あさのかお
六話
「おじゃまします……」
「どうぞ。悪いね、家まで来てもらっちゃって」
「こちらこそ、急にお時間取ってほしいだなんて無茶言ってすみません」
都内の高級住宅街にそびえ立つ、築浅のタワーマンション。
自分の住む壁の薄いアパートとは大違いだと凛子はドキドキしながら、小瀬田夫妻の部屋に入る。
すると、部屋の奥から小さな女の子が出てきた。そのうしろにはエプロンをつけたベビーシッターさんのような人が付き添っている。
「ママは? だあれ?」緊張しているのか女の子は険しい表情だ。
「こんにちは。浅倉凛子です。お父さんにご用事があるの。お家に上がってもいいかな?」
「愛梨、ご挨拶は?」
廉が促すと、愛梨は安心したように表情を明るくする。
丸く大きい瞳で凛子を見上げ、にこっと太陽のように笑った。
「こんにちは! なにもないところですが、ゆっくりしていってください!」
「こら。どこでそんな言葉を覚えたんだ」
廉はくしゃっと愛梨の頭を撫でる。愛梨は嬉しそうに廉の足にまとわりつく。
「あいり、まだ知ってることばあるよ! きょうはなんじまでいるー? とか、ごむかいにいってくる、 とか!」
「――――! 愛梨。パパはこのお姉さんとお話があるから、シッターさんと遊んで待っていて」
無邪気な顔から飛び出したえげつない言葉。
愛梨は不満そうな顔を浮かべたが、「はぁーい」とベビーシッターの手を取って子供部屋に消えていった。
「まさか、愛梨ちゃんが家にいるときでも……」
凛子が漏らすと廉は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そうみたいだね。僕が黙認しているのをいいことに……でもこれはさすがに……」
そんなことを呟きながら廉は凛子をリビングに案内する。床におもちゃが散らばっているものの、高級感のある広々とした空間だった。
向き合って大きなテーブルに着席する。
「連絡をくれたのは……妻のこと、だよね?」
廉が訊ねると、凛子は力強くうなずいた。
そしてカフェで別れてから起こったすべての出来事を伝える。廉は目を見開き、そして申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん……そんなことになっていたなんて。俺だけいつも通りの生活をしていたことが恥ずかしい」
「いえ、それは気にしないでください。芸能人という立場を考えれば、感情のままに動くことは難しいって少しは分かっているつもりです……」
凛子は机の上で組んだ手に力を込める。
「今日お時間をいただいたのは許可をいただくためです」
「許可?」
「はい。わたしはあの二人に復讐をしようと思ってます」
凛子は芯のある声で言い切った。
「小瀬田さんを巻き込むつもりはないですが、影響がゼロというわけにはいかないはずです。要は望月あす香のスキャンダルという形になるってしまうので」
「…………」
廉は考え込んだ。
それはそうだ、と凛子は思う。廉だって不快な思いをしていたはずなのに、今まで我慢していたのは立場があるからだ。事務所のことや、俳優としてのブランディングやイメージがあるから。不愉快なことではあるが、妻が望月あす香だから入ってきた仕事もあるだろう。
しかし、凛子の予想より早く廉は顔を上げる。
「わかった。僕も覚悟を決めるよ」
「えっ」
「とあることがあって、妻のことはずいぶん前から女性としては見られなくなっているんだ。……実は、愛梨の父親は誰かわからない」
「…………っ!」
凛子は絶句した。
◇◇◇
――それは廉が無精子症だとわかった日のこと。
あす香と結婚して三年が経つが、なかなか子供が出来ないため、まずは自分からとこっそり検査を受けに行ったのだった。
「小瀬田さん、あなたは無精子症でした。100%妊娠は不可能なので、お子さんが欲しい場合は養子をご検討したほうが良いかと」
医師は気の毒そうな顔で結果を述べた。
医療モールの外で改めて検査結果の紙を見て、駅のトイレで涙を流し、笑顔が作れるようになってから家に帰った。
すると、妻が喜びいっぱいの顔で出迎えた。手には妊娠検査薬のスティックを持っている。
「廉さん聞いて! わたし妊娠したみたい! こんなことってあるのね、嬉しいわ!」
