あさのかお
十五話(最終話)
強面のマネージャーが旺介を睨みつける。
「お戻りください。これは弊社にとっても重大かつ大変遺憾な案件です」
「話し合おうよ、浅倉くん」
廉はゆらりと立ち上がり、旺介と距離を詰める。長身の彼は旺介を見下ろす形になった。
不気味な微笑みをしまい込み、人を殺せそうなほど冷たい視線を向ける。
「……どういうことか、説明しろよ」
「ヒイッ」
迫力と恐怖で廉の喉がヒュッと鳴る。
廉越しに見えるテレビ画面では、凛子があす香にワインをかけていた。
(――ああ、凛子にはすべてバレていたのか)
旺介はやっと悟った。
もう終わりだ。凛子にも廉にもバレた。生放送でこんなことをされてはあす香もどうなるかわからない。
地獄に突き落とされたような絶望感が旺介を襲う。彼はがばりと廉の足元にうずくまり、何度も何度も頭を下げた。
「すいません……っ! ほんの、ほんの出来心でやらかしてしまいました! あす香さんとは二度と会いません! だからどうか……っ!」
「……おい、寝言は寝て言えよ」
廉は旺介の髪を掴んで顔を自分に向かせる。旺介の瞳が恐怖で見開いた。
「凛子さんをどれだけ傷つけたかわかってるのか? 何の罪もない、お前みたいな男のために一生懸命頑張っていた彼女の心を踏みにじったんだぞ。謝ってハイ終わり、なんてあってたまるか」
「いっ! 慰謝料でございますか!? 払います、払いますからっ!」
「金の問題じゃない。ほんとうに反吐が出るなこの男は」
廉は旺介を勢いよく突き放し、軽蔑した目で見下ろす。
「……逢沢。損失の見積もりは?」
廉が言うと、強面マネージャーの逢沢が懐から電卓を取り出して計算を始める。
「夫婦共演番組のキャンセル料が三百万。夫婦共演CMの違約金が一千万。イメージダウンによる機会損失の見込みが五百万。精神的苦痛による慰謝料が二百万として……」
「……ざっと二千万か。おい、金で解決したいと言うのなら最低二千万円は払ってもらう」
「にっ、二千万……!? そんな無茶な……」
旺介は莫大な金額に狼狽する。まさかそれほどの代償を払うことになるとは……初めて実感が湧いてきたようだった。
「このほかにも、当然凛子さんにも慰謝料は払ってもらう」
「にっ、二千万なんて……それはさすがに……それに凛子にも……? たかが不倫で……」
旺介が弱々しく抵抗すると、廉は彼の胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。俳優の顔を脱ぎ捨てて、心の底から怒りを滲ませていた。
「ヒイッ!!」
「とことんクズな男だな。情けをかけるまでもなかったか」
怯える旺介を廉は射貫くように見つめる。
「払えないというのなら身体で払ってもらうことになる」
「かっ、身体!?」
「そうだ。おまえの身体だ」
廉はニヤリとして背筋が凍るような笑顔を浮かべた。
「二度と不倫なんてできないように去勢しろ。そうしたら俺の二千万はまけてやる。凛子さんだけに慰謝料を払えばいい」
「きょっ……!?」
旺介は冗談だろと思ったが、廉の目は一切笑っていなかった。
「安心しろ、美容外科の名医を紹介する。思い立ったらいつでも施術できるように、おまえの会社には今朝退職届を出しておいた。今日の現場で取り返しのつかないミスをしたと逢沢が怒りの連絡を入れている。先方は平謝りで、スムーズに受理されたよ」
「なっ……!?」
「いいか、間違えるなよ。何もかもを失ったのはおまえじゃなくて凛子さんだ。被害者ぶった表情は反吐が出るからやめてくれ」
旺介は顔を赤くしたり青くしたりして口をパクパクさせる。言い返してやりたいのに、なんにも言葉が出ないようだった。
「……逢沢。連れて行ってくれ」
「はい」
マネージャーの逢沢と、スタッフたちが旺介の身体をがしりと掴む。
「やめろ! 離せ! 勝手に何してくれるんだ! 俺はなにひとつ同意してない!」と騒ぐ旺介を部屋から引きずり出し、ハウススタジオの外へ連れ出していく。廉が窓から地上を見下ろすと、道路わきの黒いバンに旺介が押し込まれていた。
「……心の底から反省するまでは、おまえが幸せになる資格はない」
廉は深いため息をついて椅子に腰を下ろす。
スマホを取り出して、待ち受け画面に頬を緩ませる。廉と凛子、夏海と愛理と撮った、みんな笑顔の素敵な写真だった。
「……終わったよ、凛子さん。きみはもう自由だ」
写真集の撮影というのは嘘だった。今日は一日、このために空けていた。
