましたから」
私は微笑んだ。
「それに、ギルバート様のあんな情けない姿を見たら……怒る気力も失せてしまいました」
「フン。あいつには一生かかってもアリアの爪先にも届かんよ」
ヴァルド様は私を抱き寄せた。
「だが、一つだけ懸念がある」
「懸念?」
「あの貴族たちが言っていたことだ。……『王家の正当な復権』。彼らのような旧体制派がまだ残っているということは、王都の地下には、まだ何かが燻っている可能性がある」
ヴァルド様の勘は鋭い。
精霊たちも、まだざわつきを止めていないのだ。
『まだ終わってないよ』
『黒いのが残ってる』
『王様の執念が、変なものを呼んでる』
拘束されたはずの国王オスカー。
彼は確かに力を失ったはずだが、その歪んだ執着心は、まだ消えていないのかもしれない。
そして、あの「黒い石」――ミラが持っていた禁忌の魔道具。
あれの出処も、まだはっきりとしていないのだ。
「……ヴァルド様。警戒を強めた方がいいかもしれません」
「ああ。式までは気を抜かないことだ」
ヴァルド様は私の額にキスをした。
「君との結婚式を邪魔する者は、神でも悪魔でも許さん。……最高の式にするために、最後の掃除が必要かもしれん」
「掃除、ですか?」
「ああ。徹底的にな」
彼の瞳の奥で、青い炎が揺らめいた。
元婚約者への氷の視線は、次なる敵への宣戦布告へと変わっていた。
その夜。
北の開拓農場に戻されたギルバートは、泥だらけのベッドで一人、泣いていた。
「……やるしかないんだ。もう、誰も助けてくれない」
彼は震える手で、ポケットの中に隠し持っていた「ジャガイモ」を握りしめた。
それは、今日、彼が初めて自分の手で掘り当てた、小さな小さな収穫物だった。
貴族たちに連れ出される直前、無意識にポケットに入れていたものだ。
「……これ、美味いのかな」
彼は泥を拭い、生のままかじった。
土の味がした。えぐみもあった。
でも、なぜか涙が出るほど、懐かしい味がした。
元殿下の本当の更生は、ここから始まるのかもしれない。
そして私たちもまた、最後の試練へと向かおうとしていた。
続く
「ヴァルド様、それだと私が転んでしまいます」
「ならば私が抱えて歩こう」
「却下です」
アイスバーグ公爵邸の応接室。
そこでは、連日のように「聖婚式」に向けた打ち合わせが行われていた。
特に私の衣装に対するヴァルド様のこだわりは凄まじく、王都から避難してきた一流の仕立て屋たちを監禁……もとい、手厚く保護して、不眠不休で作業にあたらせていた。
「アリア、君は私の芸術品だ。妥協は許されない」
ヴァルド様は真剣な眼差しで布地見本を睨んでいる。
その横顔は、魔獣討伐の作戦を立てている時よりも真剣だ。
「お言葉ですが閣下、これ以上重い宝石をつけると、アリア様の首が凝ってしまいます」
「む……それは困る。では、浮遊魔法を付与した軽い宝石を探させろ」
「はっ!」
平和だ。
王都の崩壊や、ベヒモスの襲来といった危機を乗り越え、私たちはようやく穏やかな時間を過ごしていた。
領内の復興も進み、難民たちも新しい生活に馴染み始めている。
ギルバート(元殿下)とミラ(元聖女)も、北の開拓農場で泥にまみれながら、ジャガイモの収穫に精を出しているという報告を受けていた。
「このまま、幸せな式を迎えられるといいのですが……」
私がポツリと漏らすと、ヴァルド様は手を止めて私を見た。
「不安か?」
「いえ、不安というより……嵐の前の静けさのような気がして」
精霊たちが、ここ数日ざわついているのだ。
『なんか来るよ』
『嫌な匂いがする』
『欲深いやつらがこっちに向かってる』
そんな風の噂を運んでくる。
「心配ない。どんな嵐が来ようと、私が凍らせて止めてみせる」
ヴァルド様は私の手を取り、安心させるように口づけを落とした。
「君はただ、世界一美しい花嫁になることだけを考えていればいい」
