「地味で可愛げがない」と婚約破棄された精霊使い、氷の公爵家に拾われる。~今さら戻れと言われても、最強の旦那様が許しません~
第6話 温かいスープと、旦那様の不器用な優しさ
北の辺境、アイスバーグ公爵領での生活が始まって数日。
私はこの極寒の地での暮らしに、少しずつ慣れ始めていた。
屋敷の中は精霊たちのおかげで常に快適な温度に保たれているし、使用人の方々も――最初は「氷の公爵が連れてきた謎の女」と警戒していたようだけれど、温室の一件以来、とても親切にしてくれる。
ただ一つ、気になっていることがあった。
それは、食事だ。
「……硬い」
朝食の席で、私は黒パンをちぎりながら内心で呟いた。
北の地は冬が長く、作物が育ちにくい。そのため、食事はどうしても保存食が中心になる。
塩漬けの肉、乾燥させた野菜、カチカチに凍った魚、そして石のように硬いパン。
調理法も「焼く」か「煮る」かの二択で、味付けは保存性を高めるためにとにかく塩辛い。
もちろん、贅沢を言うつもりはない。実家で残飯同然の食事を与えられていた頃に比べれば、お腹いっぱい食べられるだけで幸せだ。
でも、ヴァルド様の顔色がいつ見ても優れないのが心配だった。
彼は黙々と食事を口に運ぶけれど、それは「味わう」というより「摂取する」という作業に見える。
『ヴァルド、また塩辛いの食べてる』
『あいつ、味覚あるのかな?』
『野菜が泣いてるよー。もっと美味しくなりたいって言ってるよー』
テーブルの周りで、精霊たちが文句を言っている。
彼らの声を聞いて、私は決意した。
精霊使いとして、そして(仮)公爵夫人として、食卓改革を起こさなければ!
◇
その日の午後、私は厨房へと足を運んだ。
「あ、アリア様!?」
調理場でジャガイモの皮を剥いていた料理長が、飛び上がって驚いた。
熊のような巨躯に、強面の男性だ。名前はガストンさんというらしい。
「い、いけません! 貴族の姫君がこのような煤けた場所に来られては!」
「こんにちは、ガストンさん。少し相談があって来たのですが、よろしいですか?」
「そ、相談? 俺の料理が口に合いませんでしたか!? 申し訳ありません、何しろ新鮮な食材が手に入らないもので……」
ガストンさんは大きな体を小さくして怯えている。どうやら、私が文句を言いに来たと思ったようだ。
私は慌てて首を振った。
「違います! ガストンさんのスープ、塩加減が絶妙で美味しいです。ただ……少し、私にも手伝わせていただけないかと思いまして」
「て、手伝う? アリア様が?」
「はい。実家では……その、よく料理をしていましたから」
(使用人の手が足りないからと、パーティー料理の下ごしらえを全部押し付けられていたなんて、言えないけれど)
私は籠に盛られた萎びた野菜たちを見た。
長い冬を越すために地下室で保管されていた根菜類だ。水分が抜け、精気がない。
「このお野菜たち、まだ生きています。少し手を貸してあげれば、きっともっと美味しくなるはずです」
私は籠に手をかざした。
「水の精霊ウンディーネ、清らかな水を少し分けて。土の精霊ノーム、野菜たちに大地の記憶を思い出させて」
私の呼びかけに応じ、空気中の水分が集まって野菜を包み込む。
しわしわだった人参やジャガイモが、見る見るうちに瑞々しさを取り戻し、パンパンに張り詰めた。
色も鮮やかになり、まるで採れたてのような輝きを放ち始める。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
ガストンさんが目玉が飛び出そうなほど驚いている。
「し、死にかけてた野菜が、朝採れみたいに……!」
「精霊の力を借りて、本来の生命力を引き出したんです。これを使って、今夜はシチューを作りませんか? 私が火加減を見ますから」
「は、はい! ぜひ! ぜひお願いします!」
そこからのガストンさんは早かった。
「おいお前ら! 最高級の野菜が手に入ったぞ! 気合入れて刻め!」
「へいっ!」
厨房に活気が戻る。
私はかまどの前に立ち、火の精霊サラマンダーにお願いして、絶妙な火加減を調整してもらう。
煮込み料理は火加減が命だ。精霊なら、食材の中心まで均一に熱を通すことができる。
コトコトと鍋が音を立て、厨房いっぱいに甘く優しい香りが満ちていく。
牛乳の代わりに、雪牛(ユキウシ)の濃厚なミルクを使い、隠し味に北国産のハーブを加える。