「えっ…………」
――そんなこと、あるはずがない。
だって僕は無精子症だから。診察室のモニターには一匹の精子も映っていなかった。万に一度も子供ができることはないでしょうと、今さっき告知されてきたばかりなのに。
「誰の子供だ?」そんな残酷なことは聞き返せなかった。
固まる廉を、あす香は喜びで言葉を失っているのだと理解した。彼に抱きついて喜びの涙を流す。
「なかなか出来なくて苦労したぶん、産まれたらたくさん可愛がりましょうね!」
「あ……ああ……」
廉は背中で検査結果の紙を握りつぶした。
――数週間がたち、葛藤の末に廉は状況を受け入れることにした。
どうせ自分の血のつながった子供はできないのだ。であれば、種がどこから来たかなんて重要じゃない。大切なのは、今妻のお腹に宿っているのは『うちの子』であるということだ――。
一人っ子で、両親を早くに亡くして祖母の家で育った廉は、賑やかな家族へのあこがれが強かった。芸能界に入ったのも、早く自立して祖母を楽にさせたかったからだ。自分のことでこれ以上祖母に苦労をかけたくなかった。
その日から廉は、『家族』を壊さないように、自分の心を削りながら生きていくことになる。
しかしこの件は廉の心を確実に蝕んでいた。
夫婦の夜の営みで失敗することが増えていった。あす香は口では優しく慰めの言葉をくれるが、内心よく思っていないのは明らかだった。
そしてしだいに彼女は廉に見切りをつけたらしく、愛梨をシッターに任せきりになり、不倫をするようになる。
「その相手が愛梨の父親なのか……?」そう思いながらも、今の家族を失うのが怖くて、廉は見て見ぬふりを続けるのだった。
◇
「じゃ、じゃあ……もしかして愛梨ちゃんの父親は旺ちゃん……?」
言いながら凛子は胃の中のものが込み上げてきて、口元を強く抑えた。
廉は急いで立ち上がって彼女の背後に回り、背中をさする。
「ごめん、そういうつもりじゃ……!」
「うっ……。ごめんなさい、お手洗い……」
「こっち」
バタバタとトイレに駆け込む騒がしい音に、愛梨がひょこっと子供部屋から顔を出す。
「どうしたのー? おねえさん、きもちわるくなっちゃったの?」
「心配ありがとう、愛梨」
廉はしゃがんで愛梨の頭を撫でる。
妻は愛梨を産むと、仕事は終えたとばかりに家に寄り付かなくなった。
仕事だと嘘をついては不倫を繰り返し、家事と育児はシッターと廉に任せきりになった。母親であるより自由な女であることを選んだのだ。
(……グッドマザー賞が聞いて呆れる。僕はこんな家庭が築きたかったわけじゃない)
長い間閉じ込めていた思いが、凛子によって色を取り戻したようだった。
青い顔をした凛子がトイレから出てくると、廉は立ち上がってまっすぐに凛子を見つめた。
「僕の知る限りでは、妻は複数の男と関係を持っています。だから本当のところはわかりません。すみません」
「……そうなんですね。すみません、早とちりを」
「いえ。凛子さんのおかげで僕も目が覚めました。妻には自分のしたことの責任をとってもらいましょう。自分の身は自分で守るし、愛梨も僕が守ります」
廉は決意の表情を浮かべ、握手を求めるように手を差し出したが、凛子は戸惑う。
「にいいんですか? 時間をかけて考えたほうが……」
「いいんです。僕はただずっと逃げていた。遅いくらいです」
どこか晴れ晴れとした口調に、ようやく凛子も安堵の色を浮かべる。
「じゃあ……よろしくお願いします」握った手は、大きくて温かかった。
「あいりもあくしゅするー! よろしくたのむぜあいぼうー!」
無邪気な声に二人は思わず吹き出した。
「だからそれ、どこで覚えてくるんだ?」
「ほいくえん。あいりとねねちゃんはあいぼうなの」
「羨ましいなあ、相棒。お姉さんも仲間に入れてほしいな?」
凛子がしゃがんで愛梨と目線を合わせる。愛梨はぱっと嬉しそうに表情を明るくした。
「いいよ! おねえさん、やさしいからあいりすき!」
愛梨は凛子に抱きついた。
凛子も嬉しくなって、ぎゅっと抱きしめ返す。子供はいい匂いがして、温かくて、柔らかかった。
そんな二人の様子を、廉はまぶしそうに眺めるのだった。
「どうぞ。悪いね、家まで来てもらっちゃって」
