「地味で可愛げがない」と婚約破棄された精霊使い、氷の公爵家に拾われる。~今さら戻れと言われても、最強の旦那様が許しません~
第15話 もう実家には未練も何もありません
国王軍を氷壁によって退けた数日後。
アイスバーグ公爵領には、奇妙な静寂が戻っていた。
戦いに勝利したとはいえ、それは物理的な衝突を避けただけのことであり、王都との緊張状態は続いている。
しかし、領民たちの士気はかつてないほど高まっていた。
「俺たちの公爵様とアリア様が、王様を追い返したぞ!」
「ざまぁみろだ!」
そんな声が酒場のあちこちで聞かれ、一種の祝祭ムードすら漂っている。
そんなある日の昼下がり。
私はヴァルド様と共に、温室でティータイムを楽しんでいた。
再生した温室は、今や百花繚乱の楽園だ。
外はまだ雪が残っているというのに、ここだけは極彩色の花々が咲き乱れ、甘い香りが満ちている。
「……アリア。このクッキー、君が焼いたのか?」
「はい。木の実を粉にして焼いてみました。お口に合いますか?」
「美味い。……君の手作りなら、泥団子でも美味しく食べる自信があるが、これは絶品だ」
ヴァルド様は真顔でとんでもないことを言いながら、クッキーをサクサクと食べている。
最近の彼は、私への溺愛を隠そうともしない。
使用人たちの前でも平気で膝枕を要求してくるし、隙あらば「充電」と称して抱きついてくる。
おかげで私は常に顔が赤い気がするけれど、不思議と嫌ではなかった。
『アリア、アリア!』
『また来たよ! 変なのが!』
『今度は馬車一台だけ!』
温室の窓から、風の精霊たちが飛び込んできた。
彼らの報告によると、国境の氷壁の前に、一台の馬車が到着したらしい。
軍隊ではない。武装もしていない。
ただ、その馬車に描かれている紋章を聞いて、私はカップを持つ手を止めた。
「……赤い薔薇に、茨の棘……」
「ローゼン伯爵家の紋章か」
ヴァルド様の声が低くなる。
ローゼン伯爵家。
それは、私を産み、育て、そして捨てた実家だ。
「父親が来たようだな。……どうする? 会いたくなければ、私が氷柱にして送り返すが」
ヴァルド様は氷のように冷たい瞳で提案した。
冗談ではない。彼なら本当にやりかねない。
私は少し考え、首を横に振った。
「いいえ、会います」
「……辛くないか?」
「平気です。それに、きちんと終わらせておきたいんです。……私の中の、最後の未練を」
私は立ち上がった。
ヴァルド様も立ち上がり、私の腰をしっかりと抱いた。
「分かった。だが、決して一人にはさせない。君の隣には、常に私がいる」
◇
応接室に通されたのは、私の父、ローゼン伯爵だった。
最後に見たのは、あの卒業パーティーの夜。
「着の身着のままで出ていけ」と私を罵倒していた姿だ。
あれから一ヶ月も経っていないはずなのに、目の前の男は随分と老け込んで見えた。
自慢だった整えられた髭は伸び放題で、目の下には濃い隈がある。
着ている服も、かつてのような高級な生地ではなく、少し古びた外出着だ。
王都の湿気とカビ、そして食糧難が、貴族である彼にも及んでいる証拠だろう。
「……アリア! おお、アリア!」
私たちが部屋に入ると、父はソファから飛び上がった。
そして、駆け寄ろうとして――ヴァルド様の鋭い視線に射抜かれ、たたらを踏んで止まった。
「……何の用だ、ローゼン伯爵」
ヴァルド様が私を背に庇うように立ち、冷徹に言い放つ。
「我が領土に許可なく足を踏み入れるとは。王軍の敗退を知らぬわけではあるまい」
「ひっ……! い、いや、私は争いに来たわけではない! 娘に会いに来たのだ!」
父は脂汗を拭いながら、必死に愛想笑いを浮かべた。
「アリア、心配していたんだぞ。こんな北の果てで、苦労しているのではないかとな」
「心配……?」
私はヴァルド様の背中から一歩踏み出し、父と対峙した。
「私を無一文で追い出したお父様が、ですか?」
私の姿を見て、父は息を呑んだ。
今の私は、ヴァルド様が贈ってくれた最高級のドレスを身に纏い、髪には宝石の髪飾り、首には大粒の琥珀が輝いている。