最後に、仕上げの魔法(スパイス)をひと振り。
「……できた」
味見をしたガストンさんが、震える手でスプーンを落としそうになった。
「こ、これが……俺の知ってるシチューか? なんだこの、心の臓まで染み渡るような優しさは……」
周りの料理人たちも、香りを嗅ぐだけでうっとりとした表情をしている。
よし、これならヴァルド様も喜んでくれるはず。
◇
夕食の時間。
執務を終えたヴァルド様が食堂に入ってきた。
いつも通り、その表情は凍りついたように硬い。背後には今日も巨大な氷の精霊王(仮)が守護霊のように浮いている。
「……いい匂いだ」
席に着くなり、ヴァルド様が鼻をひくつかせた。
「今日は何か特別な日だったか?」
「いいえ、ただの夕食です。でも、少しだけ私が監修させていただきました」
私が微笑むと、執事が恭しく銀の蓋を開けた。
湯気と共に、黄金色のシチューが姿を現す。
彩り豊かな人参、ホクホクのジャガイモ、そしてとろけるように煮込まれた肉。
ヴァルド様はスプーンを手に取り、まずはスープを一口。
その瞬間。
カチン、と彼の動きが止まった。
「…………」
沈黙が流れる。
ま、まずかっただろうか。北の人の味覚には合わなかった?
不安になって見守っていると、ヴァルド様がゆっくりと息を吐いた。
「……温かい」
ポツリと漏らしたその声は、震えていた。
「味が、する。野菜の甘みと、肉の旨味……それらが喧嘩せずに、溶け合っている。何より……」
彼は胸元をぎゅっと押さえた。
「食べた瞬間、体の中の氷が溶けていくようだ。こんなに温かいものを食べたのは、母上が亡くなって以来かもしれない」
見ると、彼の背後にいる氷の精霊たちが、とろ〜んと溶けかけたアイスクリームのような顔をしている。
『うまーい!』
『これ最高! アリア天才!』
『ヴァルドが幸せそうだから、今日は部屋を凍らせるのやめてあげる!』
精霊たちの満足感が伝播したのか、ヴァルド様の瞳が潤んでいるように見えた。
彼は二口、三口とスプーンを進める。いつもなら機械的に食べる彼が、今日は一口ごとに味わい、慈しむように食べている。
「アリア」
完食した皿を置いて、ヴァルド様が私を呼んだ。
「はい」
「……美味かった。礼を言う」
短い言葉。でも、その瞳に宿る熱は、どんな雄弁な賛辞よりも雄弁だった。
「お粗末様でした。気に入っていただけて嬉しいです」
食事が終わり、デザートの果物(これも精霊の力で甘くしたもの)を食べていると、ヴァルド様がそわそわし始めた。
指先でテーブルを叩いたり、チラチラと私を見たり。
何か言いたげな様子だ。
「あの、ヴァルド様? 何か……」
「あー、いや。その」
最強の公爵様が、借りてきた猫のように挙動不審になっている。
彼は意を決したように立ち上がると、懐から何かを取り出した。
「これを」
差し出されたのは、掌サイズの小さな小箱だった。
「君が……料理をしてくれたと聞いてな。厨房は火を使うし、刃物もある。危険な場所だ」
彼は真剣な顔で説明を始めた。
「君の美しい指に傷がついたら大変だ。それに、君は寒がりだから(※私は寒くないが、彼の中ではそうなっているらしい)、水仕事で手が荒れるのも良くない」
箱を開けると、そこに入っていたのは指輪――ではなく、薄手の、しかし不思議な光沢を放つ手袋だった。
「これは?」
「氷蜘蛛(アイススパイダー)の糸で織った手袋だ。刃を通さず、火にも耐え、常に適温を保つ魔道具になっている。これをしていれば、厨房でも怪我をすることはない」
……すごい。
国宝級の素材である氷蜘蛛の糸を、まさか料理用の手袋にするなんて。
王都の貴族が聞いたら卒倒するような贅沢だ。
でも、それ以上に。
「君が料理をしたいというなら止めない。だが、俺は心配で仕事が手につかなくなる。……だから、これを着けてくれ」
不器用な優しさが、胸に染みた。
彼は「料理なんて下賤なまねはするな」とは言わない。私の意思を尊重し、その上で安全を守ろうとしてくれている。
元婚約者のギルバート殿下が、私の作った刺繍を見て「こんな安っぽいもの、王族が使えるか」と鼻で笑ったのとは大違いだ。
「ありがとうございます、ヴァルド様。……大切に使います」
私が手袋を受け取ると、彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「ああ。……それと、もう一つ」
まだあるの?