「こちらこそ、急にお時間取ってほしいだなんて無茶言ってすみません」
都内の高級住宅街にそびえ立つ、築浅のタワーマンション。
自分の住む壁の薄いアパートとは大違いだと凛子はドキドキしながら、小瀬田夫妻の部屋に入る。
すると、部屋の奥から小さな女の子が出てきた。そのうしろにはエプロンをつけたベビーシッターさんのような人が付き添っている。
「ママは? だあれ?」緊張しているのか女の子は険しい表情だ。
「こんにちは。浅倉凛子です。お父さんにご用事があるの。お家に上がってもいいかな?」
「愛梨、ご挨拶は?」
廉が促すと、愛梨は安心したように表情を明るくする。
丸く大きい瞳で凛子を見上げ、にこっと太陽のように笑った。
「こんにちは! なにもないところですが、ゆっくりしていってください!」
「こら。どこでそんな言葉を覚えたんだ」
廉はくしゃっと愛梨の頭を撫でる。愛梨は嬉しそうに廉の足にまとわりつく。
「あいり、まだ知ってることばあるよ! きょうはなんじまでいるー? とか、ごむかいにいってくる、 とか!」
「――――! 愛梨。パパはこのお姉さんとお話があるから、シッターさんと遊んで待っていて」
無邪気な顔から飛び出したえげつない言葉。
愛梨は不満そうな顔を浮かべたが、「はぁーい」とベビーシッターの手を取って子供部屋に消えていった。
「まさか、愛梨ちゃんが家にいるときでも……」
凛子が漏らすと廉は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そうみたいだね。僕が黙認しているのをいいことに……でもこれはさすがに……」
そんなことを呟きながら廉は凛子をリビングに案内する。床におもちゃが散らばっているものの、高級感のある広々とした空間だった。
向き合って大きなテーブルに着席する。
「連絡をくれたのは……妻のこと、だよね?」
廉が訊ねると、凛子は力強くうなずいた。
そしてカフェで別れてから起こったすべての出来事を伝える。廉は目を見開き、そして申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん……そんなことになっていたなんて。俺だけいつも通りの生活をしていたことが恥ずかしい」
「いえ、それは気にしないでください。芸能人という立場を考えれば、感情のままに動くことは難しいって少しは分かっているつもりです……」
凛子は机の上で組んだ手に力を込める。
「今日お時間をいただいたのは許可をいただくためです」
「許可?」
「はい。わたしはあの二人に復讐をしようと思ってます」
凛子は芯のある声で言い切った。
「小瀬田さんを巻き込むつもりはないですが、影響がゼロというわけにはいかないはずです。要は望月あす香のスキャンダルという形になるってしまうので」
「…………」
廉は考え込んだ。
それはそうだ、と凛子は思う。廉だって不快な思いをしていたはずなのに、今まで我慢していたのは立場があるからだ。事務所のことや、俳優としてのブランディングやイメージがあるから。不愉快なことではあるが、妻が望月あす香だから入ってきた仕事もあるだろう。
しかし、凛子の予想より早く廉は顔を上げる。
「わかった。僕も覚悟を決めるよ」
「えっ」
「とあることがあって、妻のことはずいぶん前から女性としては見られなくなっているんだ。……実は、愛梨の父親は誰かわからない」
「…………っ!」
凛子は絶句した。
◇◇◇
――それは廉が無精子症だとわかった日のこと。
あす香と結婚して三年が経つが、なかなか子供が出来ないため、まずは自分からとこっそり検査を受けに行ったのだった。
「小瀬田さん、あなたは無精子症でした。100%妊娠は不可能なので、お子さんが欲しい場合は養子をご検討したほうが良いかと」
医師は気の毒そうな顔で結果を述べた。
医療モールの外で改めて検査結果の紙を見て、駅のトイレで涙を流し、笑顔が作れるようになってから家に帰った。
すると、妻が喜びいっぱいの顔で出迎えた。手には妊娠検査薬のスティックを持っている。
「廉さん聞いて! わたし妊娠したみたい! こんなことってあるのね、嬉しいわ!」
「えっ…………」
