あさのかお
八話
「ねえ旺介くん。最近凛子ちゃんになにか変わりはあった?」
箱根のとある高級旅館の一室。若い男女が客室露天風呂で身を寄せ合っていた。
「いや、わかんないっす。凛子のやつ家に帰ってきてないんで」
「まあ。喧嘩?」
「いや、多分ホルモンバランス的なやつじゃないですか? あいつ、何だっけな。多嚢胞性なんちゃら……っていう婦人科系の病気があるんで。妊娠しづらい体質みたいで、ホルモン治療してるとか言ってた気がします。気分の波が激しいんですよ」
「子供ができづらいと苦労が多いのね。わたしには無縁な世界だからわからないけど……」
「まあ、そのうち帰ってくるから放っておきます。凛子の実家は北海道なんで、東京に帰る場所なんてないんです」
旺介は、不倫がバレたことを知らないようだった。一人だけ何も知らずに呑気ねとあす香は心のなかで呆れる。
旺介が愚かな男だということは知っていたが、あちらのほうはすごくいい。夫で満たされない欲を晴らし、自分がまだまだ極上の女であることを実感するには最高の相手。簡単に手放すことができないくらいには、旺介の身体に溺れていた。
「だから、今のうちにたくさんあす香さんを感じておきたい……」
旺介は彼女の背後から腕を回し、なめらかな女体に触れた。
一度落ち着いていた熱はすぐに火を取り戻す。そのまま二人は享楽の波に呑まれる。
――茂みからのぞく黒いカメラが、一心に二人を撮影していることも知らずに。
◇◇◇
妻の凛子と出会ったのは、大学の広告研究会だった。
俺が四年生になった年の新入生が凛子だった。
新歓ではなまり混じりの言葉で挨拶をしていて、陽キャの四年からずいぶんからかわれていた。凛子は「えへへ……」と頭をかいて照れたように笑っていた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの新人女子アナ・望月あす香をOGに持つこの研究会は、派手なグループとそうでないグループの差が激しい。俺は後者だったが、陽キャに気に入られたこの子はそっちのグループに入るのだろうなと思った。
しかし、意外なことに凛子は俺が属する地味なグループの輪にいることが多かった。田舎出身だからか騒がしい場所は苦手で、ここが落ち着くのだと言っていた。
小柄な体型ながら凛子は真っ直ぐな性格でエネルギーにあふれていた。授業をフルコマで取りながら、研究会の活動にも必ず万全の準備で望んでいた。
先輩として相談を受けたり、アドバイスを送ったりしているうちに、自然と惹かれ合うようになった。七夕の日に凛子に告白して、付き合うことになった。
数年は忙しくも楽しい日々が続いていた。凛子は料理が上手く、身の回りのこともすべて完璧にこなした。「実家が農家だからね、料理は母さんの手伝いで自然に覚えたの。弟は年が離れているから面倒見ることも多かったしね……」よく俺の家に来ては世話を焼いてくれた。
くたくたで仕事から帰っても、きれいな部屋に温かい料理が作られている。この子と付き合えてよかったと心から誇らしかった。
関係性が変わってしまったのは、おそらく凛子が就職して同棲するようになった頃からか。
ADはとにかく忙しい。番組の準備や収録した素材の編集が深夜に及ぶこともザラ。凛子の眉間にはつねに皺が寄るようになり、言葉にトゲが増えた。
「旺ちゃんのほうが帰りが早いんだから、夕飯の担当してくれると嬉しいんだけど」
「あーっ! シャンプー切らしてるじゃない。自分で買わないならわたしに連絡入れて? 帰りに買ってくるから」
「ごめんっ、明日ロケで早いから先に寝るね」
俺にしてほしいことや、我慢を強いるようなことしか言わなくなっていった。以前はあんなに気立てが良くて愛情深く世話してくれていたのに。
彼女でいいのかと思わなくもなかったが、今さら他の女性を探すのも面倒だったので、翌年には籍を入れた。派手にしたくないという凛子の意向を汲んで、お互いの家族だけを呼んだこぢんまりした結婚式だった。
凛子の仕事が落ち着いたら、また前のように優しく接してくれるだろうと思っていたが、それは間違いだった。
仕事にある程度慣れてくると、凛子はそろそろ子供のことも考えたいと言い始めた。そして勝手に婦人科に行き、多嚢胞性なんちゃらとかいう病気が見つかったと言って落ち込んでいた。
(おいおい勘弁してくれよ……。いつになったら俺は楽ができるんだ?)