肌はツヤツヤで、以前のような猫背で自信のない姿はどこにもない。
それに比べて、父の姿のみすぼらしさと言ったら。
「な……なんだその格好は。ずいぶんと……贅沢な暮らしをしているようだな」
父の目に、一瞬で嫉妬と欲の色が浮かんだ。
「こ、これなら話は早い! アリア、実家に戻ってこい!」
「は?」
「勘当は取り消してやる! お前は今日からまた、ローゼン伯爵家の長女だ。いやあ、悪かったな、あの時は私も気が動転していて……。だが、家族の絆はそう簡単に切れるものじゃないだろう?」
父は馴れ馴れしく手を広げた。
その言葉の軽さに、呆れを通り越して笑いが出そうになった。
「気が動転? いいえ、お父様は本気でしたわ。私を『恥さらし』と呼び、私の存在そのものを否定なさいました」
「だから、それは誤解だと言っているだろう! それに、今、家は大変なんだ!」
父は急に被害者面をして叫んだ。
「お前がいなくなってから、屋敷の暖炉がつかない! 庭の花は全部枯れた! 雨漏りはするし、食事はカビ臭いし、夜な夜なポルターガイスト現象まで起きる! お前の継母も、寒さで寝込んでしまったんだぞ!」
「それは、精霊たちが怒っているからです」
私は淡々と告げた。
「私が守っていた加護が消え、今まで屋敷に留まっていた精霊たちが去った。それだけのことです」
「だったら、お前が戻って何とかしろ! それが娘としての義務だろう!」
父は机をバンと叩いた。
「育ててやった恩を忘れたか! お前のような可愛げのない娘を、今まで置いてやってたのは誰だと思っている!」
出た。いつもの常套句。
「育ててやった恩」。
確かに、衣食住は与えられていた。ただし、使用人以下の扱いで。
私は深呼吸をした。
昔なら、この言葉を聞いただけで体が震え、謝罪の言葉を口にしていただろう。
でも今は、隣にヴァルド様がいる。
彼の手の温もりが、私に勇気をくれる。
「恩なら、もう十分に返しました」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「お父様が事業で失敗した時、裏で借金の計算をして助けたのは私です。継母様がパーティーで着るドレスの刺繍をしたのも私。ミラの宿題を全部片付けていたのも私。……そして何より、屋敷の環境を整え、お父様たちが快適に暮らせるように魔力を使い続けていたのも、私です」
「な……」
「私は、もう十分すぎるほど働きました。これ以上、あなた方に搾取されるつもりはありません」
私の言葉に、父は顔を真っ赤にして激昂した。
「なまいきな! 親に向かってなんだその口の利き方は! おい、衛兵! この娘を捕らえろ! 無理やりにでも馬車に乗せろ!」
父は後ろに控えていた数人の私兵に命令した。
しかし、彼らが動くより早く、部屋の温度が急激に下がった。
パキパキパキッ……。
床から氷の棘が突き出し、私兵たちの足元を囲んだ。
「うわっ!?」
「動くな!」
「……私の屋敷で、私の婚約者に手を出すとは、いい度胸だ」
ヴァルド様が殺気立った目で睨みつける。
背後には、氷の精霊王(仮)がぬっと姿を現し、父を見下ろした。
『消えろ。アリアを悲しませる者は、私が食らうぞ』
精霊王の放つ威圧感に、父は腰を抜かしてへたり込んだ。
「ひぃっ……! ば、化け物……!」
「化け物ではない。私の友です」
私は父を見下ろした。
不思議と、心は凪いでいた。
憎しみも、怒りも、もうあまり感じない。
あるのは、ただの「無関心」だけ。
ああ、私はこの人の愛を乞うていたのか。
こんな、自分の保身と欲のことしか考えていない、ちっぽけな男に認められたくて、必死になっていたのか。
そう思うと、過去の自分が可哀想で、そして少し滑稽に思えた。
「お父様。……いいえ、ローゼン伯爵」
私は冷ややかに告げた。
「私は帰りません。二度と、あんな冷たい場所には戻りません。私には今、心から愛してくれる人と、温かい居場所がありますから」
「ま、待ってくれアリア! 考え直してくれ!」
父は必死に縋り付こうとした。
