あさのかお
五話
「おはよう凛子ちゃん」
凛子の姿に気がつくと、鈴を転がすような声であす香は声をかけた。
「おはよう、ございます……」
「あら、今日は元気がないのね。このコーヒー、まだ口をつけてないからあげるわ」
「……いえ、大丈夫です」
凛子が断ったことで、あす香は怪訝な顔をする。
「……どうしたの? 旦那さんと喧嘩でもした? わたしでよければ相談に乗るわよ」
凛子の肩がピクリと跳ねる。――誰のせいでこんな事になってると思っているのか。
あす香のすべてが白々しく感じられた。全身が粟立つような気持ち悪さに襲われて、ひとこと言ってやらずにはいられなかった。
「あす香さん。昨日の昼、何してましたか……?」
うつむきながら精一杯声を絞り出すと、しばらく妙な沈黙が流れた。その間、頭のてっぺんからつま先まで眺め回されている感覚があった。
そして最後に――フンッと鼻でせせら笑う音が聞こえた。
「……あら。もしかして凛子ちゃん、気がついちゃった?」
「――!」
目を上げると、鼻の先がつくほど近い距離にあす香の顔が迫っていた。
あす香はニイッと唇の端を上げると、凛子の腕をグイッと引いて、すぐそこの非常階段に出る。
手すりに背中を押し付けられる凛子。十数メートル下の地上が視界に入ってひゅっと息を呑む。
「――いいこと? 凛子ちゃん」
あす香は聖女のような朝の顔ではなく、悪魔のような笑みを浮かべていた。
「あなたがいけないのよ。みすぼらしい身なりをして、〝わたしは頑張ってます〟って必死ぶっちゃって。あなたが裏でどう呼ばれてるか知ってる? ……『やる気の押し付け』よ」
「――――っっ」
あす香はまつ毛エクステのついた大きな瞳を凛子の顔に寄せる。
「あなたの代わりなんていくらでもいるのに、馬ッッ鹿みたい」
驚きと恐怖で動けない凛子に、あす香は勝ち誇った表情を浮かべる。
手に持っていたコーヒーの紙カップを凛子の頭上で傾けた。黒い筋が頬をつたい、白いシャツを絶望の色に染めてゆく。
「まあまあまあ、お話ができなくなっちゃったみたいね。アナウンサーのわたしが発声練習を教えてあげましょうか? ――バラバリバルバレバロ」
「…………っ」
「もしかしてお耳も聞こえない?」
あす香は凛子の耳をぐいっと掴み、艶やかな唇を寄せる。
「シマシミシムシメシモ セマセミセムセメセモ……」
歌うような妖しい声に、凛子はブルブルと震えだす。
あす香はつまらなさそうに凛子を突き放した。
「――わかっていると思うけど、この件はわたしと凛子ちゃんだけの秘密よ。バラして会社にいられなくなるのはわたしじゃなくてあなただから。 局の顔である看板アナとボロ雑巾みたいなADじゃ、どちらが惜しいか一目瞭然よね?」
凛子は声一つ出せないままだ、膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「やだ、地面に座るなんてやっぱりガサツね。……じゃ、せいぜい代わりのきく仕事を頑張って。――『今日も良い一日を』」
クスクスと笑いながらあす香は非常階段を後にした。
◇
その日の仕事をどうこなしたのか凛子は覚えていない。
仮眠室ではなくマンスリーマンションを借りて部屋に入った途端、すべての人間らしい感情が戻ってきた。
ここ数日で自分に降り掛かった出来事を思い出す。旺介とあす香の裏切り、容赦のない陰口、理不尽な嫌がらせ……。
「どうしてわたしがこんな目に……」
一生懸命仕事してただけなのに。子供ができる前にたくさん稼いで、旺介と幸せな家庭を作りたかっただけなのに。
なんにも高望みはしていないし、誰にも迷惑はかけていない。なのにどうして――!