――そんなこと、あるはずがない。
だって僕は無精子症だから。診察室のモニターには一匹の精子も映っていなかった。万に一度も子供ができることはないでしょうと、今さっき告知されてきたばかりなのに。
「誰の子供だ?」そんな残酷なことは聞き返せなかった。
固まる廉を、あす香は喜びで言葉を失っているのだと理解した。彼に抱きついて喜びの涙を流す。
「なかなか出来なくて苦労したぶん、産まれたらたくさん可愛がりましょうね!」
「あ……ああ……」
廉は背中で検査結果の紙を握りつぶした。
――数週間がたち、葛藤の末に廉は状況を受け入れることにした。
どうせ自分の血のつながった子供はできないのだ。であれば、種がどこから来たかなんて重要じゃない。大切なのは、今妻のお腹に宿っているのは『うちの子』であるということだ――。
一人っ子で、両親を早くに亡くして祖母の家で育った廉は、賑やかな家族へのあこがれが強かった。芸能界に入ったのも、早く自立して祖母を楽にさせたかったからだ。自分のことでこれ以上祖母に苦労をかけたくなかった。
その日から廉は、『家族』を壊さないように、自分の心を削りながら生きていくことになる。
しかしこの件は廉の心を確実に蝕んでいた。
夫婦の夜の営みで失敗することが増えていった。あす香は口では優しく慰めの言葉をくれるが、内心よく思っていないのは明らかだった。
そしてしだいに彼女は廉に見切りをつけたらしく、愛梨をシッターに任せきりになり、不倫をするようになる。
「その相手が愛梨の父親なのか……?」そう思いながらも、今の家族を失うのが怖くて、廉は見て見ぬふりを続けるのだった。
◇
「じゃ、じゃあ……もしかして愛梨ちゃんの父親は旺ちゃん……?」
言いながら凛子は胃の中のものが込み上げてきて、口元を強く抑えた。
廉は急いで立ち上がって彼女の背後に回り、背中をさする。
「ごめん、そういうつもりじゃ……!」
「うっ……。ごめんなさい、お手洗い……」
「こっち」
バタバタとトイレに駆け込む騒がしい音に、愛梨がひょこっと子供部屋から顔を出す。
「どうしたのー? おねえさん、きもちわるくなっちゃったの?」
「心配ありがとう、愛梨」
廉はしゃがんで愛梨の頭を撫でる。
妻は愛梨を産むと、仕事は終えたとばかりに家に寄り付かなくなった。
仕事だと嘘をついては不倫を繰り返し、家事と育児はシッターと廉に任せきりになった。母親であるより自由な女であることを選んだのだ。
(……グッドマザー賞が聞いて呆れる。僕はこんな家庭が築きたかったわけじゃない)
長い間閉じ込めていた思いが、凛子によって色を取り戻したようだった。
青い顔をした凛子がトイレから出てくると、廉は立ち上がってまっすぐに凛子を見つめた。
「僕の知る限りでは、妻は複数の男と関係を持っています。だから本当のところはわかりません。すみません」
「……そうなんですね。すみません、早とちりを」
「いえ。凛子さんのおかげで僕も目が覚めました。妻には自分のしたことの責任をとってもらいましょう。自分の身は自分で守るし、愛梨も僕が守ります」
廉は決意の表情を浮かべ、握手を求めるように手を差し出したが、凛子は戸惑う。
「にいいんですか? 時間をかけて考えたほうが……」
「いいんです。僕はただずっと逃げていた。遅いくらいです」
どこか晴れ晴れとした口調に、ようやく凛子も安堵の色を浮かべる。
「じゃあ……よろしくお願いします」握った手は、大きくて温かかった。
「あいりもあくしゅするー! よろしくたのむぜあいぼうー!」
無邪気な声に二人は思わず吹き出した。
「だからそれ、どこで覚えてくるんだ?」
「ほいくえん。あいりとねねちゃんはあいぼうなの」
「羨ましいなあ、相棒。お姉さんも仲間に入れてほしいな?」
凛子がしゃがんで愛梨と目線を合わせる。愛梨はぱっと嬉しそうに表情を明るくした。
「いいよ! おねえさん、やさしいからあいりすき!」
愛梨は凛子に抱きついた。
凛子も嬉しくなって、ぎゅっと抱きしめ返す。子供はいい匂いがして、温かくて、柔らかかった。
そんな二人の様子を、廉はまぶしそうに眺めるのだった。
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