「お前が戻らないと、王家から責任を問われるんだ! 『魔女を排出した家』として、爵位を取り上げられてしまう! 頼む、家を守るためだと思って!」
「知りません」
私は切り捨てた。
「私が除籍された時、あなたはおっしゃいましたよね。『我が家の恥さらし』と。……恥さらしがいなくなったのですから、家は安泰なのではありませんか?」
「ぐっ……!」
「爵位が惜しいなら、ご自慢の『聖女』ミラになんとかしてもらえばよろしいでしょう。……ああ、そういえば」
私はふと思い出したように付け加えた。
「ミラとギルバート殿下でしたら、当家の北の塔にいらっしゃいますよ。会っていかれますか?」
「なっ、ミラがここに!? ギルバート殿下も!?」
「ええ。お二人とも、公爵家の財産を盗もうとして捕まりました。今は『反省房』で、仲良く罪を償っていらっしゃいます」
「ぬ、盗みだと……!? 馬鹿な、そんな……」
父は顔面蒼白になった。
娘が二人揃って、一方は家を出て敵対し、もう一方は犯罪者として捕縛されている。
ローゼン家の没落は、もはや確定的なものだった。
「連れて行け」
ヴァルド様が冷たく命じる。
「二度と敷居を跨がせるな。……次に顔を見せたら、氷漬けにして庭のオブジェにするぞ」
「ひぃぃぃっ! お助けをー!」
父は私兵たちと共に、這いつくばるようにして逃げ出していった。
応接室に残ったのは、私とヴァルド様だけ。
静寂が戻る。
私は大きく息を吐き、窓の外を見た。
父の馬車が、逃げるように雪道を去っていくのが見える。
これで、本当に終わりだ。
家族という名の鎖が、音を立てて砕け散った気がした。
「……アリア」
ヴァルド様が後ろから私を抱きしめた。
「泣いてもいいんだぞ」
「……いえ、涙も出ません」
私は彼の腕に手を重ねた。
「不思議ですね。もっと心が痛むかと思っていました。でも、今は……せいせいしています。まるで、重い荷物をやっと下ろせたような気分です」
「そうか」
ヴァルド様は私の髪にキスをした。
「君は強くなったな。……いや、本来の君に戻っただけか」
「はい。ヴァルド様が、私に自信をくれたからです」
私は彼の方を向き、背伸びをして口づけをした。
「ありがとうございます、あなた。……私、もう実家には未練も何もありません」
「ああ。これからはここが君の実家だ。……私が君の家族になる」
私たちは抱き合い、互いの温もりを確かめ合った。
過去との決別は済んだ。
あとは、未来へ進むだけだ。
◇
一方、王都では事態がさらに悪化していた。
国王軍の敗退、そしてローゼン伯爵の説得失敗の報せは、瞬く間に広がった。
「王様は負けたんだ!」
「アリア様は戻ってこない!」
「もうこの国はおしまいだ!」
絶望した民衆たちの怒りは、ついに爆発した。
暴徒と化した市民が王宮を取り囲み、城門には火が放たれた。
衛兵たちも、給料である食料が支払われていないため、武器を捨てて逃亡するか、民衆側に加担し始めていた。
王宮の奥深く。
国王オスカー三世は、玉座にしがみついて震えていた。
「なぜだ……なぜ誰も余の命令を聞かぬ……!」
「陛下、もうお逃げください! ここも危険です!」
側近が叫ぶが、国王は聞き入れない。
「馬鹿な! 余は王だぞ! 選ばれし者だぞ!」
そこへ、新たな報告が入る。
「へ、陛下! 大変です! 各地の領主たちが、アイスバーグ公爵領への『移住』を宣言しました!」
「な、なんだと……!?」
「アリア様の加護がある北の地へ、民を引き連れて逃げると……。すでに南部の侯爵家、西部の伯爵家が、公爵家に忠誠を誓う書状を送ったそうです!」
それは、事実上の国家分裂、いや、王国の解体だった。
精霊に見放された王都を捨て、人々は「春の女神」がいる北へと大移動を始めたのだ。
「おのれ……おのれアイスバーグ! 国を乗っ取る気か!」
国王は血走った目で叫んだ。
「こうなれば、最後の手段だ! 禁忌の『召喚魔法』を使うしかない!」
「へ、陛下!? あれを使うと、術者の命が……それに、制御できる保証など!」