まだ空港に行けば間に合うかなと思いながら、廉は上着に手をかけた。
◇◇◇
羽田空港。手荷物検査を済ませた凛子は搭乗口前の椅子に腰を下ろす。
会社を出てから振動しっぱなしだったスマホを確認すると、会社からの鬼のような着信に混じって、夏海と廉からのメッセージ通知が目に入った。
「夏海……!」
同期であり、戦友であり親友でもある夏海。凛子は目の端に涙を滲ませながらメッセージを開く。
『ナイス凛子! いま会社は大騒ぎ! 望月あす香のやつ、なんか機密情報の漏洩にも関わってたっぽくて、刑事事件になるかもらしい! ほんと、がんばったね。気を付けて実家に帰ってね。落ち付いたら連絡ちょーだい』
「ありがとう。夏海が居なかったら、わたしは途中で心が折れていたに違いないもの……」
凛子はここ数か月のことを振り返り、目元を拭った。
SNSのアプリを開き、『いただきママ』のフォローを解除する。いただきママの最後の投稿は、どこかの高級ホテルで撮られたバスローブ姿の胸元とアフタヌーンティーセットだった。
もうこのアカウントが更新されることはないだろう。そして、自分が閲覧することも、未来永劫ないだろう。
スマホの画面をタップして戻り、廉からのメッセージを開く。
『旦那さんへの復讐も無事に済んだから安心して。あと、朝のテレビ見たよ。俺もやられっぱなしだったから、かなり胸がすいた。――ありがとう』
廉が旺介にどういう復讐をしたのか凛子は知らない。今までいくら訊ねても教えてもらえなかった。
しかし、廉は正しい判断ができる人間だと思っている。同じ不倫の被害者だし、思うようにやり返す権利があると思ったから、それ以上凛子は口を挟まなかった。
「……うまくいったのね。小瀬田さんも救われたなら、よかった」
凛子はスマホを胸に当て、改めて重責からの解放を実感する。
搭乗のアナウンスが流れたので、キャリーケースに手をかけて立ち上がると。
「――凛子さん!」
名前を呼ばれて振り返る。肩で息を切らす廉だった。
「小瀬田さん」
凛子が驚くと、廉は「間に合ってよかった」と呟いた。
「見送りに来てくれたんですか?」
凛子がクスクス微笑みながら訊ねると――廉は彼女を抱きしめた。
「僕は……凛子さんに惹かれている。問題が片付いたばかりだけど、今を逃したら次の機会はないかもしれない。そうなったら絶対に後悔する。どうしても直接伝えておきたくて」
「……小瀬田さん……」
廉は一度身を離し、真っ直ぐに凛子の目を見つめた。そして「好きだ」と伝えた。
凛子は自分の顔が真っ赤になっている自覚を持ちながらも――照れくささを隠すように口角を上げる。
「……小瀬田さんは、わたしにはもったいない人です。それに、身近にもっといい女性がいるように思います」
「そんな人はいない。僕は絶対に浮気なんてしないよ」
「もちろんわかってます。小瀬田さんと知り合ってから、誠実な方だっていうのはずっと感じてきましたから。……だから住むところが離れても、大切な友人だと思ってます」
凛子が告げると、廉ははっと僅かに目を見開いた後、寂しさを隠さず微笑んだ。
「……それが答え?」
「……はい。生涯忘れることのない、戦友であり友人です」
「……わかった。乗り遅れたら大変だから……今日はひとまず引き下がるよ。どうか身体に気を付けて」
「ありがとうございます。愛理ちゃんに、離れても相棒だよって伝えてください」
踵を返して搭乗口に向かう。
両目からは、我慢していた涙がこぼれおちてきた。
(……大丈夫。これもまた、いつかは懐かしい思い出になるはずだから)
夏海が廉に惹かれていることには、少し前から気がついていた。ただ夏海本人がそのことを自覚しているかはわからない。
彼女のおおらかで優しい性格であれば、愛理ちゃんの善き母親にもなれるだろう。
夏海のために諦めたわけではない。自分の廉への気持ちは、喪失感を埋めるための支えを探すものに近かった。そんな状態で彼と交際することがあってはいけない。次こそ廉にも幸せになってほしかったから。
飛行機が轟音を立ててエンジンをふかす。
徐々に加速し、機体が地面を離れ、高度を増してゆく。
(……空、きれい。東京ががあんなにも小さく見える……)
いつの間にか、凛子の涙は乾いていた。
次に地上の土を踏んだあとは、自分の幸せだけを考えて生きていこう。
そう心に誓って、青空にも負けない晴れやかな笑顔を浮かべるのだった。
(了)
