あさのかお
七話
『おはようございます。望月あす香が朝のニュースをお送りします。本日九月八日は二十四節気で白露ということで、大気が冷えてきて草木に露が宿るころと言われています。ですが列島は残暑とも言い難い暑さが続いており――』
テレビを流しながら凛子は出勤の準備をする。彼女がいるのはマンスリーマンションのワンルームではなく、高級感が漂う広いホテルのような部屋――廉の住むタワマンのゲストルームだった。
先日、もろもろの事情を知った廉がマンスリーマンションの費用を払うと申し出てくれたのだが、凛子はそこまでして貰う必要はないと断った。しかし廉も「妻のせいでこうなっているんだから」と引き下がらず、結局格安で借りられるマンション内のゲストルームを使わせてもらうことで話がまとまったのだった。凛子としては、ここならあす香の動向も把握しやすいだろう、というのが決定打だった。
髪は梳かしてきちんとセットし、化粧も自然な範囲でしっかりと。衣類もしわのないしゃんとしたものを。
旺介のために家事をする必要がなくなったので、身だしなみに気を使う時間ができた。伸び放題だった髪はまとまりのいいボブに切りそろえられ、前にいつ染めたのか思い出せないプリン頭も、ぱりっとしたビビットブラウンに染め直されている。
(――わたしって、こんな見た目だったっけ。きちんと鏡に向かうことすら久しぶりすぎる……)
心も身体も、なんだか生まれ変わったような心地だった。
ニュースを見ながら、スマホを取り出してポチポチと夏海に連絡を入れる。画面を戻ると、何個か下に浅倉旺介の名前があった。
――先月に家を出たあと、夫からは一度だけメッセージが来た。「意地を張るのはいいけど、家賃は折半だからな」と。
もちろん既読無視だ。
◇
職場の春秋テレビに着くと、凛子はAスタジオに向かった。
朝のニュース生放送が終わったところだった。凛子はつかつかと中に入っていく。
無遠慮な凛子にスタッフはなんだなんだと怪訝な目を向ける。
凛子はキャスター席に座って男性アナと談笑するあす香の前に立った。
「……あら、凛子ちゃん。今終わったところだけど、怖い顔してどうかした? なにか困ったことがあったなら力になるわよ」
人畜無害で清廉な笑顔を浮かべて。
その分厚い仮面をひっぺがしてやる。凛子はぎゅっとこぶしを握りしめ、腹に力を入れて微笑んだ。
「今日からニュース班に異動になりました、ADの浅倉凛子です。ずっとバラエティを担当していたので右も左もわかりませんが、ご指導よろしくお願いします」
凛子はあす香に向かって不敵な表情を向ける。あす香はきょとんとしてとぼけた顔をしていたが、凛子にしかわからないくらい僅かに唇の端を釣り上げた。
「……そう。そうそうそう! よろしくね凛子ちゃん。一緒に仕事ができるなんて嬉しいわぁ!」
凛子はもう目を逸らさない。地に足をつけて、しっかりと踏ん張っていた。
この女に地獄を見せるまでは、何度だって立ち上がってやると決意したのだった。
◇
「間違いないわ。あの不倫アカウント『いただきママ』は望月あす香の裏アカ――!」
Aスタジオを後にした凛子は確信していた。
以前夏海が見せてくれた、トイレでの胸元の自撮り写真。今朝ニュースを見ていたときに、猛暑日らしく露出多めなあす香の胸元を見ていて違和感を覚えていたのだ。すぐに夏海に連絡を入れ、いただきママのアカウントを送ってもらった。
デコルテの胸に近いところにあるほくろ。画像を拡大して確認したゴールドの細いネックレス。同じものをあす香もつけていた。
そして何より、いただきママのアイコンだ。タワマンの一部屋と思われたセレブな部屋は、廉の家のリビングに酷似していた。
「鍵垢にされないうちに捕まえておかないとね」
凛子は手早く裏垢を作成し、いただきママをフォローした。
いただきママの赤裸々な投稿がウケているのか、フォロワーは三千人を超えている。一人増えたところでいちいちあす香はチェックしないだろう。
投稿をスクロールすると、見覚えのあるカフェが映っていた。日付はあの日。
『HOTELデートで喉がカラカラになっちゃってカフェ来た♡ 今日も激しくて大満足ー♡ 奥様、ごめんなさい♡♡』
頭にかっと血がのぼり、鼓動が早くなる。
しかし凛子はもう間違えない。何度も深呼吸を繰り返し……投稿にイイネを押してスマホを消す。