「黙れ! このまま座して死ぬよりマシだ! 異界の魔物を呼び出し、北の地ごと焼き払ってやる!」
狂気に取り憑かれた王は、王家の地下深くに封印されていた「開かずの扉」へと向かった。
そこには、かつて初代国王が封印した、最悪の厄災が眠っているとも知らずに。
◇
公爵邸。
父を追い返した夜、私は不思議な夢を見た。
真っ暗な闇の中で、誰かが泣いている夢だ。
『助けて……』
『熱い……苦しい……』
それは人間の声ではなかった。
精霊の声だ。でも、私が知っている自然の精霊たちとは違う。
もっと古く、そして深い悲しみを帯びた声。
「……っ!」
私はハッと目を覚ました。
寝汗をかいている。心臓が早鐘を打っていた。
「今の声は……?」
隣で眠っていたヴァルド様が、私の異変に気づいて目を覚ました。
「どうした、アリア? 怖い夢でも見たか?」
彼はすぐに私を引き寄せ、背中をさすってくれる。
「ヴァルド様……。嫌な予感がします」
私は震える声で言った。
「王都の方角から……とてつもなく大きな悲鳴が聞こえました。精霊たちが、怯えています」
ヴァルド様の表情が鋭くなる。
「王都か。……あの愚王、まだ何か隠し持っていたか」
彼はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
北の夜空の彼方、南の方角が、不気味な赤紫色に染まっているのが見えた。
それは朝焼けではない。
邪悪な魔力の光だ。
「……どうやら、最後の戦いになりそうだな」
ヴァルド様が言った。
「アリア、準備はいいか?」
「はい」
私は頷いた。
実家との縁は切れた。未練はない。
けれど、王都に残された罪のない人々や、そこにいる精霊たちを見捨てることはできない。
私が「精霊の愛し子」であるならば、その悲鳴に応えなければならない。
「行きましょう、ヴァルド様。……王都を、救いに」
私たちは夜明けと共に、王都へ向けて出発することを決意した。
それは、かつて追放された私が、今度は「救世主」として凱旋するための旅立ちだった。
続く
アイスバーグ公爵領には、奇妙な静寂が戻っていた。
戦いに勝利したとはいえ、それは物理的な衝突を避けただけのことであり、王都との緊張状態は続いている。
しかし、領民たちの士気はかつてないほど高まっていた。
「俺たちの公爵様とアリア様が、王様を追い返したぞ!」
「ざまぁみろだ!」
そんな声が酒場のあちこちで聞かれ、一種の祝祭ムードすら漂っている。
そんなある日の昼下がり。
私はヴァルド様と共に、温室でティータイムを楽しんでいた。
再生した温室は、今や百花繚乱の楽園だ。
外はまだ雪が残っているというのに、ここだけは極彩色の花々が咲き乱れ、甘い香りが満ちている。
「……アリア。このクッキー、君が焼いたのか?」
「はい。木の実を粉にして焼いてみました。お口に合いますか?」
「美味い。……君の手作りなら、泥団子でも美味しく食べる自信があるが、これは絶品だ」
ヴァルド様は真顔でとんでもないことを言いながら、クッキーをサクサクと食べている。
最近の彼は、私への溺愛を隠そうともしない。
使用人たちの前でも平気で膝枕を要求してくるし、隙あらば「充電」と称して抱きついてくる。
おかげで私は常に顔が赤い気がするけれど、不思議と嫌ではなかった。
『アリア、アリア!』
『また来たよ! 変なのが!』
『今度は馬車一台だけ!』
温室の窓から、風の精霊たちが飛び込んできた。
彼らの報告によると、国境の氷壁の前に、一台の馬車が到着したらしい。
軍隊ではない。武装もしていない。
ただ、その馬車に描かれている紋章を聞いて、私はカップを持つ手を止めた。
「……赤い薔薇に、茨の棘……」
「ローゼン伯爵家の紋章か」
ヴァルド様の声が低くなる。
ローゼン伯爵家。
それは、私を産み、育て、そして捨てた実家だ。
「父親が来たようだな。……どうする? 会いたくなければ、私が氷柱にして送り返すが」
ヴァルド様は氷のように冷たい瞳で提案した。
冗談ではない。彼なら本当にやりかねない。