「お戻りください。これは弊社にとっても重大かつ大変遺憾な案件です」
「話し合おうよ、浅倉くん」
廉はゆらりと立ち上がり、旺介と距離を詰める。長身の彼は旺介を見下ろす形になった。
不気味な微笑みをしまい込み、人を殺せそうなほど冷たい視線を向ける。
「……どういうことか、説明しろよ」
「ヒイッ」
迫力と恐怖で廉の喉がヒュッと鳴る。
廉越しに見えるテレビ画面では、凛子があす香にワインをかけていた。
(――ああ、凛子にはすべてバレていたのか)
旺介はやっと悟った。
もう終わりだ。凛子にも廉にもバレた。生放送でこんなことをされてはあす香もどうなるかわからない。
地獄に突き落とされたような絶望感が旺介を襲う。彼はがばりと廉の足元にうずくまり、何度も何度も頭を下げた。
「すいません……っ! ほんの、ほんの出来心でやらかしてしまいました! あす香さんとは二度と会いません! だからどうか……っ!」
「……おい、寝言は寝て言えよ」
廉は旺介の髪を掴んで顔を自分に向かせる。旺介の瞳が恐怖で見開いた。
「凛子さんをどれだけ傷つけたかわかってるのか? 何の罪もない、お前みたいな男のために一生懸命頑張っていた彼女の心を踏みにじったんだぞ。謝ってハイ終わり、なんてあってたまるか」
「いっ! 慰謝料でございますか!? 払います、払いますからっ!」
「金の問題じゃない。ほんとうに反吐が出るなこの男は」
廉は旺介を勢いよく突き放し、軽蔑した目で見下ろす。
「……逢沢。損失の見積もりは?」
廉が言うと、強面マネージャーの逢沢が懐から電卓を取り出して計算を始める。
「夫婦共演番組のキャンセル料が三百万。夫婦共演CMの違約金が一千万。イメージダウンによる機会損失の見込みが五百万。精神的苦痛による慰謝料が二百万として……」
「……ざっと二千万か。おい、金で解決したいと言うのなら最低二千万円は払ってもらう」
「にっ、二千万……!? そんな無茶な……」
旺介は莫大な金額に狼狽する。まさかそれほどの代償を払うことになるとは……初めて実感が湧いてきたようだった。
「このほかにも、当然凛子さんにも慰謝料は払ってもらう」
「にっ、二千万なんて……それはさすがに……それに凛子にも……? たかが不倫で……」
旺介が弱々しく抵抗すると、廉は彼の胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。俳優の顔を脱ぎ捨てて、心の底から怒りを滲ませていた。
「ヒイッ!!」
「とことんクズな男だな。情けをかけるまでもなかったか」
怯える旺介を廉は射貫くように見つめる。
「払えないというのなら身体で払ってもらうことになる」
「かっ、身体!?」
「そうだ。おまえの身体だ」
廉はニヤリとして背筋が凍るような笑顔を浮かべた。
「二度と不倫なんてできないように去勢しろ。そうしたら俺の二千万はまけてやる。凛子さんだけに慰謝料を払えばいい」
「きょっ……!?」
旺介は冗談だろと思ったが、廉の目は一切笑っていなかった。
「安心しろ、美容外科の名医を紹介する。思い立ったらいつでも施術できるように、おまえの会社には今朝退職届を出しておいた。今日の現場で取り返しのつかないミスをしたと逢沢が怒りの連絡を入れている。先方は平謝りで、スムーズに受理されたよ」
「なっ……!?」
「いいか、間違えるなよ。何もかもを失ったのはおまえじゃなくて凛子さんだ。被害者ぶった表情は反吐が出るからやめてくれ」
旺介は顔を赤くしたり青くしたりして口をパクパクさせる。言い返してやりたいのに、なんにも言葉が出ないようだった。
「……逢沢。連れて行ってくれ」
「はい」
マネージャーの逢沢と、スタッフたちが旺介の身体をがしりと掴む。
「やめろ! 離せ! 勝手に何してくれるんだ! 俺はなにひとつ同意してない!」と騒ぐ旺介を部屋から引きずり出し、ハウススタジオの外へ連れ出していく。廉が窓から地上を見下ろすと、道路わきの黒いバンに旺介が押し込まれていた。
「……心の底から反省するまでは、おまえが幸せになる資格はない」
廉は深いため息をついて椅子に腰を下ろす。
スマホを取り出して、待ち受け画面に頬を緩ませる。廉と凛子、夏海と愛理と撮った、みんな笑顔の素敵な写真だった。
「……終わったよ、凛子さん。きみはもう自由だ」
写真集の撮影というのは嘘だった。今日は一日、このために空けていた。
まだ空港に行けば間に合うかなと思いながら、廉は上着に手をかけた。
◇◇◇