「明日は時間を空けておいてくれ。領内の視察に行く」
「視察、ですか?」
「ああ。君にも見てほしいものがある。……この地の、現実を」
彼の声のトーンが、ふっと下がった。
さっきまでの甘い雰囲気とは違う、領主としての真剣な顔つき。
「今日のシチューは本当に美味かった。だが、あのような新鮮な野菜は、今の領内にはもうほとんど残っていない。……我が領は今、未曾有の食糧危機に瀕しているんだ」
◇
翌日。
私たちは馬車に乗り、公爵領の視察へと出かけた。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの雪原。
しかし、村や町を通ると、その深刻さが明らかになった。
「……酷い」
家々の屋根は雪の重みで歪み、道を歩く人々は痩せ細っている。
市場にはほとんど商品が並んでおらず、あっても干からびた芋や、骨ばかりの魚だけ。
子供たちは寒さに震えながら、空っぽの籠を持って立ち尽くしている。
「ここ数年、寒波が厳しくなる一方でな。作物は育たず、魔獣は凶暴化し、交易も雪で閉ざされがちだ」
隣に座るヴァルド様が、苦しげに言った。
「私は氷の魔法で魔獣を狩ることはできる。だが、作物を育てることはできない。私の魔力は強すぎて、触れるもの全てを凍らせてしまうからだ」
彼は自分の手を忌々しげに見つめた。
「領民たちが飢えているのに、領主である私は何もできない。……私は無力だ」
『ヴァルド、泣かないで』
『ボクたちがいるよ』
精霊たちが慰めるように彼の周りを飛ぶが、ヴァルド様には届かない。
「王都に支援を要請したが、『辺境のことは辺境でなんとかしろ』と門前払いだ。……いや、あちらも天候不順で余裕がないのかもしれんが」
王都の天候不順。それは間違いなく、私が去ったことによる精霊の怒りが原因だ。
そして、この地の寒波。
これは、ヴァルド様の魔力が暴走しているせいもあるけれど、それ以上に「土地が眠ってしまっている」感じがする。
私は窓を開け、外の空気に触れた。
冷たい風の中に、微かな精霊たちの声が混じっている。
『寒いよー』
『眠いよー』
『お腹すいたー』
土の精霊や、植物の精霊たちが、深い雪の下で縮こまっている声だ。
「……ヴァルド様」
私は彼の手を握った。
氷のように冷たい手。でも、手袋越しに私の体温が伝わると、彼が驚いたようにこちらを見た。
「貴方様は無力じゃありません。魔獣から民を守り、こうして心を痛めている。素晴らしい領主様です」
「アリア……」
「それに、諦めるのはまだ早いです。……私に、任せていただけませんか?」
「君に?」
「はい。昨日の温室を覚えていますか? あれと同じことを、この大地でもやってみたいんです」
私は馬車を止めさせ、雪の積もる畑へと降り立った。
膝まで埋まる雪。その下には、凍てついた大地がある。
普通の農業なら絶望的な状況だ。
でも、私には最強の味方がいる。
「みなさん、出ておいで!」
私が呼びかけると、馬車の中に隠れていた小さな精霊たちがわらわらと飛び出してきた。
さらに、ヴァルド様の周りにいた氷の精霊たちにも声をかける。
「氷の精霊さん、少しだけ場所を空けて。土の精霊さん、起きて! 太陽の精霊さん、ここに光の道を作って!」