「――大丈夫。わたしはひとりじゃない。絶対にあんな女に負けたりしない」
上司に無理を言ってバラエティー班からニュース班に異動させてもらったのだ。あの女と、正面切って戦うために。
旺介を取り戻したいわけじゃない。謝ってほしいわけでもない。
これは自分の尊厳を守るための戦いなのだ。
◇
その日の晩。
ゲストルームのテーブルの上にはずらりと小型カメラが並んでいた。目を丸くする廉に、凛子はえっへんと胸を張る。
「技術さんに頼んで貸してもらいました」
「こんなに……。すごいね、大変だったんじゃない?」
「いえ、皆さん一緒に番組を作ってきた仲間なので快く貸してくれました。一生懸命仕事してきた信頼をこういうところで感じるのは変な気分ですけどね……」
「立派なことだよ」
廉は凛子の頭を撫でた。そしてすぐに自分で自分に驚いた表情をして手を引っ込める。
「あっ、ごめん……!」
「あははっ。愛梨ちゃんじゃないんですから。わたしは心が広いので見逃しますよ」
「ほんとごめん。気が抜けてたのかな、めちゃくちゃ無意識だった」
廉は恥ずかしそうに自分の手を見つめて頬を赤く染めた。
有名俳優の素の表情に、凛子は心の奥が温かくなった。
「いま愛梨ちゃんはどうしてますか? もう寝てますかね」
「寝かしつけてからここに来た。あのシッターさんは住み込みだから、もし愛梨が起きても対応してくれるはずだ」
「……。あす香さんは……?」
「明日箱根でロケがあるみたいで、今日は会社から直接前乗りするって。……さすがにロケはほんとうだろうけど、前乗りについては疑わしいと思ってる」
ため息をついた廉を、凛子は明るい声で励ます。
「……憂鬱な気持ちになる日々も、あと少しで終わりです。その先にはきっと想像以上に楽しい未来が待っているはずですから、一緒に頑張りましょう?」
「……そうだね。覚悟を決めたはずなのに、励まされてばかりだ」
「切り替えの速さと猪突猛進さだけは天下一品だって、同期の子によく言われます。でも性格なんて人それぞれなんですから、小瀬田さんはそのままの優しい方でいてください」
廉は少し恥ずかしそうに礼を述べる。
話に区切りがつくと二人は廉の自宅に移動し、寝ている愛梨を起こさないよう物音に気をつけながら、各部屋に小型カメラを仕掛けたのだった。
テレビを流しながら凛子は出勤の準備をする。彼女がいるのはマンスリーマンションのワンルームではなく、高級感が漂う広いホテルのような部屋――廉の住むタワマンのゲストルームだった。
先日、もろもろの事情を知った廉がマンスリーマンションの費用を払うと申し出てくれたのだが、凛子はそこまでして貰う必要はないと断った。しかし廉も「妻のせいでこうなっているんだから」と引き下がらず、結局格安で借りられるマンション内のゲストルームを使わせてもらうことで話がまとまったのだった。凛子としては、ここならあす香の動向も把握しやすいだろう、というのが決定打だった。
髪は梳かしてきちんとセットし、化粧も自然な範囲でしっかりと。衣類もしわのないしゃんとしたものを。
旺介のために家事をする必要がなくなったので、身だしなみに気を使う時間ができた。伸び放題だった髪はまとまりのいいボブに切りそろえられ、前にいつ染めたのか思い出せないプリン頭も、ぱりっとしたビビットブラウンに染め直されている。
(――わたしって、こんな見た目だったっけ。きちんと鏡に向かうことすら久しぶりすぎる……)
心も身体も、なんだか生まれ変わったような心地だった。
ニュースを見ながら、スマホを取り出してポチポチと夏海に連絡を入れる。画面を戻ると、何個か下に浅倉旺介の名前があった。
――先月に家を出たあと、夫からは一度だけメッセージが来た。「意地を張るのはいいけど、家賃は折半だからな」と。
もちろん既読無視だ。
◇
職場の春秋テレビに着くと、凛子はAスタジオに向かった。
朝のニュース生放送が終わったところだった。凛子はつかつかと中に入っていく。
無遠慮な凛子にスタッフはなんだなんだと怪訝な目を向ける。
凛子はキャスター席に座って男性アナと談笑するあす香の前に立った。
「……あら、凛子ちゃん。今終わったところだけど、怖い顔してどうかした? なにか困ったことがあったなら力になるわよ」
人畜無害で清廉な笑顔を浮かべて。
その分厚い仮面をひっぺがしてやる。凛子はぎゅっとこぶしを握りしめ、腹に力を入れて微笑んだ。