私は少し考え、首を横に振った。
「いいえ、会います」
「……辛くないか?」
「平気です。それに、きちんと終わらせておきたいんです。……私の中の、最後の未練を」
私は立ち上がった。
ヴァルド様も立ち上がり、私の腰をしっかりと抱いた。
「分かった。だが、決して一人にはさせない。君の隣には、常に私がいる」
◇
応接室に通されたのは、私の父、ローゼン伯爵だった。
最後に見たのは、あの卒業パーティーの夜。
「着の身着のままで出ていけ」と私を罵倒していた姿だ。
あれから一ヶ月も経っていないはずなのに、目の前の男は随分と老け込んで見えた。
自慢だった整えられた髭は伸び放題で、目の下には濃い隈がある。
着ている服も、かつてのような高級な生地ではなく、少し古びた外出着だ。
王都の湿気とカビ、そして食糧難が、貴族である彼にも及んでいる証拠だろう。
「……アリア! おお、アリア!」
私たちが部屋に入ると、父はソファから飛び上がった。
そして、駆け寄ろうとして――ヴァルド様の鋭い視線に射抜かれ、たたらを踏んで止まった。
「……何の用だ、ローゼン伯爵」
ヴァルド様が私を背に庇うように立ち、冷徹に言い放つ。
「我が領土に許可なく足を踏み入れるとは。王軍の敗退を知らぬわけではあるまい」
「ひっ……! い、いや、私は争いに来たわけではない! 娘に会いに来たのだ!」
父は脂汗を拭いながら、必死に愛想笑いを浮かべた。
「アリア、心配していたんだぞ。こんな北の果てで、苦労しているのではないかとな」
「心配……?」
私はヴァルド様の背中から一歩踏み出し、父と対峙した。
「私を無一文で追い出したお父様が、ですか?」
私の姿を見て、父は息を呑んだ。
今の私は、ヴァルド様が贈ってくれた最高級のドレスを身に纏い、髪には宝石の髪飾り、首には大粒の琥珀が輝いている。
肌はツヤツヤで、以前のような猫背で自信のない姿はどこにもない。
それに比べて、父の姿のみすぼらしさと言ったら。
「な……なんだその格好は。ずいぶんと……贅沢な暮らしをしているようだな」
父の目に、一瞬で嫉妬と欲の色が浮かんだ。
「こ、これなら話は早い! アリア、実家に戻ってこい!」
「は?」
「勘当は取り消してやる! お前は今日からまた、ローゼン伯爵家の長女だ。いやあ、悪かったな、あの時は私も気が動転していて……。だが、家族の絆はそう簡単に切れるものじゃないだろう?」
父は馴れ馴れしく手を広げた。
その言葉の軽さに、呆れを通り越して笑いが出そうになった。
「気が動転? いいえ、お父様は本気でしたわ。私を『恥さらし』と呼び、私の存在そのものを否定なさいました」
「だから、それは誤解だと言っているだろう! それに、今、家は大変なんだ!」
父は急に被害者面をして叫んだ。
「お前がいなくなってから、屋敷の暖炉がつかない! 庭の花は全部枯れた! 雨漏りはするし、食事はカビ臭いし、夜な夜なポルターガイスト現象まで起きる! お前の継母も、寒さで寝込んでしまったんだぞ!」
「それは、精霊たちが怒っているからです」
私は淡々と告げた。
「私が守っていた加護が消え、今まで屋敷に留まっていた精霊たちが去った。それだけのことです」
「だったら、お前が戻って何とかしろ! それが娘としての義務だろう!」
父は机をバンと叩いた。
「育ててやった恩を忘れたか! お前のような可愛げのない娘を、今まで置いてやってたのは誰だと思っている!」
出た。いつもの常套句。
「育ててやった恩」。
確かに、衣食住は与えられていた。ただし、使用人以下の扱いで。
私は深呼吸をした。
昔なら、この言葉を聞いただけで体が震え、謝罪の言葉を口にしていただろう。
でも今は、隣にヴァルド様がいる。
彼の手の温もりが、私に勇気をくれる。
「恩なら、もう十分に返しました」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「お父様が事業で失敗した時、裏で借金の計算をして助けたのは私です。継母様がパーティーで着るドレスの刺繍をしたのも私。ミラの宿題を全部片付けていたのも私。……そして何より、屋敷の環境を整え、お父様たちが快適に暮らせるように魔力を使い続けていたのも、私です」