私の魔力を依り代に、精霊たちが一斉に動き出す。
ヴァルド様が目を見開いて見守る中、雪原の一部で、雪が解け、黒い土が顔を出した。
もちろん、領地全部を一気に春にすることはできない。
でも、小さな「春の拠点」を作ることはできる。
「ヴァルド様。貴方様の氷の魔力で、この畑の周りに風除けの壁を作ってください。透明で、光を通す壁を」
「ビニールハウスのようなものか? ……やってみよう」
ヴァルド様が手をかざすと、畑を囲むように美しい氷の壁が出現した。
それは太陽の光を集め、内部の温度を逃がさない、天然の温室だ。
彼の「凍らせる力」が、「守る力」に変わった瞬間だった。
「すごい……。これなら、冬の間でも野菜が育てられる」
ヴァルド様が、信じられないものを見る目で呟いた。
「俺の氷が、作物を守っているのか……?」
「はい。貴方様の氷は、使い方次第で命を育むゆりかごになるんです」
私が微笑むと、彼は突然、雪の中で私を抱きしめた。
騎士たちや村人が見ているのも構わずに。
「アリア。……君は本当に、この地に舞い降りた女神かもしれない」
「ただの精霊使いですよ。それに、ご飯が美味しくないのは嫌ですから」
彼の腕の中は温かかった。
こうして、私たちは二人三脚で、辺境の改革に乗り出すことになった。
「食糧難を解決し、民を救う」。
それが、私たちの最初の共同作業だ。
一方その頃、王都では。
「なぜだ! なぜパンが一つもない!」
ギルバート殿下が王宮の厨房で怒鳴り散らしていた。
度重なる長雨で小麦が全滅し、王都の食糧庫がついに底をつき始めていたのだ。
「ミラ! なんとかしろ!」
「無理ですわ! 祈っても祈っても、パンなんか降ってきませんもの!」
泥沼のような王都と、少しずつ春を取り戻していく辺境。
運命の天秤は、音を立てて傾き始めていた。
続く
私はこの極寒の地での暮らしに、少しずつ慣れ始めていた。
屋敷の中は精霊たちのおかげで常に快適な温度に保たれているし、使用人の方々も――最初は「氷の公爵が連れてきた謎の女」と警戒していたようだけれど、温室の一件以来、とても親切にしてくれる。
ただ一つ、気になっていることがあった。
それは、食事だ。
「……硬い」
朝食の席で、私は黒パンをちぎりながら内心で呟いた。
北の地は冬が長く、作物が育ちにくい。そのため、食事はどうしても保存食が中心になる。
塩漬けの肉、乾燥させた野菜、カチカチに凍った魚、そして石のように硬いパン。
調理法も「焼く」か「煮る」かの二択で、味付けは保存性を高めるためにとにかく塩辛い。
もちろん、贅沢を言うつもりはない。実家で残飯同然の食事を与えられていた頃に比べれば、お腹いっぱい食べられるだけで幸せだ。
でも、ヴァルド様の顔色がいつ見ても優れないのが心配だった。
彼は黙々と食事を口に運ぶけれど、それは「味わう」というより「摂取する」という作業に見える。
『ヴァルド、また塩辛いの食べてる』
『あいつ、味覚あるのかな?』
『野菜が泣いてるよー。もっと美味しくなりたいって言ってるよー』
テーブルの周りで、精霊たちが文句を言っている。
彼らの声を聞いて、私は決意した。
精霊使いとして、そして(仮)公爵夫人として、食卓改革を起こさなければ!