その時だった。
執事が足早に部屋に入ってきた。その表情は硬い。
「閣下、アリア様。……王都より、使者が到着しました」
「使者? 王家はもう機能していないはずだが」
「はい。ですが、生き残った旧体制派の貴族たちが数名、武装した護衛を引き連れて……そして、開拓農場からギルバート殿下を連れ出したようです」
「ギルバートを?」
ヴァルド様の眉間に深い皺が刻まれる。室温が一気に数度下がった。
「あいつは今、ただの罪人として労役中の身だ。誰の許可を得て連れ出した」
「強引に連れ去ったとのこと。……彼らは『王家の正当なる復権』を掲げ、アリア様との面会を求めています」
「復権、か。……まだ夢を見ている馬鹿がいるようだな」
ヴァルド様は冷たく吐き捨て、立ち上がった。
「通せ。……私の機嫌がいいうちに、現実という氷水をぶっかけてやる」
◇
通されたのは、屋敷の大広間だった。
やってきたのは、豪奢だがどこか薄汚れた服を着た数名の貴族たち。
かつて王都で権勢を振るっていた、宰相補佐や大臣クラスの男たちだ。
彼らは私たちが現れると、傲岸不遜な態度で鼻を鳴らした。
そして、彼らの真ん中に、一人の男が立たされていた。
ギルバート元殿下だ。
ただし、その姿は哀れを誘うものだった。
農場での作業着である粗末な服の上に、無理やり王族のマントを羽織らされ、頭にはサイズの合わない王冠が乗せられている。
髪はボサボサで、頬はこけ、目は落ち着きなく泳いでいる。
「ひぃ……アリア……公爵……」
ギルバートは私たちを見ると、ビクッと体を震わせた。
農場での厳しい指導(主にガストンさんとトマスさんによるスパルタ教育)によって、彼はすっかり「働かざる者食うべからず」の精神と、私たちへの恐怖を叩き込まれていたのだ。
「……何の用だ」
ヴァルド様が玉座(のような椅子)に座り、氷点下の声で問う。
「私の領土で、罪人を勝手に連れ回し、何のつもりだ」
貴族の代表らしき太った男が進み出た。
「お久しぶりですな、アイスバーグ公爵。そしてアリア嬢」
男は慇懃無礼に頭を下げた。
「我々は、憂いているのです。王都の混乱、そして王家の権威失墜を。……このままでは、我が国は近隣諸国に侮られ、侵略の憂き目に遭うでしょう」
「それで?」
「そこで、提案がございます。……国を救った英雄であるアリア嬢が、王家に戻り、ギルバート殿下と婚姻を結ぶのです」
会場の空気が凍りついた。
私は我が耳を疑った。
この人たちは、何を言っているの?
「は?」
ヴァルド様から、どす黒い殺気が漏れ出す。
しかし、男は気づかないふりをして続けた。
「アリア嬢の『聖女』としての人気と、ギルバート殿下の『王家の血筋』。この二つが合わされば、民衆も納得し、国は再び一つにまとまるでしょう。公爵閣下には、そのための後見人となっていただきたい」
「……本気で言っているのか?」
私が口を開くと、男はニヤリと笑った。
「もちろんですとも。アリア嬢にとっても悪い話ではありますまい? 辺境の公爵夫人よりも、王妃となる方が、女としての幸せでしょう。かつての婚約者とヨリを戻せるのですから」
彼らは本気で信じているのだ。
女の幸せ=王妃になること。
そして、私がまだギルバートに未練があり、王家に憧れていると。
時代錯誤も甚だしい。
「……おい、ギルバート」
ヴァルド様が、低い、地を這うような声で元殿下を呼んだ。
ギルバートが「ひいっ!」と飛び上がる。
「お前も、そう思っているのか? アリアと結婚したいと?」
ヴァルド様の瞳は、絶対零度のアイスブルーに輝いている。
背後には、怒り狂った氷の精霊王(仮)だけでなく、私の配下の精霊たちまでもが殺気立って集結していた。
『燃やす? ねえ燃やす?』
『凍らせて粉々にする?』
『埋める?』
物騒な相談が聞こえてくる。