「な……」
「私は、もう十分すぎるほど働きました。これ以上、あなた方に搾取されるつもりはありません」
私の言葉に、父は顔を真っ赤にして激昂した。
「なまいきな! 親に向かってなんだその口の利き方は! おい、衛兵! この娘を捕らえろ! 無理やりにでも馬車に乗せろ!」
父は後ろに控えていた数人の私兵に命令した。
しかし、彼らが動くより早く、部屋の温度が急激に下がった。
パキパキパキッ……。
床から氷の棘が突き出し、私兵たちの足元を囲んだ。
「うわっ!?」
「動くな!」
「……私の屋敷で、私の婚約者に手を出すとは、いい度胸だ」
ヴァルド様が殺気立った目で睨みつける。
背後には、氷の精霊王(仮)がぬっと姿を現し、父を見下ろした。
『消えろ。アリアを悲しませる者は、私が食らうぞ』
精霊王の放つ威圧感に、父は腰を抜かしてへたり込んだ。
「ひぃっ……! ば、化け物……!」
「化け物ではない。私の友です」
私は父を見下ろした。
不思議と、心は凪いでいた。
憎しみも、怒りも、もうあまり感じない。
あるのは、ただの「無関心」だけ。
ああ、私はこの人の愛を乞うていたのか。
こんな、自分の保身と欲のことしか考えていない、ちっぽけな男に認められたくて、必死になっていたのか。
そう思うと、過去の自分が可哀想で、そして少し滑稽に思えた。
「お父様。……いいえ、ローゼン伯爵」
私は冷ややかに告げた。
「私は帰りません。二度と、あんな冷たい場所には戻りません。私には今、心から愛してくれる人と、温かい居場所がありますから」
「ま、待ってくれアリア! 考え直してくれ!」
父は必死に縋り付こうとした。
「お前が戻らないと、王家から責任を問われるんだ! 『魔女を排出した家』として、爵位を取り上げられてしまう! 頼む、家を守るためだと思って!」
「知りません」
私は切り捨てた。
「私が除籍された時、あなたはおっしゃいましたよね。『我が家の恥さらし』と。……恥さらしがいなくなったのですから、家は安泰なのではありませんか?」
「ぐっ……!」
「爵位が惜しいなら、ご自慢の『聖女』ミラになんとかしてもらえばよろしいでしょう。……ああ、そういえば」
私はふと思い出したように付け加えた。
「ミラとギルバート殿下でしたら、当家の北の塔にいらっしゃいますよ。会っていかれますか?」
「なっ、ミラがここに!? ギルバート殿下も!?」
「ええ。お二人とも、公爵家の財産を盗もうとして捕まりました。今は『反省房』で、仲良く罪を償っていらっしゃいます」
「ぬ、盗みだと……!? 馬鹿な、そんな……」
父は顔面蒼白になった。
娘が二人揃って、一方は家を出て敵対し、もう一方は犯罪者として捕縛されている。
ローゼン家の没落は、もはや確定的なものだった。
「連れて行け」
ヴァルド様が冷たく命じる。
「二度と敷居を跨がせるな。……次に顔を見せたら、氷漬けにして庭のオブジェにするぞ」
「ひぃぃぃっ! お助けをー!」
父は私兵たちと共に、這いつくばるようにして逃げ出していった。
応接室に残ったのは、私とヴァルド様だけ。
静寂が戻る。
私は大きく息を吐き、窓の外を見た。
父の馬車が、逃げるように雪道を去っていくのが見える。
これで、本当に終わりだ。
家族という名の鎖が、音を立てて砕け散った気がした。
「……アリア」
ヴァルド様が後ろから私を抱きしめた。
「泣いてもいいんだぞ」
「……いえ、涙も出ません」
私は彼の腕に手を重ねた。
「不思議ですね。もっと心が痛むかと思っていました。でも、今は……せいせいしています。まるで、重い荷物をやっと下ろせたような気分です」
「そうか」
ヴァルド様は私の髪にキスをした。
「君は強くなったな。……いや、本来の君に戻っただけか」
「はい。ヴァルド様が、私に自信をくれたからです」
私は彼の方を向き、背伸びをして口づけをした。