「今日からニュース班に異動になりました、ADの浅倉凛子です。ずっとバラエティを担当していたので右も左もわかりませんが、ご指導よろしくお願いします」
凛子はあす香に向かって不敵な表情を向ける。あす香はきょとんとしてとぼけた顔をしていたが、凛子にしかわからないくらい僅かに唇の端を釣り上げた。
「……そう。そうそうそう! よろしくね凛子ちゃん。一緒に仕事ができるなんて嬉しいわぁ!」
凛子はもう目を逸らさない。地に足をつけて、しっかりと踏ん張っていた。
この女に地獄を見せるまでは、何度だって立ち上がってやると決意したのだった。
◇
「間違いないわ。あの不倫アカウント『いただきママ』は望月あす香の裏アカ――!」
Aスタジオを後にした凛子は確信していた。
以前夏海が見せてくれた、トイレでの胸元の自撮り写真。今朝ニュースを見ていたときに、猛暑日らしく露出多めなあす香の胸元を見ていて違和感を覚えていたのだ。すぐに夏海に連絡を入れ、いただきママのアカウントを送ってもらった。
デコルテの胸に近いところにあるほくろ。画像を拡大して確認したゴールドの細いネックレス。同じものをあす香もつけていた。
そして何より、いただきママのアイコンだ。タワマンの一部屋と思われたセレブな部屋は、廉の家のリビングに酷似していた。
「鍵垢にされないうちに捕まえておかないとね」
凛子は手早く裏垢を作成し、いただきママをフォローした。
いただきママの赤裸々な投稿がウケているのか、フォロワーは三千人を超えている。一人増えたところでいちいちあす香はチェックしないだろう。
投稿をスクロールすると、見覚えのあるカフェが映っていた。日付はあの日。
『HOTELデートで喉がカラカラになっちゃってカフェ来た♡ 今日も激しくて大満足ー♡ 奥様、ごめんなさい♡♡』
頭にかっと血がのぼり、鼓動が早くなる。
しかし凛子はもう間違えない。何度も深呼吸を繰り返し……投稿にイイネを押してスマホを消す。
「――大丈夫。わたしはひとりじゃない。絶対にあんな女に負けたりしない」
上司に無理を言ってバラエティー班からニュース班に異動させてもらったのだ。あの女と、正面切って戦うために。
旺介を取り戻したいわけじゃない。謝ってほしいわけでもない。
これは自分の尊厳を守るための戦いなのだ。
◇
その日の晩。
ゲストルームのテーブルの上にはずらりと小型カメラが並んでいた。目を丸くする廉に、凛子はえっへんと胸を張る。
「技術さんに頼んで貸してもらいました」
「こんなに……。すごいね、大変だったんじゃない?」
「いえ、皆さん一緒に番組を作ってきた仲間なので快く貸してくれました。一生懸命仕事してきた信頼をこういうところで感じるのは変な気分ですけどね……」
「立派なことだよ」
廉は凛子の頭を撫でた。そしてすぐに自分で自分に驚いた表情をして手を引っ込める。
「あっ、ごめん……!」
「あははっ。愛梨ちゃんじゃないんですから。わたしは心が広いので見逃しますよ」
「ほんとごめん。気が抜けてたのかな、めちゃくちゃ無意識だった」
廉は恥ずかしそうに自分の手を見つめて頬を赤く染めた。
有名俳優の素の表情に、凛子は心の奥が温かくなった。
「いま愛梨ちゃんはどうしてますか? もう寝てますかね」
「寝かしつけてからここに来た。あのシッターさんは住み込みだから、もし愛梨が起きても対応してくれるはずだ」
「……。あす香さんは……?」
「明日箱根でロケがあるみたいで、今日は会社から直接前乗りするって。……さすがにロケはほんとうだろうけど、前乗りについては疑わしいと思ってる」
ため息をついた廉を、凛子は明るい声で励ます。
「……憂鬱な気持ちになる日々も、あと少しで終わりです。その先にはきっと想像以上に楽しい未来が待っているはずですから、一緒に頑張りましょう?」
「……そうだね。覚悟を決めたはずなのに、励まされてばかりだ」
「切り替えの速さと猪突猛進さだけは天下一品だって、同期の子によく言われます。でも性格なんて人それぞれなんですから、小瀬田さんはそのままの優しい方でいてください」
廉は少し恥ずかしそうに礼を述べる。
話に区切りがつくと二人は廉の自宅に移動し、寝ている愛梨を起こさないよう物音に気をつけながら、各部屋に小型カメラを仕掛けたのだった。
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