◇
その日の午後、私は厨房へと足を運んだ。
「あ、アリア様!?」
調理場でジャガイモの皮を剥いていた料理長が、飛び上がって驚いた。
熊のような巨躯に、強面の男性だ。名前はガストンさんというらしい。
「い、いけません! 貴族の姫君がこのような煤けた場所に来られては!」
「こんにちは、ガストンさん。少し相談があって来たのですが、よろしいですか?」
「そ、相談? 俺の料理が口に合いませんでしたか!? 申し訳ありません、何しろ新鮮な食材が手に入らないもので……」
ガストンさんは大きな体を小さくして怯えている。どうやら、私が文句を言いに来たと思ったようだ。
私は慌てて首を振った。
「違います! ガストンさんのスープ、塩加減が絶妙で美味しいです。ただ……少し、私にも手伝わせていただけないかと思いまして」
「て、手伝う? アリア様が?」
「はい。実家では……その、よく料理をしていましたから」
(使用人の手が足りないからと、パーティー料理の下ごしらえを全部押し付けられていたなんて、言えないけれど)
私は籠に盛られた萎びた野菜たちを見た。
長い冬を越すために地下室で保管されていた根菜類だ。水分が抜け、精気がない。
「このお野菜たち、まだ生きています。少し手を貸してあげれば、きっともっと美味しくなるはずです」
私は籠に手をかざした。
「水の精霊ウンディーネ、清らかな水を少し分けて。土の精霊ノーム、野菜たちに大地の記憶を思い出させて」
私の呼びかけに応じ、空気中の水分が集まって野菜を包み込む。
しわしわだった人参やジャガイモが、見る見るうちに瑞々しさを取り戻し、パンパンに張り詰めた。
色も鮮やかになり、まるで採れたてのような輝きを放ち始める。
「な、なんじゃこりゃあ!?」
ガストンさんが目玉が飛び出そうなほど驚いている。
「し、死にかけてた野菜が、朝採れみたいに……!」
「精霊の力を借りて、本来の生命力を引き出したんです。これを使って、今夜はシチューを作りませんか? 私が火加減を見ますから」
「は、はい! ぜひ! ぜひお願いします!」
そこからのガストンさんは早かった。
「おいお前ら! 最高級の野菜が手に入ったぞ! 気合入れて刻め!」
「へいっ!」
厨房に活気が戻る。
私はかまどの前に立ち、火の精霊サラマンダーにお願いして、絶妙な火加減を調整してもらう。
煮込み料理は火加減が命だ。精霊なら、食材の中心まで均一に熱を通すことができる。
コトコトと鍋が音を立て、厨房いっぱいに甘く優しい香りが満ちていく。
牛乳の代わりに、雪牛(ユキウシ)の濃厚なミルクを使い、隠し味に北国産のハーブを加える。
最後に、仕上げの魔法(スパイス)をひと振り。
「……できた」
味見をしたガストンさんが、震える手でスプーンを落としそうになった。
「こ、これが……俺の知ってるシチューか? なんだこの、心の臓まで染み渡るような優しさは……」
周りの料理人たちも、香りを嗅ぐだけでうっとりとした表情をしている。
よし、これならヴァルド様も喜んでくれるはず。
◇
夕食の時間。
執務を終えたヴァルド様が食堂に入ってきた。
いつも通り、その表情は凍りついたように硬い。背後には今日も巨大な氷の精霊王(仮)が守護霊のように浮いている。
「……いい匂いだ」
席に着くなり、ヴァルド様が鼻をひくつかせた。
「今日は何か特別な日だったか?」
「いいえ、ただの夕食です。でも、少しだけ私が監修させていただきました」
私が微笑むと、執事が恭しく銀の蓋を開けた。
湯気と共に、黄金色のシチューが姿を現す。
彩り豊かな人参、ホクホクのジャガイモ、そしてとろけるように煮込まれた肉。
ヴァルド様はスプーンを手に取り、まずはスープを一口。
その瞬間。
カチン、と彼の動きが止まった。
「…………」
沈黙が流れる。
ま、まずかっただろうか。北の人の味覚には合わなかった?