「ありがとうございます、あなた。……私、もう実家には未練も何もありません」
「ああ。これからはここが君の実家だ。……私が君の家族になる」
私たちは抱き合い、互いの温もりを確かめ合った。
過去との決別は済んだ。
あとは、未来へ進むだけだ。
◇
一方、王都では事態がさらに悪化していた。
国王軍の敗退、そしてローゼン伯爵の説得失敗の報せは、瞬く間に広がった。
「王様は負けたんだ!」
「アリア様は戻ってこない!」
「もうこの国はおしまいだ!」
絶望した民衆たちの怒りは、ついに爆発した。
暴徒と化した市民が王宮を取り囲み、城門には火が放たれた。
衛兵たちも、給料である食料が支払われていないため、武器を捨てて逃亡するか、民衆側に加担し始めていた。
王宮の奥深く。
国王オスカー三世は、玉座にしがみついて震えていた。
「なぜだ……なぜ誰も余の命令を聞かぬ……!」
「陛下、もうお逃げください! ここも危険です!」
側近が叫ぶが、国王は聞き入れない。
「馬鹿な! 余は王だぞ! 選ばれし者だぞ!」
そこへ、新たな報告が入る。
「へ、陛下! 大変です! 各地の領主たちが、アイスバーグ公爵領への『移住』を宣言しました!」
「な、なんだと……!?」
「アリア様の加護がある北の地へ、民を引き連れて逃げると……。すでに南部の侯爵家、西部の伯爵家が、公爵家に忠誠を誓う書状を送ったそうです!」
それは、事実上の国家分裂、いや、王国の解体だった。
精霊に見放された王都を捨て、人々は「春の女神」がいる北へと大移動を始めたのだ。
「おのれ……おのれアイスバーグ! 国を乗っ取る気か!」
国王は血走った目で叫んだ。
「こうなれば、最後の手段だ! 禁忌の『召喚魔法』を使うしかない!」
「へ、陛下!? あれを使うと、術者の命が……それに、制御できる保証など!」
「黙れ! このまま座して死ぬよりマシだ! 異界の魔物を呼び出し、北の地ごと焼き払ってやる!」
狂気に取り憑かれた王は、王家の地下深くに封印されていた「開かずの扉」へと向かった。
そこには、かつて初代国王が封印した、最悪の厄災が眠っているとも知らずに。
◇
公爵邸。
父を追い返した夜、私は不思議な夢を見た。
真っ暗な闇の中で、誰かが泣いている夢だ。
『助けて……』
『熱い……苦しい……』
それは人間の声ではなかった。
精霊の声だ。でも、私が知っている自然の精霊たちとは違う。
もっと古く、そして深い悲しみを帯びた声。
「……っ!」
私はハッと目を覚ました。
寝汗をかいている。心臓が早鐘を打っていた。
「今の声は……?」
隣で眠っていたヴァルド様が、私の異変に気づいて目を覚ました。
「どうした、アリア? 怖い夢でも見たか?」
彼はすぐに私を引き寄せ、背中をさすってくれる。
「ヴァルド様……。嫌な予感がします」
私は震える声で言った。
「王都の方角から……とてつもなく大きな悲鳴が聞こえました。精霊たちが、怯えています」
ヴァルド様の表情が鋭くなる。
「王都か。……あの愚王、まだ何か隠し持っていたか」
彼はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
北の夜空の彼方、南の方角が、不気味な赤紫色に染まっているのが見えた。
それは朝焼けではない。
邪悪な魔力の光だ。
「……どうやら、最後の戦いになりそうだな」
ヴァルド様が言った。
「アリア、準備はいいか?」
「はい」
私は頷いた。
実家との縁は切れた。未練はない。
けれど、王都に残された罪のない人々や、そこにいる精霊たちを見捨てることはできない。
私が「精霊の愛し子」であるならば、その悲鳴に応えなければならない。
「行きましょう、ヴァルド様。……王都を、救いに」
私たちは夜明けと共に、王都へ向けて出発することを決意した。
それは、かつて追放された私が、今度は「救世主」として凱旋するための旅立ちだった。
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