「ち、ちが……! 僕は……!」
ギルバートはガタガタと震え、首を激しく横に振った。
「僕は、ただ……ジャガイモの収穫をしていただけなんだ! そしたらこいつらが来て、無理やり連れてこられて……!」
「殿下! しっかりなさいませ!」
太った貴族がギルバートの背中を叩いた。
「ここでアリア嬢を説得できれば、あなたは王になれるのですよ! 泥まみれの生活から抜け出し、再び贅沢な暮らしができるのです!」
「贅沢……」
その言葉に、ギルバートの目が一瞬揺らいだ。
農場での生活は過酷だ。温かい食事とふかふかのベッドへの未練がないと言えば嘘になるだろう。
彼はチラリと私を見た。
「ア、アリア……」
彼は縋るような目を向けた。
「もし……もし僕たちが結婚したら……また、昔みたいに……?」
その浅はかさに、私は溜息をついた。
「昔みたいに、私があなたの世話をして、あなたが他の女性と遊んでいる間に、私が国を支える。……そんな生活に戻りたいと?」
「う……い、いや、今度は大事にするよ! ミラとは別れるし、君だけを……」
「お断りします」
私はきっぱりと告げた。
「私は、今の生活に満足しています。泥にまみれても、自分の手で何かを育てる喜びを知っている今のあなたの方が、以前の着飾っていただけのあなたより、まだ人間らしくてマシだと思っていましたけれど……失望しました」
「あ……」
ギルバートは私の言葉に打ちのめされたように項垂れた。
「聞いたな」
ヴァルド様が立ち上がった。
その瞬間、大広間の床が一気に凍結し、貴族たちの足元まで氷が迫る。
「私の妻を侮辱し、さらには私の目の前で口説くとは……万死に値する」
「な、なんだこの魔力は……!」
「ひぃっ、足が凍る!」
貴族たちが悲鳴を上げる。
「き、貴様! 我々は王家の使者だぞ! 公爵風情が逆らう気か!」
「王家? そんなものはとうに崩壊した」
ヴァルド様は冷酷に見下ろした。
「今のこの国を支えているのは、アリアの加護と、私の武力、そして領民たちの汗だ。……何もせず、甘い汁だけを吸おうとする寄生虫に、席など用意されていない」
「ぐぬぬ……! ならば、力ずくでも!」
太った男が合図をすると、背後に控えていた護衛の兵士たちが剣を抜いた。
「アリア嬢を確保しろ! 人質にすれば公爵も手が出せまい!」
愚かだ。
あまりにも愚かすぎる。
大陸最強の氷魔法使いの住処で、剣を抜くなんて。
「……凍れ」
ヴァルド様が指を鳴らした。
ただ、それだけ。
パキィィィィン!!
甲高い音が響き渡り、次の瞬間、兵士たちは氷像と化していた。
剣を振り上げたポーズのまま、カチコチに凍りついている。
「な……!?」
貴族たちは腰を抜かした。
「え、詠唱もなしに……!?」
「化け物だ……!」
「次は誰だ? アリアを『確保』したいと言ったのは」
ヴァルド様がゆっくりと階段を下りてくる。
その一歩ごとに、床の氷が貴族たちの方へ侵食していく。
「私の妻に指一本でも触れてみろ。……その指先から魂ごと凍らせて、永遠の氷獄で砕け散る苦痛を味あわせてやる」
その視線は、まさに「氷の公爵」の名の通り、一切の慈悲を含まない絶対的な捕食者のものだった。
貴族たちは恐怖のあまり失禁し、這いつくばって命乞いを始めた。
「お、お助けをー!」
「出来心だったのです!」
「許してくれぇぇ!」
「失せろ。……二度と私の視界に入るな」
ヴァルド様が手を振ると、突風が巻き起こり、貴族たちを扉の外へと吹き飛ばした。
彼らは雪の中に転がり、這々の体で逃げ去っていった。
残されたのは、私たちと、そしてギルバートだけ。
彼は王族のマントを引きずりながら、床にへたり込んでいた。
足元まで迫った氷に怯え、ガチガチと歯を鳴らしている。
「あ……あぅ……」
ヴァルド様がギルバートの前に立った。
ギルバートは見上げることもできず、ただ震えている。