不安になって見守っていると、ヴァルド様がゆっくりと息を吐いた。
「……温かい」
ポツリと漏らしたその声は、震えていた。
「味が、する。野菜の甘みと、肉の旨味……それらが喧嘩せずに、溶け合っている。何より……」
彼は胸元をぎゅっと押さえた。
「食べた瞬間、体の中の氷が溶けていくようだ。こんなに温かいものを食べたのは、母上が亡くなって以来かもしれない」
見ると、彼の背後にいる氷の精霊たちが、とろ〜んと溶けかけたアイスクリームのような顔をしている。
『うまーい!』
『これ最高! アリア天才!』
『ヴァルドが幸せそうだから、今日は部屋を凍らせるのやめてあげる!』
精霊たちの満足感が伝播したのか、ヴァルド様の瞳が潤んでいるように見えた。
彼は二口、三口とスプーンを進める。いつもなら機械的に食べる彼が、今日は一口ごとに味わい、慈しむように食べている。
「アリア」
完食した皿を置いて、ヴァルド様が私を呼んだ。
「はい」
「……美味かった。礼を言う」
短い言葉。でも、その瞳に宿る熱は、どんな雄弁な賛辞よりも雄弁だった。
「お粗末様でした。気に入っていただけて嬉しいです」
食事が終わり、デザートの果物(これも精霊の力で甘くしたもの)を食べていると、ヴァルド様がそわそわし始めた。
指先でテーブルを叩いたり、チラチラと私を見たり。
何か言いたげな様子だ。
「あの、ヴァルド様? 何か……」
「あー、いや。その」
最強の公爵様が、借りてきた猫のように挙動不審になっている。
彼は意を決したように立ち上がると、懐から何かを取り出した。
「これを」
差し出されたのは、掌サイズの小さな小箱だった。
「君が……料理をしてくれたと聞いてな。厨房は火を使うし、刃物もある。危険な場所だ」
彼は真剣な顔で説明を始めた。
「君の美しい指に傷がついたら大変だ。それに、君は寒がりだから(※私は寒くないが、彼の中ではそうなっているらしい)、水仕事で手が荒れるのも良くない」
箱を開けると、そこに入っていたのは指輪――ではなく、薄手の、しかし不思議な光沢を放つ手袋だった。
「これは?」
「氷蜘蛛(アイススパイダー)の糸で織った手袋だ。刃を通さず、火にも耐え、常に適温を保つ魔道具になっている。これをしていれば、厨房でも怪我をすることはない」
……すごい。
国宝級の素材である氷蜘蛛の糸を、まさか料理用の手袋にするなんて。
王都の貴族が聞いたら卒倒するような贅沢だ。
でも、それ以上に。
「君が料理をしたいというなら止めない。だが、俺は心配で仕事が手につかなくなる。……だから、これを着けてくれ」
不器用な優しさが、胸に染みた。
彼は「料理なんて下賤なまねはするな」とは言わない。私の意思を尊重し、その上で安全を守ろうとしてくれている。
元婚約者のギルバート殿下が、私の作った刺繍を見て「こんな安っぽいもの、王族が使えるか」と鼻で笑ったのとは大違いだ。
「ありがとうございます、ヴァルド様。……大切に使います」
私が手袋を受け取ると、彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「ああ。……それと、もう一つ」
まだあるの?
「明日は時間を空けておいてくれ。領内の視察に行く」
「視察、ですか?」
「ああ。君にも見てほしいものがある。……この地の、現実を」
彼の声のトーンが、ふっと下がった。
さっきまでの甘い雰囲気とは違う、領主としての真剣な顔つき。
「今日のシチューは本当に美味かった。だが、あのような新鮮な野菜は、今の領内にはもうほとんど残っていない。……我が領は今、未曾有の食糧危機に瀕しているんだ」
◇
翌日。
私たちは馬車に乗り、公爵領の視察へと出かけた。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの雪原。
しかし、村や町を通ると、その深刻さが明らかになった。
「……酷い」
家々の屋根は雪の重みで歪み、道を歩く人々は痩せ細っている。
市場にはほとんど商品が並んでおらず、あっても干からびた芋や、骨ばかりの魚だけ。
子供たちは寒さに震えながら、空っぽの籠を持って立ち尽くしている。