妊活が、とか仕事が、という言葉が耳障りだった。
「共働きだから、家事を折半してくれると嬉しいんだけど」
その言葉も嫌だった。俺の母ちゃんも働いていたけど、家ではすべての家事を担っていたし。凛子は融通が利かないバズレの女だったことにようやく気がついた。
俺自身、子供は好きだ。だけど今この状況でできてみろ。俺はもっと大変になる。女性は母ちゃんみたい仕事をしながら家事育児に邁進するのが大前提だ。そしてエネルギッシュな凛子ならそれができると思ったから将来を約束したというのに――。
裏切られた気持ちで毎日を過ごしていたある日、体調を崩した先輩カメラマンの代打で春秋テレビのシフトに入った。
そこで俺は再会することになる。
俺が新入生だったときの四年生で、百合のように気高く美しかったひと――望月あす香。
「もしかして、浅倉くん?」
覚えてくれたことに、全身が歓喜の渦に飲み込まれる。
収録後、旧交を温めようと食事に誘われた。同じ映像業界にいるのだからと連絡先を交換した。
何度か会ううちに酒の勢いで身体の関係を持った。あす香さんはすでに既婚者だったが、旦那が不能で悩んでいると言っていた。子供を産んで、女性としての魅力が無くなったのかしら、とひどく悩んでいる様子だった。
『廉さんのために愛梨を産んだのに。わたしはもう用済みなんだわ。……夫婦いつまでも仲よくいられると思っていたのに、こんなのひどい』
さめざめと涙を流すあす香さんを抱きしめながら、『思っていたのと違う』という気持ちが痛いほどにわかった。俺だって凛子を選ばなければよかったと思っていたから。『こんなことになるなら結婚しなかったのに』と。
俺の身体であす香さんが満たされる。あの売れっ子俳優にできなかったことを俺はしている。肌を重ねると、生きている実感を取り戻すことができた。
不倫という形ではあるが、これは必然だと思った。そして俺は悪くない。この状況は、すべて凛子の至らなさが招いたものだから。
――これはあいつが俺をないがしろにしたことを謝って、また尽くすようになるまでの罰なのだ。
箱根のとある高級旅館の一室。若い男女が客室露天風呂で身を寄せ合っていた。
「いや、わかんないっす。凛子のやつ家に帰ってきてないんで」
「まあ。喧嘩?」
「いや、多分ホルモンバランス的なやつじゃないですか? あいつ、何だっけな。多嚢胞性なんちゃら……っていう婦人科系の病気があるんで。妊娠しづらい体質みたいで、ホルモン治療してるとか言ってた気がします。気分の波が激しいんですよ」
「子供ができづらいと苦労が多いのね。わたしには無縁な世界だからわからないけど……」
「まあ、そのうち帰ってくるから放っておきます。凛子の実家は北海道なんで、東京に帰る場所なんてないんです」
旺介は、不倫がバレたことを知らないようだった。一人だけ何も知らずに呑気ねとあす香は心のなかで呆れる。
旺介が愚かな男だということは知っていたが、あちらのほうはすごくいい。夫で満たされない欲を晴らし、自分がまだまだ極上の女であることを実感するには最高の相手。簡単に手放すことができないくらいには、旺介の身体に溺れていた。
「だから、今のうちにたくさんあす香さんを感じておきたい……」
旺介は彼女の背後から腕を回し、なめらかな女体に触れた。
一度落ち着いていた熱はすぐに火を取り戻す。そのまま二人は享楽の波に呑まれる。
――茂みからのぞく黒いカメラが、一心に二人を撮影していることも知らずに。
◇◇◇
妻の凛子と出会ったのは、大学の広告研究会だった。
俺が四年生になった年の新入生が凛子だった。
新歓ではなまり混じりの言葉で挨拶をしていて、陽キャの四年からずいぶんからかわれていた。凛子は「えへへ……」と頭をかいて照れたように笑っていた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの新人女子アナ・望月あす香をOGに持つこの研究会は、派手なグループとそうでないグループの差が激しい。俺は後者だったが、陽キャに気に入られたこの子はそっちのグループに入るのだろうなと思った。
しかし、意外なことに凛子は俺が属する地味なグループの輪にいることが多かった。田舎出身だからか騒がしい場所は苦手で、ここが落ち着くのだと言っていた。