「……絶対に許さない」
コーヒーで汚れたシャツを前にして、凛子は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。ぽた、ぽた、とシャツに赤いものが垂れ落ちる。
――人の人生をめちゃくちゃにした罪は、必ず償ってもらう。
生半可な方法では意味がない。心の底から反省し、自分のしたことを後悔させないといけない。必ず落とし前をつけてもらう。
「ボロ雑巾に足を取られて転ぶ人間だっているのよ。覚悟しなさい……!」
凛子があす香に抱いていた親愛と憧れ、旺介に抱いていた安らぎと情愛は跡形もなく消え去っていた。
ごしっと唇を袖で拭う。
「――もう負けない。あらゆる手を使ってあなたたちを追い詰めてやる」
凛子はスマホを取り出す。まっさらなメッセージアプリの『友達』欄をスクロールして、小瀬田廉をタップした。
凛子の姿に気がつくと、鈴を転がすような声であす香は声をかけた。
「おはよう、ございます……」
「あら、今日は元気がないのね。このコーヒー、まだ口をつけてないからあげるわ」
「……いえ、大丈夫です」
凛子が断ったことで、あす香は怪訝な顔をする。
「……どうしたの? 旦那さんと喧嘩でもした? わたしでよければ相談に乗るわよ」
凛子の肩がピクリと跳ねる。――誰のせいでこんな事になってると思っているのか。
あす香のすべてが白々しく感じられた。全身が粟立つような気持ち悪さに襲われて、ひとこと言ってやらずにはいられなかった。
「あす香さん。昨日の昼、何してましたか……?」
うつむきながら精一杯声を絞り出すと、しばらく妙な沈黙が流れた。その間、頭のてっぺんからつま先まで眺め回されている感覚があった。
そして最後に――フンッと鼻でせせら笑う音が聞こえた。
「……あら。もしかして凛子ちゃん、気がついちゃった?」
「――!」
目を上げると、鼻の先がつくほど近い距離にあす香の顔が迫っていた。
あす香はニイッと唇の端を上げると、凛子の腕をグイッと引いて、すぐそこの非常階段に出る。
手すりに背中を押し付けられる凛子。十数メートル下の地上が視界に入ってひゅっと息を呑む。
「――いいこと? 凛子ちゃん」
あす香は聖女のような朝の顔ではなく、悪魔のような笑みを浮かべていた。
「あなたがいけないのよ。みすぼらしい身なりをして、〝わたしは頑張ってます〟って必死ぶっちゃって。あなたが裏でどう呼ばれてるか知ってる? ……『やる気の押し付け』よ」
「――――っっ」
あす香はまつ毛エクステのついた大きな瞳を凛子の顔に寄せる。
「あなたの代わりなんていくらでもいるのに、馬ッッ鹿みたい」
驚きと恐怖で動けない凛子に、あす香は勝ち誇った表情を浮かべる。
手に持っていたコーヒーの紙カップを凛子の頭上で傾けた。黒い筋が頬をつたい、白いシャツを絶望の色に染めてゆく。
「まあまあまあ、お話ができなくなっちゃったみたいね。アナウンサーのわたしが発声練習を教えてあげましょうか? ――バラバリバルバレバロ」
「…………っ」
「もしかしてお耳も聞こえない?」
あす香は凛子の耳をぐいっと掴み、艶やかな唇を寄せる。
「シマシミシムシメシモ セマセミセムセメセモ……」
歌うような妖しい声に、凛子はブルブルと震えだす。
あす香はつまらなさそうに凛子を突き放した。
「――わかっていると思うけど、この件はわたしと凛子ちゃんだけの秘密よ。バラして会社にいられなくなるのはわたしじゃなくてあなただから。 局の顔である看板アナとボロ雑巾みたいなADじゃ、どちらが惜しいか一目瞭然よね?」
凛子は声一つ出せないままだ、膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「やだ、地面に座るなんてやっぱりガサツね。……じゃ、せいぜい代わりのきく仕事を頑張って。――『今日も良い一日を』」
クスクスと笑いながらあす香は非常階段を後にした。
◇
その日の仕事をどうこなしたのか凛子は覚えていない。
仮眠室ではなくマンスリーマンションを借りて部屋に入った途端、すべての人間らしい感情が戻ってきた。
ここ数日で自分に降り掛かった出来事を思い出す。旺介とあす香の裏切り、容赦のない陰口、理不尽な嫌がらせ……。
「どうしてわたしがこんな目に……」
一生懸命仕事してただけなのに。子供ができる前にたくさん稼いで、旺介と幸せな家庭を作りたかっただけなのに。
なんにも高望みはしていないし、誰にも迷惑はかけていない。なのにどうして――!
「……絶対に許さない」
コーヒーで汚れたシャツを前にして、凛子は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。ぽた、ぽた、とシャツに赤いものが垂れ落ちる。
――人の人生をめちゃくちゃにした罪は、必ず償ってもらう。
生半可な方法では意味がない。心の底から反省し、自分のしたことを後悔させないといけない。必ず落とし前をつけてもらう。
「ボロ雑巾に足を取られて転ぶ人間だっているのよ。覚悟しなさい……!」
凛子があす香に抱いていた親愛と憧れ、旺介に抱いていた安らぎと情愛は跡形もなく消え去っていた。
ごしっと唇を袖で拭う。
「――もう負けない。あらゆる手を使ってあなたたちを追い詰めてやる」
凛子はスマホを取り出す。まっさらなメッセージアプリの『友達』欄をスクロールして、小瀬田廉をタップした。
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