「ここ数年、寒波が厳しくなる一方でな。作物は育たず、魔獣は凶暴化し、交易も雪で閉ざされがちだ」
隣に座るヴァルド様が、苦しげに言った。
「私は氷の魔法で魔獣を狩ることはできる。だが、作物を育てることはできない。私の魔力は強すぎて、触れるもの全てを凍らせてしまうからだ」
彼は自分の手を忌々しげに見つめた。
「領民たちが飢えているのに、領主である私は何もできない。……私は無力だ」
『ヴァルド、泣かないで』
『ボクたちがいるよ』
精霊たちが慰めるように彼の周りを飛ぶが、ヴァルド様には届かない。
「王都に支援を要請したが、『辺境のことは辺境でなんとかしろ』と門前払いだ。……いや、あちらも天候不順で余裕がないのかもしれんが」
王都の天候不順。それは間違いなく、私が去ったことによる精霊の怒りが原因だ。
そして、この地の寒波。
これは、ヴァルド様の魔力が暴走しているせいもあるけれど、それ以上に「土地が眠ってしまっている」感じがする。
私は窓を開け、外の空気に触れた。
冷たい風の中に、微かな精霊たちの声が混じっている。
『寒いよー』
『眠いよー』
『お腹すいたー』
土の精霊や、植物の精霊たちが、深い雪の下で縮こまっている声だ。
「……ヴァルド様」
私は彼の手を握った。
氷のように冷たい手。でも、手袋越しに私の体温が伝わると、彼が驚いたようにこちらを見た。
「貴方様は無力じゃありません。魔獣から民を守り、こうして心を痛めている。素晴らしい領主様です」
「アリア……」
「それに、諦めるのはまだ早いです。……私に、任せていただけませんか?」
「君に?」
「はい。昨日の温室を覚えていますか? あれと同じことを、この大地でもやってみたいんです」
私は馬車を止めさせ、雪の積もる畑へと降り立った。
膝まで埋まる雪。その下には、凍てついた大地がある。
普通の農業なら絶望的な状況だ。
でも、私には最強の味方がいる。
「みなさん、出ておいで!」
私が呼びかけると、馬車の中に隠れていた小さな精霊たちがわらわらと飛び出してきた。
さらに、ヴァルド様の周りにいた氷の精霊たちにも声をかける。
「氷の精霊さん、少しだけ場所を空けて。土の精霊さん、起きて! 太陽の精霊さん、ここに光の道を作って!」
私の魔力を依り代に、精霊たちが一斉に動き出す。
ヴァルド様が目を見開いて見守る中、雪原の一部で、雪が解け、黒い土が顔を出した。
もちろん、領地全部を一気に春にすることはできない。
でも、小さな「春の拠点」を作ることはできる。
「ヴァルド様。貴方様の氷の魔力で、この畑の周りに風除けの壁を作ってください。透明で、光を通す壁を」
「ビニールハウスのようなものか? ……やってみよう」
ヴァルド様が手をかざすと、畑を囲むように美しい氷の壁が出現した。
それは太陽の光を集め、内部の温度を逃がさない、天然の温室だ。
彼の「凍らせる力」が、「守る力」に変わった瞬間だった。
「すごい……。これなら、冬の間でも野菜が育てられる」
ヴァルド様が、信じられないものを見る目で呟いた。
「俺の氷が、作物を守っているのか……?」
「はい。貴方様の氷は、使い方次第で命を育むゆりかごになるんです」
私が微笑むと、彼は突然、雪の中で私を抱きしめた。
騎士たちや村人が見ているのも構わずに。
「アリア。……君は本当に、この地に舞い降りた女神かもしれない」
「ただの精霊使いですよ。それに、ご飯が美味しくないのは嫌ですから」
彼の腕の中は温かかった。
こうして、私たちは二人三脚で、辺境の改革に乗り出すことになった。
「食糧難を解決し、民を救う」。
それが、私たちの最初の共同作業だ。
一方その頃、王都では。
「なぜだ! なぜパンが一つもない!」
ギルバート殿下が王宮の厨房で怒鳴り散らしていた。
度重なる長雨で小麦が全滅し、王都の食糧庫がついに底をつき始めていたのだ。
「ミラ! なんとかしろ!」
「無理ですわ! 祈っても祈っても、パンなんか降ってきませんもの!」
泥沼のような王都と、少しずつ春を取り戻していく辺境。
運命の天秤は、音を立てて傾き始めていた。
続く
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