小柄な体型ながら凛子は真っ直ぐな性格でエネルギーにあふれていた。授業をフルコマで取りながら、研究会の活動にも必ず万全の準備で望んでいた。
先輩として相談を受けたり、アドバイスを送ったりしているうちに、自然と惹かれ合うようになった。七夕の日に凛子に告白して、付き合うことになった。
数年は忙しくも楽しい日々が続いていた。凛子は料理が上手く、身の回りのこともすべて完璧にこなした。「実家が農家だからね、料理は母さんの手伝いで自然に覚えたの。弟は年が離れているから面倒見ることも多かったしね……」よく俺の家に来ては世話を焼いてくれた。
くたくたで仕事から帰っても、きれいな部屋に温かい料理が作られている。この子と付き合えてよかったと心から誇らしかった。
関係性が変わってしまったのは、おそらく凛子が就職して同棲するようになった頃からか。
ADはとにかく忙しい。番組の準備や収録した素材の編集が深夜に及ぶこともザラ。凛子の眉間にはつねに皺が寄るようになり、言葉にトゲが増えた。
「旺ちゃんのほうが帰りが早いんだから、夕飯の担当してくれると嬉しいんだけど」
「あーっ! シャンプー切らしてるじゃない。自分で買わないならわたしに連絡入れて? 帰りに買ってくるから」
「ごめんっ、明日ロケで早いから先に寝るね」
俺にしてほしいことや、我慢を強いるようなことしか言わなくなっていった。以前はあんなに気立てが良くて愛情深く世話してくれていたのに。
彼女でいいのかと思わなくもなかったが、今さら他の女性を探すのも面倒だったので、翌年には籍を入れた。派手にしたくないという凛子の意向を汲んで、お互いの家族だけを呼んだこぢんまりした結婚式だった。
凛子の仕事が落ち着いたら、また前のように優しく接してくれるだろうと思っていたが、それは間違いだった。
仕事にある程度慣れてくると、凛子はそろそろ子供のことも考えたいと言い始めた。そして勝手に婦人科に行き、多嚢胞性なんちゃらとかいう病気が見つかったと言って落ち込んでいた。
(おいおい勘弁してくれよ……。いつになったら俺は楽ができるんだ?)
妊活が、とか仕事が、という言葉が耳障りだった。
「共働きだから、家事を折半してくれると嬉しいんだけど」
その言葉も嫌だった。俺の母ちゃんも働いていたけど、家ではすべての家事を担っていたし。凛子は融通が利かないバズレの女だったことにようやく気がついた。
俺自身、子供は好きだ。だけど今この状況でできてみろ。俺はもっと大変になる。女性は母ちゃんみたい仕事をしながら家事育児に邁進するのが大前提だ。そしてエネルギッシュな凛子ならそれができると思ったから将来を約束したというのに――。
裏切られた気持ちで毎日を過ごしていたある日、体調を崩した先輩カメラマンの代打で春秋テレビのシフトに入った。
そこで俺は再会することになる。
俺が新入生だったときの四年生で、百合のように気高く美しかったひと――望月あす香。
「もしかして、浅倉くん?」
覚えてくれたことに、全身が歓喜の渦に飲み込まれる。
収録後、旧交を温めようと食事に誘われた。同じ映像業界にいるのだからと連絡先を交換した。
何度か会ううちに酒の勢いで身体の関係を持った。あす香さんはすでに既婚者だったが、旦那が不能で悩んでいると言っていた。子供を産んで、女性としての魅力が無くなったのかしら、とひどく悩んでいる様子だった。
『廉さんのために愛梨を産んだのに。わたしはもう用済みなんだわ。……夫婦いつまでも仲よくいられると思っていたのに、こんなのひどい』
さめざめと涙を流すあす香さんを抱きしめながら、『思っていたのと違う』という気持ちが痛いほどにわかった。俺だって凛子を選ばなければよかったと思っていたから。『こんなことになるなら結婚しなかったのに』と。
俺の身体であす香さんが満たされる。あの売れっ子俳優にできなかったことを俺はしている。肌を重ねると、生きている実感を取り戻すことができた。
不倫という形ではあるが、これは必然だと思った。そして俺は悪くない。この状況は、すべて凛子の至らなさが招いたものだから。
――これはあいつが俺をないがしろにしたことを謝って、また尽くすようになるまでの罰なのだ。
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