羽田空港。手荷物検査を済ませた凛子は搭乗口前の椅子に腰を下ろす。
会社を出てから振動しっぱなしだったスマホを確認すると、会社からの鬼のような着信に混じって、夏海と廉からのメッセージ通知が目に入った。
「夏海……!」
同期であり、戦友であり親友でもある夏海。凛子は目の端に涙を滲ませながらメッセージを開く。
『ナイス凛子! いま会社は大騒ぎ! 望月あす香のやつ、なんか機密情報の漏洩にも関わってたっぽくて、刑事事件になるかもらしい! ほんと、がんばったね。気を付けて実家に帰ってね。落ち付いたら連絡ちょーだい』
「ありがとう。夏海が居なかったら、わたしは途中で心が折れていたに違いないもの……」
凛子はここ数か月のことを振り返り、目元を拭った。
SNSのアプリを開き、『いただきママ』のフォローを解除する。いただきママの最後の投稿は、どこかの高級ホテルで撮られたバスローブ姿の胸元とアフタヌーンティーセットだった。
もうこのアカウントが更新されることはないだろう。そして、自分が閲覧することも、未来永劫ないだろう。
スマホの画面をタップして戻り、廉からのメッセージを開く。
『旦那さんへの復讐も無事に済んだから安心して。あと、朝のテレビ見たよ。俺もやられっぱなしだったから、かなり胸がすいた。――ありがとう』
廉が旺介にどういう復讐をしたのか凛子は知らない。今までいくら訊ねても教えてもらえなかった。
しかし、廉は正しい判断ができる人間だと思っている。同じ不倫の被害者だし、思うようにやり返す権利があると思ったから、それ以上凛子は口を挟まなかった。
「……うまくいったのね。小瀬田さんも救われたなら、よかった」
凛子はスマホを胸に当て、改めて重責からの解放を実感する。
搭乗のアナウンスが流れたので、キャリーケースに手をかけて立ち上がると。
「――凛子さん!」
名前を呼ばれて振り返る。肩で息を切らす廉だった。
「小瀬田さん」
凛子が驚くと、廉は「間に合ってよかった」と呟いた。
「見送りに来てくれたんですか?」
凛子がクスクス微笑みながら訊ねると――廉は彼女を抱きしめた。
「僕は……凛子さんに惹かれている。問題が片付いたばかりだけど、今を逃したら次の機会はないかもしれない。そうなったら絶対に後悔する。どうしても直接伝えておきたくて」
「……小瀬田さん……」
廉は一度身を離し、真っ直ぐに凛子の目を見つめた。そして「好きだ」と伝えた。
凛子は自分の顔が真っ赤になっている自覚を持ちながらも――照れくささを隠すように口角を上げる。
「……小瀬田さんは、わたしにはもったいない人です。それに、身近にもっといい女性がいるように思います」
「そんな人はいない。僕は絶対に浮気なんてしないよ」
「もちろんわかってます。小瀬田さんと知り合ってから、誠実な方だっていうのはずっと感じてきましたから。……だから住むところが離れても、大切な友人だと思ってます」
凛子が告げると、廉ははっと僅かに目を見開いた後、寂しさを隠さず微笑んだ。
「……それが答え?」
「……はい。生涯忘れることのない、戦友であり友人です」
「……わかった。乗り遅れたら大変だから……今日はひとまず引き下がるよ。どうか身体に気を付けて」
「ありがとうございます。愛理ちゃんに、離れても相棒だよって伝えてください」
踵を返して搭乗口に向かう。
両目からは、我慢していた涙がこぼれおちてきた。
(……大丈夫。これもまた、いつかは懐かしい思い出になるはずだから)
夏海が廉に惹かれていることには、少し前から気がついていた。ただ夏海本人がそのことを自覚しているかはわからない。
彼女のおおらかで優しい性格であれば、愛理ちゃんの善き母親にもなれるだろう。
夏海のために諦めたわけではない。自分の廉への気持ちは、喪失感を埋めるための支えを探すものに近かった。そんな状態で彼と交際することがあってはいけない。次こそ廉にも幸せになってほしかったから。
飛行機が轟音を立ててエンジンをふかす。
徐々に加速し、機体が地面を離れ、高度を増してゆく。
(……空、きれい。東京ががあんなにも小さく見える……)
いつの間にか、凛子の涙は乾いていた。
次に地上の土を踏んだあとは、自分の幸せだけを考えて生きていこう。
そう心に誓って、青空にも負けない晴れやかな笑顔を浮かべるのだった。
(了)
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