「……ギルバート」
「ひぃっ! ご、ごめんなさい! 殺さないで!」
「殺しはしない。アリアが悲しむからな」
ヴァルド様は氷のように冷たい声で告げた。
「だが、お前には失望した。農場での労働で少しはマシになったかと思ったが、甘い汁の誘惑にこうも簡単に乗るとはな」
「だ、だって……辛かったんだ……寒くて、腹が減って……」
「それが生きるということだ」
ヴァルド様は厳しく言い放った。
「アリアは、実家で冷遇されていた時も、王都を追放された時も、決して腐らず、自分の足で立ち、周りを助けてきた。……お前には、その爪の垢ほど骨気もないのか」
ギルバートは言葉を失い、涙をこぼした。
自分の弱さと、甘え。それを突きつけられ、返す言葉もなかったのだろう。
「……連れて行け」
ヴァルド様が執事に命じる。
「農場へ戻せ。ただし、今後は監視を厳重にし、ノルマを倍にしろ。……自分の食い扶持くらい、自分で稼げるようになるまで、二度とここへは入れるな」
「は、はい……」
ギルバートは抵抗しなかった。
騎士に両脇を抱えられ、引きずられていく。
去り際に、彼は一度だけ振り返り、私を見た。
「……アリア。……ごめん」
その言葉は、初めて彼の本心から出た謝罪のように聞こえた。
王冠は床に転がり落ち、虚しく音を立てた。
◇
「……やれやれ。不愉快な茶番だったな」
ヴァルド様が溜息をつき、私の方へ向き直る。
その表情は、先ほどの冷酷さから一転して、心配げなものに変わっていた。
「アリア、怖くなかったか? あんな連中に詰め寄られて」
「いいえ。ヴァルド様がいてくださいましたから」
私は微笑んだ。
「それに、ギルバート様のあんな情けない姿を見たら……怒る気力も失せてしまいました」
「フン。あいつには一生かかってもアリアの爪先にも届かんよ」
ヴァルド様は私を抱き寄せた。
「だが、一つだけ懸念がある」
「懸念?」
「あの貴族たちが言っていたことだ。……『王家の正当な復権』。彼らのような旧体制派がまだ残っているということは、王都の地下には、まだ何かが燻っている可能性がある」
ヴァルド様の勘は鋭い。
精霊たちも、まだざわつきを止めていないのだ。
『まだ終わってないよ』
『黒いのが残ってる』
『王様の執念が、変なものを呼んでる』
拘束されたはずの国王オスカー。
彼は確かに力を失ったはずだが、その歪んだ執着心は、まだ消えていないのかもしれない。
そして、あの「黒い石」――ミラが持っていた禁忌の魔道具。
あれの出処も、まだはっきりとしていないのだ。
「……ヴァルド様。警戒を強めた方がいいかもしれません」
「ああ。式までは気を抜かないことだ」
ヴァルド様は私の額にキスをした。
「君との結婚式を邪魔する者は、神でも悪魔でも許さん。……最高の式にするために、最後の掃除が必要かもしれん」
「掃除、ですか?」
「ああ。徹底的にな」
彼の瞳の奥で、青い炎が揺らめいた。
元婚約者への氷の視線は、次なる敵への宣戦布告へと変わっていた。
その夜。
北の開拓農場に戻されたギルバートは、泥だらけのベッドで一人、泣いていた。
「……やるしかないんだ。もう、誰も助けてくれない」
彼は震える手で、ポケットの中に隠し持っていた「ジャガイモ」を握りしめた。
それは、今日、彼が初めて自分の手で掘り当てた、小さな小さな収穫物だった。
貴族たちに連れ出される直前、無意識にポケットに入れていたものだ。
「……これ、美味いのかな」
彼は泥を拭い、生のままかじった。
土の味がした。えぐみもあった。
でも、なぜか涙が出るほど、懐かしい味がした。
元殿下の本当の更生は、ここから始まるのかもしれない。
そして私たちもまた、最後の試練へと向かおうとしていた。
続く
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